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8月7日、日曜日、犬山の大宮浅間神社で「石上げ祭り」が行われたので見に行った。
朝は用事があったので、10時すぎに名鉄で犬山まで行き、犬山駅前から明治村行きのバスにのり、長者町で下りて神社まで歩いた。
大宮浅間神社は、「尾張富士」という標高275mの美しい山の頂上に奥宮、中腹に中宮、麓に本社が鎮座する。
写真の左の左の山が「尾張富士」で右の山が標高293mの「本宮山」。
石上げ祭りは、尾張富士が本宮山より低いことに由来する祭りで、犬山観光情報のHPによると、
「その昔、尾張冨士のお山が、隣の本宮山との「背くらべ」に負けました。そこで尾張冨士のご祭神は、村人に石を山頂に担ぎ上げ、山を高くすることを命じました。そして石を積み上げた村人には願いを叶え、幸せになるよう神徳を与えました。これにちなんで老若男女が家族やグループで大小さまざまな石を山頂に担ぎ上げるのが「石上げ祭」です。家族、友人、職場のグループなど、どなたでも参加できるお祭りです。暑い夏の一日、みんなで力をあわせ、尾張冨士の山頂に石を担ぎ上げ、一年間の健康と安全を願いましょう。詳しくは当石上げ祭伝承保存会(尾張冨士 大宮浅間神社内)までお問い合せください。」
11時過ぎに神社に着いたが、境内は石上げをするグループで賑わっていた。
祭神は、木花開耶姫命と天照大神で、社殿は南向きに建ち、拝殿、幣殿、本殿が並ぶ。
「桜」の紋の幕が掛かっていた。 拝殿にも玉石が奉納されている。
二人で石を持って上がれる「二人づり献石」も用意されていて、それを持って山を登る人たちも多かった。
12時に花火が鳴ると、大きな3つのグループが拝殿前で次々にお祓いを受けて、「石上げ音頭?」の歌に合わせて「ヨイショ・ヨイショ」と山を登り始めた。
最後の「河北(こぎた)区」が一番大きなグループで、私もそのグループといっしょに登ることにした。
参道は岩肌むき出しの険しい道で、一人で足場を選んで登るのも大変だが、石を担いで足場を選べない状況で登っていくのは大変だろうと思う。
中宮のあるところは1/3ほど登ったところで、そこから伊吹山方向の眺望がすばらしい。
中宮には、拝所と本殿、そして両側にも社がある。
中宮の広場の一角の小屋に、鎌が奉納されてる。
この鎌は、谷川健一編「日本の神々10 東海」みよると、
「当社に願を掛けるときは左鎌を奉納することになっており、それは木花咲耶姫命が左鎌で木賊(とくさ)を刈った由緒によるとされている。」
その隣の小屋には、「竈に釜」もある。
河北区の石上げのグループは、頂上まで持っていくわけではなく、この先少し登ったところに安置した。
石は一人で持ち上げることができるほどの小さなものだったが、雑談をきいていると、来年は畳ほどの大きな石を上げて石碑を立てる、と話していた。
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番外篇 尾張を歩く
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宵祭から明けて24日、朝祭があるということで、7時ごろ家を出て、津島へ向かった。
朝祭は、パンフレットによると、
「明けて次の朝は、がらりと飾付けも一変した津島5艘の祭船に旧市江村の市江車を先頭に6艘の車楽船(だんじりぶね)が出ます。車楽船は屋台の上に能の番組などを形どった人形を飾り、古楽を奏でながら、ゆうゆうと漕ぎ進むありさまは、王朝絵巻を見るような豪華さです。先頭の市江車から10人の鉾持が布鉾を持って水中に飛び込み、御旅所へ泳ぎ着き御輿に拝礼し、神社まで走り拝殿前に布鉾を奉納します。」
7時半すぎに津島に着き、会場のほうへ歩いていき、旧街道の道に入ると、祭の衆がいるので、何かあるのか、と聞くと、8時ごろに稚児行列が出発するということで、私もそこで出発を待つことにした。
8時すぎに行列が出発して、わたしもいっしょに車楽船が泊まる「車河戸」へ向かう。
稚児は地面に足をつけてはいけないそうで、祭りの最中、稚児は肩車されて移動する。
車楽船が出発して、先頭の「市江車」から鉾を持った若者が池に飛び込んでお旅所まで泳ぐ、という行事が呼び物の一つ。
谷川健一編「日本の神々10 東海」によると、
「神社の船(赤船)が迎えにやってくると、市江車を先頭に津島車五艘がつづいて御旅所めざして上ってくる。市江車が中の島近くにくると、鉾持ちの青年がつぎつぎに川へ飛び込んで御旅所前に上陸し、そのまま鉾を持って約300m離れた津島神社へ駈け込み、一番.二番は社務所へ入り、三番は楼門前の石橋に張られた注連縄を右手で切って拝殿前へ参入して鉾を立てる。この注連縄を切ることによってはじめて神輿の還御ができることになる。」
6艘の車楽船がすべてp旅所に到着して稚児が上陸すると、御輿の還御になる。
先頭のほうに天狗が一人、この天狗さんの持つ榊で無病息災お祓いを受けようと子供を連れた人たちが駆け寄るが、天狗さんの顔をみて泣き出す子供もいた。
行列は雅楽を奏でていくが、その曲は「抜頭」であるらしい。
由緒ありげな「獅子頭」が印象的だった。
御輿が神社に到着して、神様が本殿にお帰りになると、市江稚児の一行による笛と太鼓の「神前奏楽」そして「盃ごと」が行われる。
市江稚児が帰ったあと、5人の津島稚児が拝殿に入り、また、「神前奏楽」そして「盃ごと」が行われて朝祭は終わる。
拝殿に「布鉾」が立てかけられていて、この布の雫を患部につけると病気やケガが治るそうで、私もいろいろ頭が痛いので、頭に雫をつけてきた。
