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瀬戸から名古屋へ帰る途中、瀬戸と名古屋を結ぶ瀬戸街道の旧道に面して建つ、式内社の「渋川神社」に寄った。
由緒書の石碑があり、
「この神社は景行天皇の御代に高皇産霊大社(たかみむすびのおおかみ)を創祀したと伝えられ白鳳5年天武天皇御即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斎田を当地に定められるに当たり、大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代大神の七柱を合祀申し上げ、醍醐天皇の御代延喜式の制定により、神名帳に列せられた式内社であります。当社創建の地は、ここから西南方数百米渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神七柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります。
往昔は山田郡の総社として広く尊崇せられ、織田信長が神殿を改修し、後に徳川光友が神殿を再建、それぞれ幣帛を奉じている。
この鎮守の杜には檜、松、樫等が鬱蒼と生い繁り、旧瀬戸街道を旅行く人々、馬が緑陰に憩ひ神苑に滾々と湧く真清水を掬したが、昭和34年の伊勢湾台風によって一夜にして樹木が薙ぎ倒され、樹齢三百数十年を数える檜の大樹数十本を損失した。
氏子総出で倒木を整理の上、檜と杉を交植し1年毎に昔日の姿に近づきつつあるが、湧水は遂に涸れ果ててしまった。」
ということで、天武天皇ゆかりの神社だ。
社殿は、南向きに建つ。
社殿の鬼瓦には神紋はついていない。
拝殿正面の蟇股は、独特の意匠の飾りになっている。
拝殿後方に、祭文殿、本殿が続くが、本殿は流造りで千木・鰹木はない。
本殿側面の蟇股は、これもシンプルな意匠の飾りがつく。
社殿の東側に「天武天皇悠紀斎田跡」の石柱が立つ。
そのとなりに瑞垣で囲まれた一画があり、磐座のようなものがある。
ここには「遺跡の御案内の説明」があり、
「旧本殿跡
この場所から、およそ600m南に鳥居塚と呼ばれるところがあったといわれ、そこに昔鳥居が立っていたと伝えられています。
中世のころ、その場所から現在の地に祭神を移し社を建てたのが始まりといわれています。
江戸時代貞享5年(1688)に三間社流造りの本殿(13.22平方米)が建てられ、平成14年5月まで現存していました。
潮干塚の伝説
旧本殿跡の北側のところ、塚の上に甕があり、海の潮の満ち引きに従い、甕の中の水が増減したと伝えられています。」
「鳥居の古塚について」という説明板もあり、
「渋川神社の正中約600m、広がる田圃の中四季折々に風情を添える木立の古塚があり天武天皇の悠紀斎田の入口として鳥居の敬称で里人に親しまれ聖地としてきたが、此度区画整理の為、取崩す運びとなり、此の由緒の地の滅失を惜しみ、初老の同志相謀り、塚に立っていた石碑を神苑に移し、後世の諸人に伝えんとする。」
境内社は、下記のものがある。
東五舎の宮、西五舎の宮、神明社、八剣社、八幡社、熊野社、津島社あ、渋川稲荷社、山神社、忌明社。
このほかに、天神町内会、新東白鳳町内会、渋川町内会、西中町内会の4つの町内会が天神社をそれぞれが祀っていて、社の前に、お祭で使ったものだろうか、梵天のような飾り棒が立ててある。
この日は、あと1箇所「八剣社」に寄ってから名古屋へ帰った。 |
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2012年02月11日
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