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味鋺神社のすぐ西側隣に「護国院」があった。
立派な山門と、大きな伽藍のお寺で、教育委員会の説明版によると、
「味鏡山(みょうきょうざん)と号し、真言宗智山派。天平年間(729〜749)僧行基の創建といわれ、薬師寺といった。天暦2年(948)の大洪水により衰微したが、天永2年(1111)西弥(さいみ)上人が再興し、今の寺号に改めた。本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる。」
山門を入って正面に旧本堂と思われる堂があり、その西となりに新しい本堂が建っていて、その新しいほうに薬師如来座像があるようだが、お堂のなかに入れないので隙間から撮った写真でそれとわかった。
行基は、wikipediaによれば、
「天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は日本の奈良時代の僧である。677年4月に生まれたという説もある。父は百済系渡来氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出。
681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。
民衆のために活躍した行基は740年(天平12年)から大仏建立に協力する。このため「行基転向論」(民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説)があるが、一般的には権力側が行基の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基が権力者の側についたのではないと考えられている。741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。
行基は古式の日本地図である行基図を作成したと言う話があり、日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされる。」
新しいお堂には立派な鬼瓦がのり、旧本堂では「獏鼻」が見られた。
旧本堂の東側に「みかがみじぞうそん」が、そのまた奥に小さなお堂がある。
そのお堂には「岩窟洞」の木札があり、「石棺」と書かれているのでよく見ると、石仏は古墳から出てきたとみられる石棺の中に納まっていた。
このお堂にも獏鼻があり、気がついてみると、この獏鼻というのはけっこう普通に見られるものなんだなあ、と思う。
しかし獏には牙はないので、これは象鼻かなあ。。。。
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