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半之木川から別れ、東へ、新郷瀬川を渡り、式内社の虫鹿神社の前原向屋敷の集落へ入る手前の道端に、東向きに小さな社と山神の石塚があった。
虫鹿神社は、集落の東奥の小高いところにあった。
社殿は、西向きに建つ。
由緒書は掲示されていなかったが、「式内社調査報告8 東海3」によると、
祭神は、國常立尊(くにとこたちのみこと)、國狭槌尊(くにさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくもののみこと)、大日孁貴命、菊理姫命
前者の3神は、日本書紀では、天地開闢の後、国常立尊、国狭槌尊が登場し、次に豊斟渟尊が登場したとする。
初めは入鹿村にあったが、寛永12年(1635)に入鹿池造成のため、民家とともに前原新田に移ったのだそうだ。
拝殿屋根には「菊」の紋。
後方に、祭文殿、渡廊、本殿が続く。
本殿は流れ造りで、北の脇に「福寿稲荷」が祀られている。 本殿正面の蟇股の飾りは「波」を表しているのだろうか?
本殿前の狛犬は「一つ目」で、鍛冶の神「天目一箇神」との関係が感じられる。
境内社の秋葉社、津島社、金刀比羅社(金山彦命)、山神と宇治土公の石塚が南向きに並ぶ。
宇治土公というのは、伊勢神宮の前身であるイセの大神を、みずからの氏神として、その居住地の宇治においてまつっていた地方土豪で、それがここ犬山の地に祀られているというのは興味深い。
ここから東へ一山越えたところに式内社の候補とされている「石作神社」があるのでそこへ向う途中、道の合流点に、「子安観音」と小さな社や石塚が祀られていた。
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番外篇 尾張を歩く
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鳴海杻神社から次の目的地、式内社の「虫鹿神社(むしかじんじゃ)」へ向う。
虫鹿神社は、五条川の支流の半之木川の上流方向にあるので、半之木川の川沿いの道を歩いていると、大きな森があるので行ってみると「比良賀神社」であった。
森のずいぶん先に一の鳥居がある。
社殿は南向きに立ち、鳥居をくぐると蕃塀がある。
拝殿の銅葺き屋根には、「蛇腹」のような図案がついていて、これは、風を送るフイゴを表しているのだろうか。。。。
ここにも「羽黒地区コミュニティ推進協議会」による説明板があり、それによると、
祭神は、天照大御神、須佐之男命、天香語山命ということで、熱田神宮(伊勢神宮)、津島神社、尾張氏の祖と、尾張の神さまが揃っている。
「創建年代は不詳。言い伝えによると、河川の氾濫による田畑を守るため川沿いの6ヶ所を選んで祠を建て、天照大神・天香語山命など6柱を祀ったのが始まりで、その後1ヶ所に集められ「六ヶ所大明神」と称し、「太一大見大明神」とも呼ばれた。太一とは伊勢神宮の別称である。1186年(文治2年:平安時代)の『尾張国神名帳』には、小弓庄羽黒村従三位比良賀神社と記載されている。1200年から1202年(建仁年間:鎌倉時代)梶原景親(幼名豊丸)が現興禅寺に屋敷を構えて以降、代々羽黒梶原氏の居城としこの地を治めていった。その間社領地などを寄進されるなど梶原氏の庇護を受け、1370年代(南北朝時代)には羽黒金屋に鋳物師集団が定着するようになると金物の神「天目一個神(あまのめのいっこのかみ)」を祀った「比良賀天神」を建てるなど大いに賑わったといわれている。しかし、1584年(天正12年:安土桃山時代)の小牧長久手の前哨戦羽黒合戦の戦火で全てを焼失してしまった。1671年(寛文11年:江戸時代)に再建され、1871年(明治4年)比良賀神社と確定され、1913年(大正2年)に神明社と須賀神社を合祀されて現在にいたっている。」
この地には「金屋」という町があり、これも説明板がある。
