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白山神社からダウンヒルで爽快に高蔵寺へ出て、国道155号をひたすら西へ、高速道路の高架をくぐってすこしで「松原神社」の前に至る。
入口を入ってすぐ、向って左に「高牟神社」、右に「「稲荷山白狐義兼神社」の石標も立つ。
この神社は、名古屋市守山区瀬古の「高牟神社」とともに、式内社の「高牟神社」の候補地になっている。
由緒書の石碑があり、
祭神は、高皇産靈尊、倉稻魂命、埴山媛命、稚産霊命、大宮姫命、大山祇命、猿田彦命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后
「当社は元明天皇の御世の和銅4年(711)の創建と伝えている。社地のあたりは古来地名を高牟(たかむ)と呼び、社名も古くは高牟神社と号し、延喜式第九(神名式)所載の春日部郡高牟神社に比定される。
中世に稲荷信仰が普及して合祀されるにいたったため江戸時代の棟札びは高牟稲荷大明神と記したものが少なくないし、京都の神祇官の神道裁許状にもそう記されている。
しかし高牟神社は金工の祭神高皇産霊神は天地創造の神、稲荷大明神は農業神として、両者は別個の神格として崇敬されて来た。
時移り明治4年10月、犬山県は当社を尾張国神名帳所載の松原神社と認定し、翌5年5月愛知県は近傍18ケ村の郷社に確定したので、松原神社と名を改めて現在にいたっている。」
「高皇産靈尊」が「金工の祭神」となっているのは興味深い。
参道は狭いが、社殿のあるところは広く、拝殿前に木製の蕃塀がある。
社殿は南向きに建つ。
拝殿屋根の鬼には、「五七桐」の紋。
拝殿正面の注連縄には、特徴のある作り物がぶら下げられている。
拝殿の内に「馬之塔(おまんと)の絵馬」が奉納されている。
拝殿両側面に、「高牟稲荷大明神」のなごりか、狐の狛犬がある。
祭文殿、本殿と続き、本殿は流造りで、千木・鰹木はない。
本殿正面の蟇股には、「お魚に乗った仙人」の飾りがつく。
本殿側面の蟇股には、「太陽」の図柄の飾りがつく。
社殿の東側に、「白狐社」、「黄狐社」、を祀る稲荷社がある。
そのほか、下記のようにたくさんの境内社の社が並ぶ。
神明社、香良洲社、明治神宮、熱田神宮、金毘羅社、蛭子社、御鍬社、大山祗社、山神(石塔)、津島社、南宮社、秋葉社、御嶽社
手水舎には、竹に吊るして、紅白の手ぬぐいが奉納されている。
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番外篇 尾張を歩く
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和爾良神社から庄内川上流の定光寺まで行き紅葉を眺め、西へ一山越えた外之原にある、白山神社へ向った。
一山越えて、鯎川(うぐいがわ)に沿って走り、途中で川沿いの道がなくなり街道に入り、外之原町の集落へ入って進むと、集落のはずれに「白山神社入口」の看板があった。
鳥居をくぐってしばらく行くと、鯎川の向こうに白山神社の社殿があった。
白山神社は、式内社の「訓原神社(くにはらじんじゃ)」の候補の一つではあるが、「式内社調査報告8」によると、
「訓原は國原」で、「平に広がった国土、原はひろい場所をいう」
「外原」と「訓原」が似ているから、という理由で候補に挙げられている、
ということで、白山神社の立地は谷合にあり、「広い場所」のイメージからは程遠い。
社殿は、南向きに建つ。
祭神は、白山神社ということで、菊理姫命。
本殿は、流造りで千木・鰹木はない。
本殿正面の蟇股に飾りがついていたようだが、穴が2つ見えるので、飾りは外れてしまったようだ。
境内社は4社みられたが、社名を記した札がないので、どのような神様が祀られているかは不明。
谷合の静かな立地で、すがすがしい。
神社へ到着する前、外之原の集落を通る街道沿いに大きなイチョウの木があり、その下に小さな社が祀られていたが、そのすぐ近くにも「八大龍王」の社があった。
社の後ろにも、朽ちた木の株に注連縄をまいて祀られていた。
「龍」は「蛇」に通じ、社にはいろいろな「蛇」の置物が祀られている。
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高牟神社のある矢田川の堤から庄内川を渡り、その北側の堤を上流へ向って走った。
王子製紙の大きな工場を過ぎ、堤から下りてJR春日井駅のほうへ行くと式内社の「和爾良神社」があった。
「和爾良」は、ここでは「かにら」と呼ばれているらしい。
式内社の「和爾良神社」については候補となっている神社がいくつもあって、とりあえずここが第一候補であるらしい。
由緒書はなかったが、「式内社調査報告8」によると、
祭神は、阿太賀田須命(あたがたすのみこと)、建手和尓命(たけたわにのみこと)、伊奘冊命、磯城津彦命(しきつひこのみこと)、菊理姫命。
阿太賀田須命は、宗像氏の祖、
建手和尓命は、和爾氏に関係ある神様らしい。
磯城津彦命は、第3代安寧天皇の皇子。
