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内荒神社からさらに1kmほど東へ行くと「熱田社」があった。
熱田社といえば尾張を代表して、その分社も多いだろうと思ったが、吉田和典著「愛知の神社」によると、分社数のベスト10は、神明社、八幡宮、白山社、天満者・天神社、八剣社、津島神社、秋葉神社、熊野神社、稲荷神社日吉神社で、熱田社は意外と少ないようだ。
一の鳥居から参道を行くと大きな森があり、二の鳥居がある。
祭神については、資料がないのでわからないが、多分日本武尊であろう。
拝殿屋根の鬼瓦には、「熱田」だとおもうのだが、「熱」の字が変わった字になっている。
拝殿正面には龍のかざりがつく。
雲か水流の中から顔を出す、図柄で全身像ではなくて珍しい。
社殿は南向きに建ち、祭文殿、本殿と続く。
祭文殿正面の蟇股には、蛇腹模様に「熱田社」の文字。
本殿は、覆屋の中で見ることはできない。
参道に、「英霊の碑」があり、その前にある石燈籠には、また茶器の絵柄がほりこまれていて、ハートも掘り込まれている。
このすぐ東に「三宅川」があり、その南、下流に式内社の「伊久波神社」があるので川沿いの道を行くと、道は細いが意外と車の往来が多いので、一つ道をそれようと曲がったところ、予定外の「八劔神社」に行き当たった。
鳥居は、赤く塗られた「両部鳥居」で、けっこう長い参道が続く。
祭神は、「愛知県神社名鑑」によると、左曽良比大神、姫大神、大主神、八劔神
「左曽良比大神」というのは、検索したがどのような神様なのかわからなかった。
社殿は、東南東向きに建つ。
神紋はみられないが、拝殿正面には、龍の飾りがつく。
祭文殿、本殿と続くが、本殿は覆屋で見ることはできない。
私は、各地の八剣社も訪ねているので、偶然、この八剣社に行き当たることができてラッキーであった。 |
番外篇 尾張を歩く
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領内川を北上して「鵜多須」の集落を抜けた畑の中に式内社の「宇太志神社」はある。
「角川日本地名大辞典23」によれば、地名は、川鵜が多くいたことに由来するそうだ。
鳥居をくぐると石造りの蕃塀があるが、彫り物の飾りはない。
長い参道を進むと、社殿が東南東向きに建つ。
拝殿の内に由緒書の額があり、
「飛鳥時代の白鳳元年(673)この地方開拓の神様邑上足尼命(うがたりにのみこと)をお祭りしました。八開村で一番古い神社(延喜式内社)です。慶安2年(1649)杉原治兵衛尉が木曽清流の此処に再興しました。御本殿は文久2年(1862)新築されました。明治5年5月郷社に列格、同40年10月神饌幣帛料供進の郷社に指定を受け、県知事代理、または部長、または村長が大祭日に参向しました。昭和21年現在の制度になりました。郷土史(尾張誌 地名考 名所図絵など)八開村史に神社のことが詳しく書いてあります。俗に鵜多須白鬚大明神と敬い特に延命長寿を祈願しました。例祭日にお釜の湯で厄祓い、お宮西の川原で田舎競馬があって参拝者で賑やかでした。俳句の奉納も大正頃まで盛んに行われました。」
祭神の邑上足尼命は、「式内社調査報告8」によると、「生江臣祖葛城襲津彦命四世孫」ということで、葛城氏につながるらしい。
拝殿など屋根瓦に神紋は見られない。
拝殿正面には、古い額がかかるが、文字は読むことができない。
拝殿の内には、「尾張志」などのコピーが額に入れて掲げられている。
社殿は、祭文殿、本殿と続く。
本殿は、流造り。
ここから帰り道で、県道128号を東へ日光川を越えて更に東へ行くと、県道沿いに「内荒神社」と「神明社」がそれぞれ、南向き、東向きにあった。
その入り口の広場に立つ石灯篭には、これまで見たことが無かった「茶器」が彫りこまれていた。
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また佐屋街道を西へ、津島に入って南へ、名鉄尾西線の「日比野」駅の南西ちょっとのところに式内社の「由乃伎神社」があった。
一の鳥居から長い参道が続き、二の鳥居に到る。
ここも由緒書板はないので「式内社調査報告8」によると、
祭神は、「昭和27年の神社明細書は、はじめ祭神不詳としたが、後に日子湯支命(ひこゆきのみこと)に改めている。このことからもわかるように、当社の祭神は、古来一定せず、諸書によると諸説があった。」ということで、現在は、「日子湯支命」となっているそうだ。
その本には、村史の記事も紹介されている。