拝殿前には、「茅の輪」がしつらえてあり、もちろん私も作法に従ってくぐってきた。
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津島にある津島神社へは何度か行ったことがあるが、7月23・24日に天王祭が行われたので見に行った。
名鉄津島駅に祭りのパンフレットが置いてあって、それによると、
「天王祭は津島神社の祭礼として500年以上も続いています。その起源としては南北朝時代に津島に逃れてきた良王親王(後醍醐天皇の曽孫南朝方の親王)を守る津島武士が、北朝方の武士を船遊びにさそい討ち取ったことに由る行事とか、津島神社の「神葭流し」の神事をもとにしたものとか言われていますが明らかではありません。永禄3年(1560)桶狭間の戦いの2年前、夫人同伴で織田信長が現在の御旅所附近にかけられていた天王橋から朝祭を見物しています。祭は、昔から陰暦の6月14・15日に行われていましたが、昭和38年から太陽暦の7月第4土曜日(宵祭)と翌日の日曜日(朝祭)に変更されて現在に至っています。(昭和55年1月、国重要無形民俗文化財に指定)」
宵祭の「まきわら船」の写真は見たことがあったが、やはり現物を目の当たりにすると、その美しさは格別であった。
翌日の中日新聞によると、20万人が訪れたということだが、範囲が広いので熱田神宮の尚武祭(例祭)のときのように身動きがとれなくなる、ということはなかった。
宵祭は、やはりパンフレットによると、
「旧津島五ケ村の、筏場(いかだば)、下構(しもがまえ)、堤下(とうげ)、米之座(こめのざ)、今市場(いまいちば)から5艘のまきわら船が出されます。屋台の上に半円・山型に365個(1年をあらわす)の提灯。中央高く真柱(まばしら)を立て、12個(月をあらわす)の提灯をかかげます。これら提灯に火がつけられ、津島笛を奏でながらゆうゆうと漕ぎ渡るころ、灯と水のドラマは頂点に達します。」
さらに、谷川健一編「日本の神々10 東海」によると、
「天王川の入江の車河戸と呼ぽれるところで津島の五車は一斉に準備を調え、夜八時頃にすべての提灯に火がともされ、太鼓、津島笛の音とともに、川面を赤々と提灯の火で染めつつ五つの車楽が御旅所へとのぼってくる。御旅所に着岸すると車屋(祭の関係者)が上陸し、神輿に参拝して再び帰路につく。」
私は、始めは、車河戸から天王池に出る口のところに陣取ったが、森影からまきわら船が姿を現す様は、日食で隠れた太陽が月蔭から姿を現してくるようで、感動を覚えた。
5艘のまきわら船がすべて帰るまでにはそうとう時間がかかるようで、電車が混む前に、と22時前には津島駅へ向かった。
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昨日の祖父江つながりで、昨年10月10日に行った祖父江の長命山刈萱堂での「火渡り」の行事を紹介。
私の父親が以前は毎年参加していたという、刈萱堂で行われる「採燈大護摩供 」という行事に、父親の代参で行ってくるように言われ、昨年10月は中国浙江省の山村、東坑村で行われる「火祭り」を見に行くことにしていたので、
先に日本の火渡りをみておくのもいいだろうと、でかけた次第。
すばらしい秋晴れに恵まれ、こうした行事に参加するのは初めてのことで、興味深く観察した。
こうした行事では、「般若心経」を読むものらしい。
火渡りの行事の前に、修験者の問答があり、修験道とはどういうものかがわかる。
矢と剣によって、その場のお祓いが行われる。
そして火がつけられ、火渡りに進む。
帰りのおみやげに湯飲みをいただけるが、私は、父親が以前いただいてきたものを愛用していて、それには、「長寿の心得」というのが書かれている。
「人生は六十から
七十才でお迎えの来た時は、只今留守と言へ
八十才でお迎えの来た時は、まだまだ早いと言へ
九十才でお迎えの来た時は、そう急がずともよいと言へ
百才でお迎えの来た時は、頃を見て、こちらから、ボツボツ行くと言へ」
私も、人生これからだ。 |
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7月9日、「虫送り」という伝統行事が、稲沢市祖父江町で行われる、ということで夕方から見に行った。
「祖父江の虫送り」というのは、教育委員会のHPによると、
「今から約800年ほど前,世の中が平氏と源氏に分かれて激しい戦いをしていたころ,平氏の武将に斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)がいた。実盛は戦いの中,稲の切り株に馬の足をとられ,落馬したところを敵に討ち取られた。実盛はそれを恨みに思って,毎年,稲を荒らす害虫になったと伝えられている。その害虫を追い払うために行われてきたのが,虫送りである。愛知県無形民俗文化財に指定されている。」
名鉄一宮から尾西線に乗り換え、森上駅で降り、歩いて約40分、夕方5時半ぐらいに行事が行われる牧川小学校に到着した。
西のほうには養老山脈が、西北に南宮山が見える。
小学校の体育館の中に、すでに藁で作った「実盛人形」が飾ってあった。
実盛がまたがる馬のできばえもなかなかいい。 お馬さんのサツマイモとナスでできた立派な一物がほほえましい。
暗くなり始めた19時すぎ、松明を抱えて、行進がはじまった。
行進が始まる前の挨拶で、今回が6回目ということだったが、いったん途絶えた行事がまた復活して行われているようだ。
中国でもこれから文革で途絶えてしまったお祭が復活していくんだろうと思う。 |


