|
昨年11月26日午後、式内社の「伊奴神社」を訪れた。
家の近くに惣兵衛川という小さな川が流れていて、伊奴神社の位置を地図で見ると、その惣兵衛川の上流にあり、川沿いの道を神社へ向った。
神社は、惣兵衛川に面してあった。
由緒書板があり、
祭神は、素戔鳴尊、大年神、伊奴姫神。
「延喜式には『尾張国山田郡伊奴神社』と記載されている式内社で、第四十代天武天皇の御代(673年)、この稲生の地でとれた稲を皇室に献上した際に神様を祀り社殿を創建したものと伝えられる。」
「稲生(いのう)」という地名については、「角川日本地名大辞典23」に、
「庄内川下流左岸に位置する。地名は伊奴に通じ、白鳳期当地で稲栽培を始めた頃、氏神に伊奴神社を勧請したので、稲生と呼ぶようになったという。伊奴は藺沼(いぬま)からきているともいう。また伊奴が犬に通ずるのを嫌って稲生に改めたとする説もある。」
とあり、出雲の伊奴神社を勧請したようだから、出雲の地からこの地に移住した人々がいたんだろうか。
二の鳥居をくぐると正面に木製の蕃塀がある。
社殿は、南南西向きに建つ。
拝殿正面の提灯には、向かって右は、五七桐、左は、三つ巴の紋がつく。
拝殿正面の蟇股は、唐草のようなデザイン。
本殿は、神明造り。
拝殿前に、「犬石像」があり、その由来書によると、
「昔、庄内川がよく氾濫して困っていた。ある時村人が山伏をもてなし訳を話したところ御幣を立て、お祈りをしてくれた。するとその年は洪水がなかった。不思議に思った村人が開けてはいけない御幣を開いて見ると”一匹の犬”の絵と”犬の王”の文字が書いてあった。次の年は又、大洪水になった。再び山伏が来たのでお詫びをしたところ「御幣を埋め社を建てて祀れ」と教えられた。これが「伊奴神社」の始まりと伝えられ以後災難除けの神様として崇められて来た。」
とあり、伊奴神社創建の異説になる。
また、「絵馬殿」という建物もある。
樹齢800年のご神木には、白龍社が祀られていて、その由緒書によると、
「・・・・このご神木にいつの頃からか蛇が棲みつき、神さまのお使いとして崇め尊ばれてきた。現在も毎年蛇の脱殻が見受けられその脱殻が大変珍重がられている。・・・・」
境内末社には、玉主稲荷社、「天神社、日枝社、春日社」、大杉社、白龍社があり、
大杉社の大杉には、その昔、天狗が住んでいた、と社伝にあるそうだ。
玉主稲荷社の拝所の片隅に、誰かが奉納したんだろうか、木彫りのキツネがちょこんと座っている。
神社の南側に流れる「惣兵衛側」は「庄内用水」という灌漑用水であったことを知る。
「庄内用水は名古屋市南西部の肥沃な農地に水を引き入れるかんがい水路として造られたもので元亀・天正年間(1570〜92)に尾張候が開削させたと伝えられている。
庄内用水は「尾張徇行記」のなかで西井筋東井筋などの名前で登場し稲生村(現西区)のあたりでは稲生川とも惣兵衛川とも呼ばれていた。江戸時代の「古今卍庫」には木津用水などとともに尾張六大用水の一つとして挙げられており当時新田開発がさかんに行われたのも庄内用水のおかげであった。ほぼ現在の経路になったのは明治10年(1877)に行われた黒川開削のときで水路の総延長は28kmにおよび市内最大の用水である。庄内用水はかんがい用水としての役割のほか資材や収穫物の輸送路としても利用され産業面で人々の暮らしを支えるとともに人々に親しまれる場所でもあった。・・・・・・」
|
番外篇 名古屋を歩く
[ リスト ]



