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多奈波太神社から北東へ1kmほどのところの住宅街の中に、式内社の「綿神社」はある。
入口は狭いが、境内は思ったより森が大きく広い。
由緒書板があり、
「祭神 玉依比売命(神武天皇の御母)、応神天皇(八幡様)
(一)綿神社の創建は大変古く文字の使用もなかった弥生前期に九州の弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ拡めた基となった。其の中核は北九州「志賀」の安曇部族であろう。即ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し、此の新天地も亦「志賀」と偲び名し同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同列の社なり」と記され本国帳にも従三位綿天神(略)綿は海の仮字にて(略)昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしまししなり(略)とある。文字の転化は縁起や因縁等時代により珍しい事ではない。
(二)志賀村の領主平手政秀(織田家の家老で信長の師傳役(もりやく))は常に信長の奇行を心痛せるが、天文21年綿神社を再建し「願主政秀」と刻銘せる神鏡と自ら手彫りの狛犬一対を奉納した(信長も槍先一穂奉納)。政秀の祈願は察するに余りあるも祈願空しく翌天文22年正月13日遂に諫死するに至った。爾後信長の態度一変し天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。
(註1)綿神社は尾張藩主の崇敬も厚く「別社児子宮」もあり御幼君には御札守り等も差し上げ、赤丸神事の例祭3月14日には子供を連れての庶人参詣群をなす様は「尾張名所図絵」にも描かれている。「児子宮」は徳川時代志賀村が東西に分かれた時、東志賀村へ移譲された。
(註二)慶長以後の再建も数度ありしが現在殿は太平洋戦火により名古屋城と運命を共にしたのを明治百年記念事業として昭和45年に完工されたものである。」
綿神社の「綿」は、海神の「綿津見(わたつみ)」の「綿」で「海」を表し、九州志賀島の安曇海人がこの地に移り住み、地名も「志賀」としたのだそうだ。
教育委員会の説明板もあって、祭神については、「誉田別尊(応神天皇)、玉依比売命、神功皇后」と、神功皇后も加わる。
玉依比売は、海幸・山幸伝説の山幸の妻である海神の娘豊玉比売の妹。
江戸時代は「八幡宮」となっていたとのことで、そのときに祭神の応神天皇と神功皇后は加えられたのだろう。
社殿は、コンクリート造りで、南向きに建つ。
拝殿正面の鬼瓦には「橘」の紋がつく。
拝殿内部の垂れ幕には、八幡さまの「三つ巴」の紋も見られる。
祭文殿はなく、本殿は流造りで千木・鰹木が載る。
本殿屋根の造りも美しい。
社殿の東側に南面して、瑞玉稲荷大明神と浅間大社・秋葉神社、四十八祖社が祀られている。
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番外篇 名古屋を歩く
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