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今年はブログを再開します。

番外篇 名古屋を歩く

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志段味の古墳群

21日、勝手塚古墳からその南の台地に分布する帆立貝式古墳群へ向かう。
 
例によって道がわからず、畑をみにきていたおじさんに古墳の場所をきくと、「この台地の上にある。説明板とかはないけど掘り返していたからその跡があるよ。」とのことで、台地へあがる細い道をみつけ、台地にのぼった。
 
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笹の広がる原野の中にこんもりと小さな森があり、それが、東大久手古墳と思われた。
 
小さな円墳のような感じで、帆立貝の面影はない。
 
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細い道が続くのでそれを進むと大久手池にでて、そこに「史跡散策路」の看板があったが、これもかなりアバウトな地図で、古墳の名前も消されているし、現在位置もわからない。
 
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看板の東は新興住宅街になっていて、この東のほうに大塚古墳があるようなので、行ってみると、崩れないようにかシートをかぶせられた古墳があった。
 
うっすらと西にのびた前方部がわかる。
「なごやの古代遺跡を歩く」によると、古墳の全長は約55m。
 
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大塚古墳をみつけたので、また大久手池までもどり、西大久手古墳を探す。
 
ちょっと木のまとまったところがあり、畑脇の細い道をとおりそこへ行くと、わずから土饅頭と測量をした後の杭が打たれていたので、たぶんこれが西大久手古墳であろうと、写真を撮る。
 
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前述の2008年発行のガイドブックによると、このエリアは名古屋市が「歴史の里」として整備する予定にある、と述べられているが、測量もされているようなので、その計画は進んでいるんだろうなあ。。。
 
前回来たときの白鳥塚古墳から、勝手塚古墳までのエリアは区画整理の工事がなされていて、このあたりは何年後にはまた新興住宅街になるんだなあ。。。。
 
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今回は、庄内川をはさんで、春日井市側と名古屋市側を歩いたが、名古屋市側の古墳は荒れるままのような状態で説明板もなく、それとは対照的に春日井市側は、古墳は整備されて公園になっていたりして、春日井市は古代史好きなのかもしれないなあ。。。。。。

勝手塚古墳

21日、高蔵寺から庄内川を渡り、志段味(しだみ)の古墳群へ向かう。
庄内川を渡ると、名古屋市の守山区の域内になる。
 
「志段味」というのは、角川日本地名大辞典によれば、「庄内川上流左岸、地名は、尾張山(東谷山)の峰よりしたたる水の幅広く落ちる所の意であるという」とあり、東谷山を「尾張山」ともよぶということを知る。
 
前回来たとき行き着いた交差点まで行くと、おじいさんがやってきたので、とりあえず勝手塚古墳がある「勝手社」の場所を教えてもらい、向かう。
 
勝手社は大きな森になっていて、それとわかる。
 
 
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ここ志段味に分布する帆立貝式の前方後円墳は5世紀後半の築造だそうで、雄略天皇から継体天皇のころになる。
 
墳頂に勝手社の社殿が建つ。
 
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勝手神社は、奈良県の吉野山にあり、その祭神が、天照大神の子神の天忍穂耳尊。
 
明治時代に八剣大明神と山の神社が合祀されて、天照大神、日本武尊、大山祇命も祀られている。
 
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拝殿の妻飾りには、菊と五七桐(ごしちぎり)の神紋がならび、五七桐も皇室の副紋として用いられているそうで、天孫族にまつわる神社であることを主張しているように感じる。
 
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本殿には木彫りの飾りがあり、脇障子の鯉は滝を昇らず下っている。
 
両脇の飾りは、鶏と獅子で、ここでも八剣社と鶏の結びつきが見られた。
 
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本殿右横に、「二十二夜」の石塔が立ち、私としては初見。
 
春日井市のHPによると、
 
「市内の東部地区に多く、二十二夜様といって、大泉寺、明知などでは提灯山で賑わったところもあった。市内では、広く「お立待ち」とよばれ、日没から月の出るまでの時間を立って待ち願いごとがかなうように祈った。」
 
二十二夜は下弦の半月で、石塔の左脇は半月状に膨らんでいる。
 
このあと、二十二夜の石塔をいくつも見ることになり、この庄内川上流域の村々で信仰されているようだ。

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味鋺神社のすぐ西側隣に「護国院」があった。

立派な山門と、大きな伽藍のお寺で、教育委員会の説明版によると、

「味鏡山(みょうきょうざん)と号し、真言宗智山派。天平年間(729〜749)僧行基の創建といわれ、薬師寺といった。天暦2年(948)の大洪水により衰微したが、天永2年(1111)西弥(さいみ)上人が再興し、今の寺号に改めた。本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる。」

山門を入って正面に旧本堂と思われる堂があり、その西となりに新しい本堂が建っていて、その新しいほうに薬師如来座像があるようだが、お堂のなかに入れないので隙間から撮った写真でそれとわかった。

行基は、wikipediaによれば、

「天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日))は日本の奈良時代の僧である。677年4月に生まれたという説もある。父は百済系渡来氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出。
681年に出家、官大寺で法相宗などの教学を学び、集団を形成して関西地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。
民衆のために活躍した行基は740年(天平12年)から大仏建立に協力する。このため「行基転向論」(民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説)があるが、一般的には権力側が行基の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基が権力者の側についたのではないと考えられている。741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。
行基は古式の日本地図である行基図を作成したと言う話があり、日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされる。」

