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「春日井シンポジウム 4」という本の中の細矢藤策著「美濃尾張の鉄 そして渡来人」の中に、真清田神社と同系列の「村国真墨田神社」が名鉄犬山線の終点になる「鵜沼」にあるということで、今年の1月2日天気もよく、午後、でかけてみた。
神社は、鵜沼駅の北西、歩いて5分ほどのとこにある。
お正月ということで、初詣の人たちが次々に訪れていたが、参拝するのに並ばなくてはいけないというほどではなかった。
由緒書は、下記のとおり、
「当社の祭神は天之火明命、彦火火出見命、金山彦命、罔象女命、村国雄依である。社名の由来は南宮、真墨田、村国を組み合わせて美濃の南宮神社の系列で尾張の真清田神社と同系である。村国は飛鳥時代当地を治めた村国氏の祖を祀ることで付けられたものでこの地に散在する古墳が村国氏にゆかりが深いことはよくこれを物語っている。醍醐天皇の御代の延喜神名帳には村国大明神とあり、天正12年までは南町部落郷倉にあった。戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね永正3年時の城主大沢和泉守吉正の弟大沢次郎左衛門正継が出家の折奉納した愛刀村正は現在神刀として保存されている。永禄10年鵜沼城は落城し織田領となり天正12年小牧長久手の戦いに船頭かしら河村惣六は豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力その功により馬5頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり、之を奉納し当社の宝物となっている。惣六は喜んで村中氏子の同意を得、現在地に神殿を造営奉遷し現在に到っている。一番古い標札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である。」
祭神のなかの「村国雄依」は、前記の著書によれば、
「壬申の乱の功により尾張大隅と共に功田十町を贈られた村国連雄依は、大海人皇子の命により和珂部臣君手・身毛君広(むげきみひろ)とともに大海人皇子に派遣され、多品治や諸国司等に兵を発するよう命令を伝えて不破関を塞いだ。彼は美濃国各務郡の豪族で、本貫地は岐阜県各務原市鵜沼付近一帯に比定されている。(中略) 村国雄依は尾張氏の配下にあって鍛冶・鋳物等の生産力を背景に、同じ職能の多品治・尾張大隅・小子部鉏鉤等との連携役を命じられ、その功績の故に尾張一宮の鍛冶神として祀られたのではなかろうか。」
拝殿屋根には、三つ巴の紋。
社殿は小高いところに建っていて、本殿の姿は塀に阻まれて見ることはできなかったが、拝殿の雰囲気からすると流れ造りであろうと思う。
拝殿の中には、奉納された鏡餅と酒が並ぶ。
小高い狭い社域の西側に、山神社、洲原社、御鍬社、天満社、秋葉社、雨之宮社の末社が並び、下の低い広い社域には、金毘羅社、護国神社、恵比須大黒神社が並び、少し離れて、稲荷神社がある。
参拝のあと、神社の北東の小高いところに「金縄塚古墳」があるので、そこへ向かった。
この古墳について、教育委員会の説明板があった。
「金縄塚古墳は、直径37m、高さ6mの円墳です。現在古墳の中央部が深く窪んでいるのは、江戸時代に削られたためです。伝説では、この時、名前の由来ともなった金の縄のようなものや、土器などが出土したとされています。」
その説明版には、この地、各務原の古墳群についての説明もあった。
「各務原台地東部の鵜沼地区には、今から1600年ほど前の古墳時代前期に築造された古墳が所在しています。『三角縁神獣鏡』と呼ばれる鏡を出土した『一輪山古墳(いちりんやまこふん)』、全長120mで県下第2位の規模を誇る前方後円墳の『坊の塚古墳』、直径52mで県下最大規模の円墳である『衣裳塚古墳』そして、ここ鵜沼東町の丘陵上に位置する『金縄塚古墳(きんじょうつかこふん)』です。このように、鵜沼地区の台地縁辺部に、これらの有力な古墳が所在していることは、この地が美濃と尾張の木曽川の渡河地点であると共に、河川交通の要衡として、当時から重要視されていたからであると考えられます。」
この地は、木曽川が山地から濃尾平野に出る口にあり、対岸には、犬山の古墳群もあり、水運が重要であった時代では、この地をおさえることは大きな力になっただろうことは想像できる。
古墳のすぐ北側に現代の墓地があり、その口、道路に面して「庚申塚」もたっていた。
この台地から、南には木曽川対岸の犬山城が、
西には、伊吹山を望むことができる。
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番外篇 美濃を歩く
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