なべさんの中国情報

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四日市といえば、3月27日に、午前中鈴鹿の椿大神社を訪ね、午後は四日市の神社を訪ね歩いた。
椿大神社は、「つばきだいじんじゃ」ではなく、「つばきおおかみやしろ」と読む。
 
椿大神社へは、四日市駅前から神社行きのバスで40分ぐらい、鈴鹿山脈の山懐にあり、神社に近づくと、まだ雪が残った、いわゆるお椀を伏せたような神奈備山の「高山入道ケ嶽」が見えてくる。
 
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バスは、神社の一の鳥居のすぐ前まで連れて行ってくれる。
 
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神社でいただいた栞によると、祭神は、
 
主神 道祖 猿田彦大神
相殿 天孫瓊瓊杵尊 御姥(おんはは) 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
前座 道祖神裔 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)
別宮 道祖配祠 天之宇受女命
合祀 八百萬神(やおろづのかみ)
 
創立の由来は、
 
「当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(たかやま)(入道ヶ嶽)短山(ひきやま)(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第十一代垂仁天皇の御代廿七年秋八月(西歴紀元前三年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座(みふねいわくら)附近に瓊瓊杵尊・栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)を相殿(あいどの)として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。このように社殿創始は垂仁天皇の御宇(ぎょう)でありますが、それ以前、悠久の太古、すで原始人類に信仰の芽生えを見た時、既に大神の尊崇と本社創建の渕源は存したと言わねばなりません。即ち神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。天孫、「瓊瓊杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢(やちまた)に「道別(みちわき)の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙(つつが)なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別(ちわき))大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。」
 
発展の歴史は、
 
「猿田彦大神の神喬(直系子孫)であり、神代以来連綿として当社に奉仕して来た山本神主家は往古猿田彦神族の長として、当社地を拠点とし伊勢地方を掌握していすいにんぎようたが、時あたかも垂仁天皇の御宇、皇大神宮の伊勢御鎮座に当っては、神族を遣して皇大神宮の御警衛、又御用命に奉仕おおたのみ;とした。神族の代表とも云うべきに太田命あり大御饌供進の奉仕を勤め、当社と神みに尾宮との間には千数百年問、御贄の神事として存続された事についても明らかであります。これらの事から皇室を始め、一般庶民に至る迄崇敬厚く、仁徳天皇の御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ、天平十一年聖武天皇は当社へ親拝され、勅願によって古備真備をして、大神御神面及び獅子頭一頭を刻ましめて当社に奉納された。これに由来して獅子神による祈祷神事は、千三百年間絶ゆることなく現在も継承されて全国幾多ある獅子舞の宗家として知られ日本最古の獅子舞であります。
  光孝天皇仁和年間には「伊勢の国一の宮」に、醍醐天皇延長五年十二月には「延喜式内社」に列し、白河天皇の御宇には、神階も正三位に昇進、社頭隆昌して神威大いに輝いていたが、たまたま天正十一年織田勢の兵火に罹り、御神体を始め獅子頭等一部を除いて社殿古記等ことごとく焼失した。天正十四年三月、苦難に堪えつつも漸く社殿を再建、一の宮としての体面と祭祀の厳修は続けられて来たが、徳川の代となり藩主本田平八郎の崇敬篤く、社頭諸施設の寄進せられるに及んで、諸古儀も次第に往時に復し、国家隆昌・皇室弥栄の祈願は絶える事なく、特に九条家累代の御祈願所となった。昭和初期に内務省神社局の調査によって、全国各地に二千社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮であることが再確認され、当時の内務省神社局考証課長宮地直一博士より当社に対し「地紙猿田彦大本宮」と尊称することと、「国幣大社」列格の件に関しての示唆を受け、其の意を体して諸手続を為し、列格の内示をー,受けるまでに至りたが、大東亜戦争勃発の為中絶された。'しかし、猿田彦大神の本宮である事が明らかにされると、昭和十年、三月警視庁は当社の御分霊を庁内に奉斎して、国土及び皇室をはじめ国民守護の神とし、昭和十四年三月には内閣を代表して小磯国昭拓務大臣が国土開発祈願の為に正式参拝され、また昭和ニ十年四月には皇室御名代として賀陽宮邦寿王殿下の御代拝あり、戦後に到っても官界財界の重鎮、武道界角界芸能界に至るまで多数の参拝者があります。当社は天つ神の本宮、皇大神宮に対し奉り、地つ神(くにつかみ)の本宮「地祇大本宮」として崇められ、昭和四十三年十一月には新しく社殿御造営になり、現代の精神的空白の時代を満たすに足る「地祇大本宮」としての面目を新たに全国的に崇敬者が急増し、社頭に参拝者の絶えることのない賑わいを呈している。」
 
 
鳥居をくぐるとすぐ、「庚龍神社(かのえりゅうじんじゃ)」があり、樹齢400年と伝えられる樅の木に、金龍・白龍・黒龍の龍神が祀られている。
 
そして聖武天皇勅願の獅子堂があり、なかに獅子頭が祀られている。
 
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獅子神楽が有名だそうで、説明板によると、
 
「3年に1度、丑、辰、未、戌の年に2月から4月まで舞われ、山本町民から選ばれた鉾役・神主・神面・御頭・笛・鼓・太鼓の七役で潔斎の上行われている。
 獅子は一頭で、舞は、初段の舞に始まり、起し舞、扇の舞、後起しの舞、御湯立ての行、子獅子の舞があり、最後に花の舞となり約2時間におよぶものである。獅子頭は、天下泰安、四海静穏、風雨順時、百穀潤屋という聖武天皇の勅願により、吉備大臣が椿の木で彫刻したと社伝で伝えられている。各地に山本流獅子舞としてその技を伝えており、以前は鈴鹿山脈の山麓づたいに北勢地方の巡舞であったが、今は県外にも巡舞している。」
 
来年は辰歳だから見に来たいものだ。
 
参道を進むと、右手に大黒・恵比須が祭られた祠がある。
 
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左手には、「御舟石坐(みふねいわくら)」が注連縄に囲まれた中にある。
 
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これも案内板によると、
 
「此の御神跡を御舟石坐と申し伝え、中央三個の石を天降石(あまくだりいし)と古来より称す。神座(しんざ)を之れに依って明らかにす。中央奥は主神道祖猿田彦大神、左は皇孫(すめみま)瓊瓊杵尊、右は栲幡千々姫命。往古國津神磯津の濱より遡り給ひて御舟をここにつながれ給い。高山短山のいほりに安住なし給ふと申し伝う。日本國土の神社の淵源を物語る貴重な御神跡であります。」
 
ということで、もともとはこの磐座が御神体として祀られていたものらしい。
 
そして参道の中ほど、左手に、「高山土公神陵」の古墳がある。
 
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この陵は、パンフレットによると、
 
「猿田彦大神の御陵で、山本神主家はこのお墓を神代より守り続ける大神直系の神主家であります。」
 
円墳かと思ったが、前方後円墳であるそうだ。
 
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陵のかたわらには、国津神の大本ということで、地球を踏みしめた猿田彦の石像もある。
 
本宮の社殿は、南南東向きに建ち、本殿は見にくかったが、神明造りとのこと。
 
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神紋は「三つ巴紋」。
 
拝殿は広いが、意外に簡素な造りだ。
 
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高山入道ケ嶽の頂上に奥宮があるそうだが、雪も残っていて寒そうなので、登るのはやめにした。
 

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