建保6年(1219)に菊理姫命を合祀して「和爾良白山宮」と称した、とあり、鳥居の扁額にも「白山宮」と刻まれている。
拝殿前には、木製の蕃塀が立つ。
社殿は、南向きに建つ。
拝殿屋根には、「菊」の紋。
拝殿正面には、「鶴」の飾りがつく。
鳥居を入ってすぐのところに「庚申塚」と丹塗りの小さな社がある。
このほかに、境内末社は、稚児社、御嶽社がある。
「夜泣石」や「小野道風」ゆかりの石標があり、説明板もあったが墨書きの文字が薄くなっていて読めなかった。
神社の東に接してお寺があり、「元三大師(がんさんだいし)堂厨子」がある。
堂の内をのぞいてみると、「天台宗の中興開山の僧の石仏を祀る厨子」があり、石仏が祀られている。
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瀬戸から名古屋へ帰る途中、瀬戸と名古屋を結ぶ瀬戸街道の旧道に面して建つ、式内社の「渋川神社」に寄った。
由緒書の石碑があり、
「この神社は景行天皇の御代に高皇産霊大社(たかみむすびのおおかみ)を創祀したと伝えられ白鳳5年天武天皇御即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斎田を当地に定められるに当たり、大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代大神の七柱を合祀申し上げ、醍醐天皇の御代延喜式の制定により、神名帳に列せられた式内社であります。当社創建の地は、ここから西南方数百米渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神七柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります。
往昔は山田郡の総社として広く尊崇せられ、織田信長が神殿を改修し、後に徳川光友が神殿を再建、それぞれ幣帛を奉じている。
この鎮守の杜には檜、松、樫等が鬱蒼と生い繁り、旧瀬戸街道を旅行く人々、馬が緑陰に憩ひ神苑に滾々と湧く真清水を掬したが、昭和34年の伊勢湾台風によって一夜にして樹木が薙ぎ倒され、樹齢三百数十年を数える檜の大樹数十本を損失した。
氏子総出で倒木を整理の上、檜と杉を交植し1年毎に昔日の姿に近づきつつあるが、湧水は遂に涸れ果ててしまった。」
ということで、天武天皇ゆかりの神社だ。
社殿は、南向きに建つ。
社殿の鬼瓦には神紋はついていない。
拝殿正面の蟇股は、独特の意匠の飾りになっている。
拝殿後方に、祭文殿、本殿が続くが、本殿は流造りで千木・鰹木はない。
本殿側面の蟇股は、これもシンプルな意匠の飾りがつく。
社殿の東側に「天武天皇悠紀斎田跡」の石柱が立つ。
そのとなりに瑞垣で囲まれた一画があり、磐座のようなものがある。
ここには「遺跡の御案内の説明」があり、
「旧本殿跡
この場所から、およそ600m南に鳥居塚と呼ばれるところがあったといわれ、そこに昔鳥居が立っていたと伝えられています。
中世のころ、その場所から現在の地に祭神を移し社を建てたのが始まりといわれています。
江戸時代貞享5年(1688)に三間社流造りの本殿(13.22平方米)が建てられ、平成14年5月まで現存していました。
潮干塚の伝説
旧本殿跡の北側のところ、塚の上に甕があり、海の潮の満ち引きに従い、甕の中の水が増減したと伝えられています。」
「鳥居の古塚について」という説明板もあり、
「渋川神社の正中約600m、広がる田圃の中四季折々に風情を添える木立の古塚があり天武天皇の悠紀斎田の入口として鳥居の敬称で里人に親しまれ聖地としてきたが、此度区画整理の為、取崩す運びとなり、此の由緒の地の滅失を惜しみ、初老の同志相謀り、塚に立っていた石碑を神苑に移し、後世の諸人に伝えんとする。」
境内社は、下記のものがある。
東五舎の宮、西五舎の宮、神明社、八剣社、八幡社、熊野社、津島社あ、渋川稲荷社、山神社、忌明社。
このほかに、天神町内会、新東白鳳町内会、渋川町内会、西中町内会の4つの町内会が天神社をそれぞれが祀っていて、社の前に、お祭で使ったものだろうか、梵天のような飾り棒が立ててある。
この日は、あと1箇所「八剣社」に寄ってから名古屋へ帰った。 |
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窯神神社から西へ、住宅街を抜けて細い道を進むと式内社の「金神社」へでる。
石標はないが、祭神を書いた看板が掲げられている。
「尾治金乃連(おわりかねのむらじ)」は、尾張氏、天香語山命十五世孫で、応神天皇の時、尾治連姓を賜り、大臣大連となった。
社殿は、南南東向きに建ち、拝殿屋根には、「五三桐」の紋と、「金」の文字。
拝殿屋根の左右に龍の飾り瓦がのる。
拝殿後方から石段を上がると祭文殿が建つ。
さらに上に神明造りの本殿が建つが、千木・鰹木はない。
拝殿のある広場の向って右のほうに「龍神」への参道がある。
上っていくと、小さな社があった。
拝殿のある広場の向って左側には、仏様が祀られている。
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