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また汐合橋へ戻り、五十鈴川の堤防沿いに河口のほうへ歩く。
国道42号線を渡り、さらに河口の方へ行くと、堤防の脇に神宮御料の塩田、「御塩浜」がある。
説明板があり、ところどころかすれて読めなくて、数値以外は想像すると下記のようになる。
「北に大湊の港がはるかに望まれる景勝の地、清流五十鈴川の河口に程近いこのあたりは、海水と淡水がほどよく混合して細かいよい塩ができる場所であります。
松林に囲まれた御塩浜の広さは、6600㎡。入浜式塩田の構造をもち約○○の干潮満潮の差を利用して御塩浜に海水を導いています。
濃い塩水を採る採液作業は一年で最も暑い7月から8月の土用中に約1週間行われます。
朝の海水でしめった砂をまく「浜をひろける」作業、昼間での砂を乾きやすくするための「浜をかえす」作業、そして、夕方この砂を沼井という穴に集め海水を注ぐ「潮をおそう」作業で一日がかりです。こうして鹹水とよばれる15〜16度の濃い塩水は一日約一石六斗(190リットル)採取されます。
ここで採れた鹹水は、○○程はなれた御塩焼所で堅塩となり神宮の御神饌のうち最も重要なお物としてお供えされ、また御祓、お清めの神事に使われます。
入口には神さびた黒木の鳥居が立ち、この地が神さまの大切な浜であることを示しています。」
鳥居にはられた注連縄には榊の枝とシダが挿し込まれている。
このあたりからも、朝熊山の美しい姿が望まれる。
五十鈴川沿いにさらに下流へ行くと、河口に位置する「今一色」の集落になる。
集落を海の方向へ抜けて少し行くと小高いところに「高城神社(たかしろじんじゃ)」がある。
説明板があり、それによると、
「高城神社は、ここ高城浜の砂丘にあり学問の神、菅原道真公と水神(水を主宰する神「弥都波能売神(みずはのめのかみ)」や秋葉の神(火を主宰する神)が合祀されています。
この神社は、以前今一色小学校校舎の裏地に祭られていましたが、明治40年の三重県訓令(神社の合祀)をうけ明治41年に溝口地区の姫宮稲荷へ西二見地区の氏神様が合祀され、村社二見神社として崇敬されてきました。その後、昭和29年分離復帰し、高城神社として現在の地に移転されました。
また、境内には今一色区の生んだ日本画家中村左州翁の遺徳を顕彰する筆塚が建てられています。」
明治時代の神社合併の勅令によって約8万社の神社が消え去ったそうだが、この高城神社のように復活したものもあるんだなあ。。。。
社殿は南向きに建つ。
本殿は、神明造りで、石垣に囲まれているのが印象的だ。
祭神は、奉納された扁額に記されていた。
大若子命というには、ネット検索によると、度会氏の祖先神。
「説話上の伊勢神宮の初代大神主。伊勢外宮神主家としての度会氏において祖先とされた神である。『倭姫命世紀』『豊受大神宮禰宜補任次第』などによると,垂仁天皇の代の伊勢内宮鎮座の際,自らの領する櫛田川以東の伊勢国(三重県)南部を神宮に納め,その地の支配者として神国造となり,大神宮大神主を兼ねたという。また越の国(福井,石川,富山,新潟)征討に行くよう命を受け,その平定の報告をしたところ,朝廷から大幡主の名を与えられた。神国造兼大神主は大若子命の子孫が継ぎ,外宮創建後は内外両宮大神主となり,のちには外宮神主のみとなる。 」
拝殿の内には、騎馬武者の額が奉納されている。
上田正昭著「東アジアと海上の道」によると、明治時代、神社合併には、日本における生態学の先達、南方熊楠が、鎮守の森が消滅して植物の生態が破壊されることを憂え、、神社とその聖域が、村落共同体の寄り合いの場であり、村の「いのち」であることを見抜いて、反対したそうで、こうしてまた鎮守の森が復活していくということは良いことだと思う。 |

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