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鳴海杻神社から次の目的地、式内社の「虫鹿神社(むしかじんじゃ)」へ向う。
虫鹿神社は、五条川の支流の半之木川の上流方向にあるので、半之木川の川沿いの道を歩いていると、大きな森があるので行ってみると「比良賀神社」であった。
森のずいぶん先に一の鳥居がある。
社殿は南向きに立ち、鳥居をくぐると蕃塀がある。
拝殿の銅葺き屋根には、「蛇腹」のような図案がついていて、これは、風を送るフイゴを表しているのだろうか。。。。
ここにも「羽黒地区コミュニティ推進協議会」による説明板があり、それによると、
祭神は、天照大御神、須佐之男命、天香語山命ということで、熱田神宮(伊勢神宮)、津島神社、尾張氏の祖と、尾張の神さまが揃っている。
「創建年代は不詳。言い伝えによると、河川の氾濫による田畑を守るため川沿いの6ヶ所を選んで祠を建て、天照大神・天香語山命など6柱を祀ったのが始まりで、その後1ヶ所に集められ「六ヶ所大明神」と称し、「太一大見大明神」とも呼ばれた。太一とは伊勢神宮の別称である。1186年(文治2年:平安時代)の『尾張国神名帳』には、小弓庄羽黒村従三位比良賀神社と記載されている。1200年から1202年(建仁年間:鎌倉時代)梶原景親(幼名豊丸)が現興禅寺に屋敷を構えて以降、代々羽黒梶原氏の居城としこの地を治めていった。その間社領地などを寄進されるなど梶原氏の庇護を受け、1370年代(南北朝時代)には羽黒金屋に鋳物師集団が定着するようになると金物の神「天目一個神(あまのめのいっこのかみ)」を祀った「比良賀天神」を建てるなど大いに賑わったといわれている。しかし、1584年(天正12年:安土桃山時代)の小牧長久手の前哨戦羽黒合戦の戦火で全てを焼失してしまった。1671年(寛文11年:江戸時代)に再建され、1871年(明治4年)比良賀神社と確定され、1913年(大正2年)に神明社と須賀神社を合祀されて現在にいたっている。」
この地には「金屋」という町があり、これも説明板がある。
「「金屋」という地名は、青銅梵鐘や仏像の鋳物を作る鋳物師(いもじ)たちの町があったことを示し、羽黒には北金屋と南金屋がある。その昔、鋳物師のほとんどが河内国南郡狭山郷(現大阪府松原市)に定住し鋳物に従事していた人たちの流れをくむといわれている。平安末期戦乱の世となると鋳物師たちは、全国各地に移り住むようになり、それぞれの地で朝廷や社寺の下で座を結び製造販売独占の保護を受けたり、地方の領主の庇護下で製造するものが増えていった。1370年頃から1560年頃(南北朝時代〜戦国時代)にかけて鋳物師たちが羽黒北金屋と南金屋にも定着するようになった。ここで製造されたもので現存する最も古い梵鐘が一宮市の妙興寺にあり、鐘には「永和二年(1376年)大工羽黒新兵衛尉」の銘があり、一番新しいものは長野県下伊那郡阿南町瑞光院の梵鐘で「尾州丹羽郡羽黒村住人太郎兵衛宗次・享保元年(1528年)」の銘があることなどから、この約200年間ここ金屋が鋳物師たちの生産拠点として栄え、一豪族であった羽黒梶原氏は、貴重な鋳物技術を持った鋳物師たちを掌握して力を蓄えていったと考えられる。しかし、1562年(永禄5年:戦国時代)織田信長は尾張鋳物師水野太郎左衛に黒印状を渡し、尾張での水野家以外の銅や製鉄品の鋳造を禁止したため、羽黒での製造ができなくなり衰退してしまった。」
幣殿、本殿は神明造り。
境内末社は、金光羅社(金毘羅社?)、猿田彦社、天神社、愛宕社、三狐稲荷大明神、磯前社があり、御嶽山大権現、多賀神社の石塚、そして山神を祀る石塚も並ぶ。
10月9日 午後2時30分から大祭があるので氏子の人たちが境内と神社周辺の草刈・掃除をしていて、境内にいたおじいさんが、お祭では獅子舞がでること、羽黒の街道筋は昔は御茶屋もあってずいぶん賑わったことなどなどいろいろとお話をしてくれた。
また半之木川に沿って歩いていくと、名鉄線を越したところで田んぼの中に、こんもりとした森があるのでまた行ってみた。
本殿のみの小さな神社で神社の名前を記した石柱も由緒書板もなく神社名はわからなかったが、愛知県神社庁のHPで調べると「恩田社」であることはわかったが、祭神はわからない。
境内には、御嶽山大権現、氏神、宇賀神の石塚がある。
そして田んぼの中には、ここ濃尾平野の田園地帯でよくみるアオサギとケリがそろっていた。
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2011年10月04日
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