「「金屋」という地名は、青銅梵鐘や仏像の鋳物を作る鋳物師(いもじ)たちの町があったことを示し、羽黒には北金屋と南金屋がある。その昔、鋳物師のほとんどが河内国南郡狭山郷(現大阪府松原市)に定住し鋳物に従事していた人たちの流れをくむといわれている。平安末期戦乱の世となると鋳物師たちは、全国各地に移り住むようになり、それぞれの地で朝廷や社寺の下で座を結び製造販売独占の保護を受けたり、地方の領主の庇護下で製造するものが増えていった。1370年頃から1560年頃(南北朝時代〜戦国時代)にかけて鋳物師たちが羽黒北金屋と南金屋にも定着するようになった。ここで製造されたもので現存する最も古い梵鐘が一宮市の妙興寺にあり、鐘には「永和二年(1376年)大工羽黒新兵衛尉」の銘があり、一番新しいものは長野県下伊那郡阿南町瑞光院の梵鐘で「尾州丹羽郡羽黒村住人太郎兵衛宗次・享保元年(1528年)」の銘があることなどから、この約200年間ここ金屋が鋳物師たちの生産拠点として栄え、一豪族であった羽黒梶原氏は、貴重な鋳物技術を持った鋳物師たちを掌握して力を蓄えていったと考えられる。しかし、1562年(永禄5年:戦国時代)織田信長は尾張鋳物師水野太郎左衛に黒印状を渡し、尾張での水野家以外の銅や製鉄品の鋳造を禁止したため、羽黒での製造ができなくなり衰退してしまった。」
幣殿、本殿は神明造り。
境内末社は、金光羅社(金毘羅社?)、猿田彦社、天神社、愛宕社、三狐稲荷大明神、磯前社があり、御嶽山大権現、多賀神社の石塚、そして山神を祀る石塚も並ぶ。
10月9日 午後2時30分から大祭があるので氏子の人たちが境内と神社周辺の草刈・掃除をしていて、境内にいたおじいさんが、お祭では獅子舞がでること、羽黒の街道筋は昔は御茶屋もあってずいぶん賑わったことなどなどいろいろとお話をしてくれた。
また半之木川に沿って歩いていくと、名鉄線を越したところで田んぼの中に、こんもりとした森があるのでまた行ってみた。
本殿のみの小さな神社で神社の名前を記した石柱も由緒書板もなく神社名はわからなかったが、愛知県神社庁のHPで調べると「恩田社」であることはわかったが、祭神はわからない。
境内には、御嶽山大権現、氏神、宇賀神の石塚がある。
そして田んぼの中には、ここ濃尾平野の田園地帯でよくみるアオサギとケリがそろっていた。
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8月に犬山の尾張富士で行われた「石上げ祭り」を見に来た時、このあたりの田園風景が美しかったので、稲穂の垂れる秋、その地にいくつかある式内社をめあてに再度歩いてみた。
名鉄犬山線で犬山までいき、そこで小牧線に乗り換えて一つ目の「羽黒駅」で降りて歩きはじめた。
羽黒駅の南に五条川が東西に流れていて、その堤防沿いの道を西へ行く。
先日の大雨の影響か、濁った水が流れている。
堤には、彼岸花が咲き誇る。
五条川と北東から流れてきている半之木川の合流するところから南へ少し行くと田んぼの中に森が見えてきて、そこが式内社の「鳴海杻神社」であった。
神社やこのあたりの史跡の説明板があり、それによると、
祭神は、山岬多良斯神(やまさきたらしのかみ)・高於加美神(たかおかみのかみ)
「鳴海てがし神社は式内社である。式内社とは、927年(延長5年:平安時代)に編纂された延喜式神明帳に記載されている2861社の中の1つで、この他に犬山市内には、大県神社・針綱神社・虫鹿神社・立野神社・諸鑑(もろくわ)神社で合わせて6つの式内社がある。鳴海てがし神社の創建は明らかではないが、481年(清寧(せいねい)天皇2年:古墳時代中期)と伝えられおり、この羽黒が歴史ある土地であることを物語っている。この神社の祭神の山岬多良欺神(やまさきたらしのかみ)は出雲大社の祭神大国主命の流れをくむ神といわれている。一方、高於加美神(たかおかみのかみ)は1912年(明治45年)にこの神を祭神とする貴船社が合祀され、祭神に追加されたものである。この他に、境内社として南宮社・神明社・多賀社・津島社の4社が祀られている。一方、この神社に併祀されている弁天堂は、江戸時代後期に建てられたもので、当時は満々とした池に浮かぶ風情ある姿であったといわれていたが、近年になって池の水が冬枯れするようになったため、往時の姿を取り戻すべく井戸を掘り下げ、一年を通して水をたたえる池を完成させた。これを記念して鎌倉の宇賀福神社の銭洗弁財天が祀られている。なお、この神社の名前の『てがし』という語には、モチノキの意味が含まれており、境内には犬山の巨木50選に選ばれた「クロガネモチ」や「ハナノキ」がある。」
鳥居をくぐると蕃塀があり、その向こうに社殿が南向きに建つ
拝殿屋根には「五七桐」の紋。
正面には、立派な木彫りの龍の飾りがつく。
その後方のには祭文殿、渡殿、本殿が続く。
本殿は、入母屋造りで、千木・鰹木はない。
神社に貼られていた由緒書きによると、
「現在の本殿は大正6年、樹齢千年と言われた御神木の大桧、目通り4m、全長27mが立ち枯れ伐採、福井県永平寺町棟梁、渡辺陸助により、その大桧をつかい造営されたものである。」
ということで直径4mもの巨木があったんだなあ。。。。。
本殿正面には、獅子の飾りがつく。