「『村史』の詳細な由緒である。『村史』は、祭神を日子湯支命として、「扨(さて)此命を此里に社を建て齋ひ奉れる所以は、神武天皇御東征相濟み橿原に奠都し給へるも大和國以東の國々は、未だ王澤に沾ひ奉らざりしかば、軍勢を遣はして征伐せしめ給ふ。伊勢國風土記に天日別命を遣はして平げしめ給へるが、此日子湯支命も御親神以來代々物部の將師の家なれば、同じく物部の軍勢を率ゐて此出征に加はりたまひ、最先鋒となりて我尾張國まで攻入り、此あたりに御軍を屯在せしめ、御子孫之を統率して此の地方を開拓し、生民を撫育し給へる故に其子孫の此社を建て給へるものならむ。其の軍卒の屯して御子孫のますによりて此の地名を負ひ、又祀れる神の名によりて神社の名に称ふるなり」と述べてゐる。」
このように、日子湯支命は物部氏にかかわる神様であることがわかる。
ニの鳥居をくぐると正面に石製の蕃塀があり、「鯉の滝登り」と「「波間を飛ぶ千鳥」の飾りがつく。
社殿は南向きに建つ。
拝殿屋根の鬼瓦には「由乃伎社」の文字。
本殿は、神明造り。
ここから北へ、式内社の「宇太志神社」へ向ったが、途中、津島の旧街道を走り、津島の市街地を抜けてさらに北上、「草平」の集落へはいるところに「津嶋神社」があった。
さらに進み領内川にかかる橋から大きな楠が見えたので行って見ると、ここも「津島神社」であった。
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また佐屋街道を西へ、日光川を渡ってすぐ北へ少し、諸桑の集落の中、千手寺と接して「諸鍬神社」はあった。
隣の千手寺とは神仏分離で境内を区分したそうで、以前は同じ境内であったそうだ。
社殿は、南向きに建つ。
ここも由緒書板がなかったが、「式内社調査報告8」によれば、
祭神は、いろいろな説があるそうだが、
「現在は、神社明細書の如く天諸羽命((あめのもろはのみこと)とする。」
「対馬国天諸羽命神社と同神とし、倭歌に詠じたる葉守の神であるとするが・・・・。」
「葉守の神」というのは、「樹木を守護する神。カシワやナラなどに宿るという。」
この地「諸桑」というのは、「角川日本地名大辞典23」によると、
「諸桑は守桑の意味で、養蚕の神が祀られていたことによると伝る。」
ということで、「桑の木」の守護神を祀るようだが、「天諸羽命」というのが「葉守の神」なのかどうか、ネット検索しても答えは得られなかった。
鬼瓦などに神紋は見られないが、拝殿に正面に、横書きの額がかかる。 拝殿の内側正面にも額が奉納されているが、何が書かれているのかは読むことができない。
その右側に藁の簾で中を見えなくした神棚が祀られている。
祭文殿正面には、「以和為貴」と、聖徳太子の「十七条の憲法」の第一条の有名な一文が奉納されている。
本殿は、流造りで千木・鰹木はない。
正面の蟇股は見えないが、脇障子には、獅子の飾りがつく。
社殿向って右億には、「塩田龍神社」が祀られている。
このあたりには塩田があったのだろうか。
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11月に入って運動不足解消をもくろんで自転車で式内社をいくつかみてきたが、サイビサビでいつ壊れるかわからないようなしろものなので遠出はむりかなあ、、、ということで、12日に内装3段の自転車を買って、早速13日に旧海部郡の式内社巡りをした。
14歳のときツーリング用のサイクリング車を買って21歳まで、中・高校時代は日帰りの、大学へ入ってからは、九州25日間のサイクリングの放浪に出たりしていたので、何十年ぶりかのサイクリングは楽しい。
また庄内川を越えて佐屋街道を西へ、神守の集落の中、吉祥寺の南側に接して「憶感神社」はあった。
由緒書板はなかったが、「式内社調査報告8」によると、
祭神は、龗神(おかみのかみ)・淤迦美神
「憶感は淤加牟と訓べし、淤加牟は淤加美にて、雨雪を物する龍神なり。」
ということらしく、神社の名は、祭神に由来しているようだ。
鳥居をくぐると木製の蕃塀があり、社殿は、西向きに建つ。
境内は吉祥寺と続いていて、境はわからない。
この前日に火祭りがあったそうで、大きな焚き火のあとが残っている。
拝殿はコンクリート造りで、祭文殿、本殿と続く。
拝殿屋根には紋はつかないが、祭文殿の鬼瓦には「神」の字がある。
本殿は流造りで屋根は朱色に塗られている。
本殿正面には、龍の飾りがつく。
脇障子には、獅子の飾りがつく。
社殿の南側に境内社の「神白社」があり、祭神は、豊受大神・菊理姫命だそうだ。
吉祥寺本堂の前には、本堂修理記念の木柱が立てられていて、「一天四海 安穏泰平 風雨順時 五穀成就」とある。
憶感神社から真西へ続く街道を少し行くと「穂歳神社(ほうとしじんじゃ)」がある。
写真の道の奥のほうの突き当たりの森が憶感神社。 ここも由緒書板は無いが、ネット検索してみると、祭神は、「天竺ルイビン国龍帝龍王の御子 」というのと「日本武尊の妾腹の子を祀った神」というのがみつかったが、神社名から素直に読み取ると、「稲穂の歳神」を祀っているんではなかろうか。。。。。
拝殿屋根には紋はついていなくて、本殿は、神明造り。
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