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尾張大國霊神社から名鉄の線路に沿って北へ少し行くと、線路の近くに式内社の「久多神社」がある。
由緒書板はなかったが、「式内社調査報告8」によると、
祭神は、天背男命(あませおのみこと)。
「久多神社の祭神は国府宮宮司久田氏野々部氏の祖で、この所に天降して岩室に住し、尾張の国土開発に尽くした神であるという。」
この地を開拓した氏族の祖神廟であるらしい。
社地はながらく不明になっていたが、天保13年(1842)に再建されたそうだ。 社殿は、南向きに建つ。
鬼瓦には神紋はない。
石垣で一段高くなったところに祭文殿と本殿が建つ。
本殿は、神明造り。
祭文殿の側面の「大瓶束(たいへいつか)」という部分には、「櫛」のような意匠の飾りが彫り込まれている。
「東畑廃寺跡」との説明板が立ち、
「尾張地方最古の寺院の一つで白鳳時代(今から1300年前)に創建された。」
これについても「式内社調査報告8」に記されている。
「東畑廃寺は、稲沢市稲島町字東畑から石畑、菩提寺にかけて所在し、尾張国府跡推定地である松下、国府宮両町から北約1㎞、矢合町の尾張国分寺跡から北東約4㎞に位置し、古代尾張国における重要な水上交通路であった三宅川(現在は大江川)右岸の標高7mの自然堤防上に立地する。特に久多神社付近が最も標高が高く、寺院も同神社を中心に存在したと推定される。」
この日はここまでで、名鉄の線路に沿った道を南へ、名古屋へ帰った。 |
番外篇 尾張を歩く
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尾張大国霊神社には2つの別宮が東と南西にあり、ともに式内社だ。
尾張大国霊神社の社域を出て、東へ行き、2つ目の路地を北へ入るとすぐこんもりと小さな森があり、それが式内社の「宗像神社」。
入口に鳥居はなく、西向きだが、流造りの社は南向きに建つ。
祭神は、宗像三女神のうちの一人の「田心姫命(たごりひめのみこと)」
弥生時代、濃尾平野に最初にやってきたのは宗像海人なんだろうか。。。。
社の屋根の鬼板には紋はない。
「大御霊神社(おおみたまじんじゃ)」は、尾張大国霊神社の参道を南へ、最初に参道を横切る道を西へちょっと行くとある。
ここも鳥居はなく、入って正面に流造りの社が南向きに建つ。
祭神は、「大歳神之御子(おおとしがみのみこ)」
尾張大国霊神社、宗像神社、大御霊神社は、「国府宮の三社」と呼ばれるそうだが、それらの創始について、「式内社調査報告8」には、「田島仲康の「尾張大國霊神社」」の説が引用されている。
「さて、国府宮の三社とは前記の如く、農耕生活草創期に先ず国霊神を祀ったが、また、雨水の災害・水流の驚異・水利の恩恵・生命につながる水等に人力の及ばない霊威を感じて、水の神を、今は大江川という水流に臨んで祀った。一面、生命源の食物の恩沢・産霊に畏敬して万頃ひろがる沃野に面して五穀の神を祀ることとなって、ここに国土・水・五穀の三神鎮座という構成が生れた。これに人格神としての神名を奉るに当って、尾張大国霊神に素戔鳴尊の子大国主命を、水の神に素戔鳴尊の子宗形神・憶感神を、五穀の神に大御霊神・大年神・御年神・倉稲魂を当てた。所謂、何れも兄弟の神々である。全く臆測私考に過ぎないけれども、人間生活には不離の三社であり、生命に直結している国府宮信仰の面目でもある。」 |
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尾張大國霊神社のHPを見ていて、旧暦正月7日に豊作を祈願する「鍬形祭」があることを知り、ちょうど昨日1月29日がその日にあたり、いい機会と見に行った。
神事は朝9時からで、私は8時過ぎに神社に着いて時間はたっぷりあるので、神社やその周辺を散歩した。
「鍬形祭」は、神社のHPによると、
「全国各地の神社で行なわれる祈年祭にあたるお祭りです。当社のこれは特異なお祭りで、青竹で作った「鍬形」と猪・鶏を形取った「白亥」・「白鶏」とをご神前にお供えし五穀豊穣をお祈りした後、拝殿の東側に白亥・西側に白鶏と夫々唱えながら是を投げ捨て、次いで同様に東西へ散米をします。」
9時に太鼓がドンドンドンと鳴り、神事は始まった。