虹梁には龍が、そのほかにも鳥も見られる。
本殿側面の飾りは、波とその上に「カギ形の道具」のようなものも見える。
境内には巨木が多く、「ハナノキ」には説明書きが貼られていた。
「愛知県の県木に定められているハナノキは別名をハナカエデとも言い、県の東部を中心とする狭い地域に分布しています。日本の固有種であり、愛知のほかには長野・岐阜・滋賀の4県のみに自生し、国の天然記念物にも指定されています。水辺を好むとも言われており、名水の里にふさわしい木でもあります。春には新芽の前に赤くかわいらしい花を咲かせ、秋には美しい紅葉を楽しませてくれます。このハナノキは、犬山市エコアップリーダーの巨樹巨木調査グループにより巨樹として認定され、樹齢は200年と推定されています。」
GHQから贈られたという樹齢60年のベイマツの巨木もある。
神社の南に「銭洗弁財天」が建つ。
「羽黒の清水と銭洗弁財天」という説明板によると、
「弁才天は七福神の中で紅一点の琵琶を弾く弁天様でよく知られている。そもそも、弁財天は河川の神(水の神)で日本三大弁天といわれる竹生島(滋賀県琵琶湖)・江の島(神奈川県)・厳島(広島県)などはいずれも水辺に祀られている。また、財福・知恵・音楽・弁才の神としても信仰を集めている。
太古より五条川は鳴海てがし神社より南側を流れていたが、1731年(享保16年:江戸時代)の大洪水で現在の五条川になったといわれている。
もともと成海地区には、五条川による大湿地地帯が形成され、昭和初期までは地下水位が高く、各所に湧水があった。この良質で豊富な地下水を利用して戦前までは7軒の酒蔵があり、現在も酒蔵が2軒、地ビールが2軒と大手洋酒ブランドなど、多くの人がこの水の恩恵を受けてきている。」
このあたりの史跡の説明板によると、紀元前1200年代の旧石器時代の遺跡である「北屋敷遺跡」、弥生時代末から古墳時代後期にかけての土器片が散布するという「北巾遺跡」、古代人が皿・壺などの焼き物を生産した「古窯跡」、そして、「高橋古墳群」「椿古墳群」と、旧石器時代から古墳時代にわたる遺跡群が知られているそうで、古くから人が住み着いた土地なんだなあ。。。。
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国香会の石上げの終わり近くになって雷が鳴り、ひと雨きそうになったので、あわてて下山する。
しかし、幸いたいした雨にはならなかったのでよかった。
夜8時から薪を束ねた松明をブンブン振り回して山から下りてくる「火振り神事」があるので、神社へ来る途中見つけておいた地元の人たちが出している出店へ行って、ヤキソバとビールで腹ごしらえする。
7時ごろ拝殿前に戻ると、松明を持った小中学生や若衆が集まってきている。
私は、始めは拝殿前から少し登った松の木陰に陣取った。
8時、花火が上がるのを合図に、まず小学生から火振りが始まった。
松の木陰にいるときは、すぐ間近を松明がかすめていってビビッた。
こうした行事も、若衆が大人になる通過儀礼なんだろう。
40分ほどで火振り神事も終わり、名鉄の羽黒駅まで歩いて、22時ぐらいに帰宅できた。 |
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上げられてきた「献石」はほとんどが頂上まで届くわけではなく、登山道の両側に石碑のように立てられているものが多い。
ただ、いったん石を置いたあと、頂上の奥宮へ参拝する人たちも多い。
しかし、一人で石をしょって上がってきた人もいた。
頂上まで持ってこられた石は拝殿前に積まれている。
大宮浅間社は、別名「尾張富士」。
参道の森の切れ間からは、ライバルの「本宮山」が見える。
頂上で念のため持ってきたパンを食べ、一休みしてから下山する。
麓までおりると「尾張富士」と染め抜かれたハッピを着た一団が石上げを始めるところで、結構大きな石を担いでいたので、またビデオに撮ろうと中宮の手前まで登って待ち構えていたら、2合目あたりで石を置いて帰ってしまい、ガッカリしてしまう。
しばらく、そこで次の一団を待ったが、なかなかこないので、また麓まで下りると「国」のハッピの一団が拝殿前に入ってきたので、また
その一団について登った。
この「国香会」は、中宮の手前まで石を運んだ。
揃いのパッピ姿がカッコイイ。
国香会の奉納板には、御幣とともに鎌がついていて、「左鎌の奉納」というのはこれなんだな、と確認できた。 私はこの日、頂上まで1回、中宮までは3回のぼったことになる。
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