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椿大神社から近鉄四日市駅前へもどり、四日市といえば豚テキ、ということで駅前商店街で昼食にした。
腹も満ちて、近鉄で名古屋方面への3つ目の駅「霞ヶ浦」まで行き、境内に古墳のある「志氐神社」へ向った。
社域は広く、拝殿の向って左後方の森が古墳になる。
由緒書板によると、
祭神 気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
配祀 伊邪那岐命 伊邪那美命 外26柱 「当社は垂仁天皇の御代の鎮座にて高野御前(たかのみまえ)と称え奉られ「志氐」の名は天武天皇が皇子であられた頃壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次、迹太川(とほかわ)の辺で伊勢の神宮を望拝されたことに起因しています。
シデとは御幣のことで天皇が四方に幣(ぬさ)を班(わか)ち、祓の神気吹戸主神をお祀りし禊祓をなされた御跡を斎(いは)い奉れる神社であります。
天平12年聖武天皇が此地方へ行幸の時に丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が当社で詠んだ歌が万葉集にみえます。
後れにし 人を思(しの)はく 四泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取りしでて さきくとぞ念(おも)ふ (奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神さまにお供えものをして妻の無事を祈った歌)
当社境内古墳は前方後円式で前漢時代の鏡・車輪石などの出土品により4世紀頃の高貴な方の墳墓と推定され北勢随一の大古墳であります。
平安時代の延喜式にあげられ代々藩主の崇敬の念篤く御神威は遍く光被じて北勢の名社であります。」
この由緒書によると、天武天皇は、この地で伊勢神宮を遥拝したことになる。
拝殿屋根の瓦の神紋は、菊のようだ。
拝殿の内には、左右に武人の像がある。
本殿は、ここも神明造り。
拝殿に主要な祭神の名が掲げられている。
古墳の前には、石標と石碑が立つ。
石碑によると、
「この古墳は前方後円墳で後円部の高さ約6m、径約30m、周湟をめぐらし陪塚が7基あったと伝えられているが現在は境外も東側に1基を残すだけである。この規模の宏大さとよく整備されていた点では北伊勢随一の大古墳である。前方部は先年取りこわされて、今はその跡もないが前端部に生い繁る椎の古樹によって昔の様相を創造することができ、1852年に前方部と後円部の境目に小径を開いたとき、前漢式の内行花紋鏡・勾玉・管玉・車輪石などが出土した。
古墳の形式と出土品から考えて4世紀の末頃に築造さられた高貴な方の墳墓と推定される。」
天武天皇が伊勢神宮を遥拝したところということでか、「皇大神宮遥拝所」が祀られている。
境内には、日本武尊ゆかりの「妻恋稲荷神社」もある。
由緒書板によると、
「妻恋稲荷神社の本社は東京都文京区妻恋町妻恋坂の高台に鎮座し日本武尊が東征のみぎり御行宮され「妻恋しはるかに見れば」と詠まれこの地を吾妻(あづま)とよび神社名の妻は日本武尊、恋は弟橘媛命、稲荷は倉稲魂命であります。
・・・・・嘉永6年(1853)志氐神社の神主森出雲守泰友の代にこの分霊を庭内に奉斎し、その後昭和34年に祠で神社境内に遷座・・・・・」
四日市というところは、日本武尊ゆかりの神社が多いような気がする。
ここも「神馬舎」がある。
そしてなぜか、境内の片隅に、昭和18年瀬戸内海で爆発沈没した戦艦陸奥の部品が奉納されている。
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