居合わせたおばさまが神職にこの祭りのいわれを聞いたので、ビデオの中にもその内容を入れておいたが、田や畑を荒らす竹でできた猪と鳥をほうりだすことで、その害を防ぎ、玄米を撒いて大地の神に豊作を祈願する、という神事なのだそうだ。
竹の作り物は、「白亥」・「白鶏」ということで、鳥は鶏のようで、鶏は害を与えるとはおもえないので、この点は少し疑問が残った。
竹の作り物は、写真上の縄が牙を表しているのが猪、下の縄が羽を表しているのが鶏。
「鍬形」の竹の作り物は、神前に供えられていて見ることはできなかった。
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裳咋神社から、同じ集落の南端にある「八剣社」に寄り、稲沢の市街地に近い「国分寺跡」、その近くの「市神社」、「三社神社」にも寄って、名鉄「国府宮駅」近くの、式内社「尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)」へ向った。
「大江用水」が二の鳥居の南側を北東から南西へ流れていて、私はこの鳥居が一の鳥居だと思っていたが、帰りに国府宮から名鉄の線路沿いに名古屋へ向って自転車を走らせていたら、二の鳥居よりもずっと南に、一の鳥居があった。
二の鳥居
二の鳥居からも長い参道が続き、二の鳥居をくぐると、石橋がある。
そして、木製の両部型の三の鳥居がある。
やっと社殿域にたどり着く。
まずは、重要文化財の楼門がある。
神社のHPによると、
「足利初期の建立 正保3年(1646年)の解体大修理の際上層を改造しております。」
蟇股には、正面に、「亀」、内に「獅子」、向こう正面に「牡丹」の飾りが付く。
楼門をくぐった正面には、木製の蕃塀がある。
そして、社殿は、南向きに建つ。
拝殿も重要文化財で、
「徳川初期の建立 特徴として切妻造で内側に柱が並立しております。」
拝殿屋根の鬼板には「五七桐」の紋。
拝殿正面の蟇股にも「五七桐」の紋がつく。
「本殿は流造、拝殿は切妻造、全体の様式(建物の配置)は尾張式といわれるもので、本殿・渡殿・祭文殿・東西の廻廊・拝殿・楼門と建ち並んでおります。」
社殿は、いわゆる「尾張造り」で、熱田神宮も明治時代に神明造りに改築されるまでは、この形式であったという。
「本殿に接する形で磐境と呼ばれる5個の大きな自然石が円形に立ち並んでおります。これは、今日のように社殿を建てて神様をお祀りする以前の最も古い原始的な祭場で、当社がこの地に古くより創始されていたことを物語っております。」
ということだが、これは見ることができない。
祭神は、尾張大國霊神。
「この尾張地方の國霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りしたのであります。 」
尾張開拓の開始期から祀られていた、ということで、尾張氏以前の弥生時代から祀られたことになる。
社殿の東側には、「はだか祭」で有名な、「儺追殿」がある。
社域の東側の森の中に、司宮神社、稲荷社、三女社、白山社、神明社、居森社の末社が並んで建っている。
絵馬は、これも「五七桐」。
この日は11月20日で、七五三や初参りで賑わっていて、境内では菊の展示もあった。
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昨年11月20日、自転車で稲沢の式内社を巡った。
名古屋から北西、以前歩いた木田あたりの富士社・八剣社・富士神社をすぎてもうすこし西、天神東の集落の北に式内社の「裳咋神社」はあった。
由緒書板はなかったが、「式内社調査報告8」によると、
祭神は、裳咋臣船主。
「・・・裳咋氏が祀った神社であろう。
阿部氏の一族で伊賀国阿拝郡の豪族阿閉氏=敢臣の勢力が尾張に及んでおり、その支配下の民衆、おそらくは敢石部(敢礒部)の首長の一人が裳咋臣であったのだろう。」
ということで、この地の豪族裳咋氏の祖先廟であるらしい。
鳥居をくぐって正面に、石造の蕃塀がある。
上部は龍、下部には、波間を飛ぶ千鳥、五三桐、因幡の白兎の飾りがつく。
社殿は、南南西向きに建つ。
拝殿正面の蟇股には独特の模様がついている。
渡殿で祭文殿、本殿がつながっている。
本殿は、流造りで千木・鰹木は載らない。
本殿正面には龍、脇障子には、鶴の飾りがつく。
床下にも蟇股がつき、水流(雲か?)の飾りがつく。
石燈籠には、桃の飾りがつく。
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