新しいお堂には立派な鬼瓦がのり、旧本堂では「獏鼻」が見られた。

旧本堂の東側に「みかがみじぞうそん」が、そのまた奥に小さなお堂がある。

そのお堂には「岩窟洞」の木札があり、「石棺」と書かれているのでよく見ると、石仏は古墳から出てきたとみられる石棺の中に納まっていた。

このお堂にも獏鼻があり、気がついてみると、この獏鼻というのはけっこう普通に見られるものなんだなあ、と思う。

しかし獏には牙はないので、これは象鼻かなあ。。。。

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7日、春日山古墳からとりあえずその南方にある「味鋺神社」に向かった。

途中、新地蔵川という小さな川があり、その川が春日井市と名古屋市との境になり、味鋺神社のある場所は名古屋市北区になる。

道幅4mほどの「稲置(いなぎ)街道」を神社に向かって歩く。

この道は、味鋺神社の中にある「清正橋」という石橋についての掲示板のせつめいによると、犬山街道・小牧街道とも呼ばれ、尾張藩が開いた藩道で稲置と名古屋を結ぶ。
参勤交代のときに使用し、中山道をへて江戸へ向かったのだそうだ。

この街道沿いに、古い屋敷が残る「曲水宴」という造り酒屋があった。

神社に近づいてもどこかよくわからず、人にも出会わないので道を聞くこともできずうろうろしていると森が見えたのでそちらへ行くと、そこが神社だった。

味鋺神社は思ったより大きな神社で、由来書や境内社の掲示説明板も詳しく書かれている。

その説明板によると、

祭神:宇麻志麻治命(うましまじのみこと)((可美真手命(うましまでのみこと)・味間見命(うましまのみこと))と味饒田命(まじにぎたのみこと)

「物部氏の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味饒田命と共に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参与する。その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称せられるものも少なくない。春日井市味美にある二子山古墳、古来この山上に、物部天神があり可美真手命(うましまでのみこと)を祀っていた。現在は(白山神社古墳)山上に白山神社が物部天神を合祀して建てられている。白山神社は、現楠味鋺五丁目にあった天神藪古墳より遷座されたと伝えられている。この天神藪古墳より、刀剣・鉾・武器類が出土している(現在京都博物館に保管)。この一帯は味鋺の原で、俗に百塚といわれた程多くの古墳があった。このことから物部氏の番居していた遺跡であると考えられる。物部氏族が祖先を祀り、平和と繁栄を祈った物部天神味鋺神社は、おそらく尾張に於ける物部氏最初の氏神であったろう。」

このあたりは、尾張氏ではなく、物部氏が開発・定着したところとのことで、尾張南部と北部は尾張氏にまつわる神社が多かったが、その中央部に物部氏が鎮座しているというのはどういうことなんだろう。

尾張氏も物部氏もその系図の初代は、天火明命(饒速日命)と同じで、2代目に尾張氏は天香語山命、物部氏は宇麻志麻治命に分かれるので、この両氏は同類ということか。

境内末社は、熱田社・神明社・日神社・金毘羅社・天神社・山神社・斎宮者・稲荷社・秋葉社・洲原社・津島社

「洲原社」というのは私にとっては初見で、ネット検索すると、

「洲原神社というのは、白山信仰における美濃国側の中心的な里宮(「前宮[さきみや]」といわれる)で、尾張・三河国などからも「洲原参り」が盛んだったようです。」

http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/13135367.html

石造りの蕃塀や拝殿の彫り物はすばらしく、拝殿の龍の上に馬の彫り物があるのが印象的だ。

南へ2,300mほどいくと庄内川があり、その堤から、東には猿投山が、北東には犬山の山県神社の本宮山などが見渡せる。

氷上姉子神社 再訪

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昨年2月に草薙剣の由来をネット検索していてこの神社を知り、初めて訪れた。

http://blogs.yahoo.co.jp/nabesan88com/48062289.html

そのとき、拝殿の中にたくさんの鷹の絵馬が掛けてあり、尾張氏は海人族であると思っていたので、シンボルとしての鷹は意外であった。

そのときは、拝殿内の写真は撮らなかったし、その由来書も遠くて読めなかったので、今回、兜山古墳がこの神社に近いこともあって、1年来の宿題をはたすことにした。

その鷹の絵馬の由来は、5月6日に頭人祭という祭があり、そのときに熱田神宮から頭人がやってくる時に途中で鷹狩をすることになっていたが、今は鷹狩ができないので、鷹の絵馬が奉納されるようになった、とのこと。

社務所でもらった栞にも「頭人祭」の説明があり、昔は鷹狩の獲物を神前に献進して皇城鎮護を祈願していたが、今は、鷹狩ができないので鷹の絵馬と粽を献進しているという。

鷹と粽は、中国の北方騎馬文化と南方稲作文化を代表していて、日本文化というのは、それらの混合文化なんだなあ、と思う。

今回も、元宮にも参ってきた。

常緑・落葉広葉樹におおわれた火上山はいい雰囲気だ。

斎山稲荷から麓の道に下り、氷上神社に向かったが、神社のほうへ入る道のすぐ脇に、境内末社の「少彦名命」を祀る「玉根社」があった。


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