|
10月15−16日、豊田市の挙母神社で祭があるので楽しみにしていたが、15日はあいにくの雨で、お昼頃から雨も上がってきたので、12時過ぎに地下鉄と名鉄に乗って豊田へ向った。
しかし、この日は、山車の巡航は中止になり、宵祭りの見所の「七度参り」での「若衆のもみ合い」も昨年問題がおこって今年は若衆は参加しない、ということで、静かな盛り上がりに欠けたものでガッカリだった。
挙母神社は、名鉄豊田駅の東方、歩いて10分ぐらいのところにある。
由緒書板によると、
祭神は、高皇産靈神(たかみむすひのかみ)、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝尊(あめにぎしくににぎしあまつひだかひこほのににぎのみこと)、天萬栲幡千幡比売命あめよろずたくはたちはたひめのみこと)、天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)
2番目の神さまは、非常に長い名前だが、ようするに瓊瓊杵尊のことで、3番目の神さまはその母神。
「文治、建久の頃(1189)源義経の家臣、三河鈴木重善(のちの善阿弥)は源義経の没落を聞き当地に隠れ住み、そののち大和吉野から子守社を勧請して衣上之郷にまつり奉仕した。鎌倉実記、義経勲功記に「其の頃熊野の鈴木次郎重行と言うものあり、矢作川の上、衣の里と言う処あり、彼の里に庵室をしつらい住みける殊勝なる法師に里人も尊みしたしみけり。熊野の神を勧請云々」とあり、延宝旧図に「大明神の本殿は四間に三間あり拝殿は長さ三間横二間とす。社内に薬師堂あり」とある。衣記に「子守大明神は往古より挙母の鎮護なり、草創は何れの年ともいまだつまびらかならず鈴木某熊野より云々」。旧幕時代は、子守大明神といっていたが明治4年(1871)3月14日挙母藩庁から挙母神社と改められ藩社となり、その後郷社となった。」
「日本地名大辞典」によると、「挙母(ころも)」というのは、古くは「衣」と書き、江戸期の天和年間(1681〜1684)頃に挙母と書き改められたそうで、垂仁天皇の子大中津日子命を祖とする許呂母別(衣之君落別王)が三河国加茂群に住み着いたことによるのだそうだ。
社殿は、南向きに建つ。
舞殿などの屋根には、「三つ巴」の紋がつく。
本殿は、流れ造りで、千木・鰹木が載る。
境内社には、金刀比羅社、御鍬社、天満宮、秋葉社、子守稲荷社がある。
夜、七度参りの間中、「猿田彦之命」がずっと行列を見守っていた。
七度参りは、19時から始まるので、昼神社へ来てからどうやって時間をつぶそうか、喫茶店へでもいこうか、と駅前へ戻ると、駅前に市の立派な図書館があって、そこで、いろいろな本をながめてすごした。
翌16日はすばらしい晴天になったが、急用ができてしまい、祭り見物は来年への宿題になった。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年10月26日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]



