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神明社から五条川の堤を南へ、式内社の「立野神社」の候補の一つの「熊野神社」へ向った。
熊野神社の鳥居は五条川の堤のすぐ下にあった。
鳥居から真西に住宅街の中を参道が続き、県道157号を渡った向こうに、「熊野神社」の石標がある。
由緒書はないが、「式内社調査報告8」によると、式内社の「立野神社」の候補になっているのは、この熊野神社の本社ではなく、「立野天神社」というのが熊野神社の飛地境内社として別にある、とのことで、「立野天神」は、またの機会に訪れようと思う。
拝殿前には石造の蕃塀が立ち、龍と獅子の飾りがつく。
社殿は東向きに立つ。
拝殿屋根の鬼瓦には「熊野社」の文字。
拝殿の前面・後面には、鳥(鳩でも鷹でもなさそう)の飾りがつく。
本殿は、覆屋の中にあり、神明造りでもなく、流造りでもない、「日吉造り」のような様式だ。
本殿にも鳥の飾りがつき、この姿からすると「八咫烏」かもしれない。
社殿の南脇には、「秋葉三尺坊大権現の石塚」と小さな社がある。
社殿の後方には「若一皇子祠跡」の石柱が立つ。
「「若一皇子祠跡」と「王子の木」伝承」の説明板がある。
「神野墓地の一画に、昭和60年ごろまで胴回り2mもある榎の大木が立っていた。石柵で囲まれていて、その柵内に「若一皇子祠跡」と彫られた此の石碑が立てられていた。
文治5年(1189)、紀州熊野党の鈴木三郎重家は、奥州衣川高館で、源義経を護って藤原泰衡の軍と戦い、義経らとともに討死した。
重家の安否をたずねて、紀州熊野から出かけて来た重家の眷属(妻子・一族・従者達)は、尾張の国まで来たところで、重家討死の詳細を知り、進みもならず、熊野へ帰るも出来ず、この地に留まることになった。
護持して来た御神木を植えて若一王子の御守を祀った。のちに、御神木は「王子の木」と呼ばれ、その傍らには、小さな祠があったと伝えられている。彼らはまた、眷属の守本尊の阿弥陀如来(熊野本宮証誠殿の本地)像を村内にお堂を建てて安置したと言われている。」
社殿の北隣には、弘法さまゆかりの「岩倉廿一大師第十七番」の祠が建っている。
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番外篇 尾張を歩く
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