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iPhoneを持つようになって、地図とコンパスの機能で重宝している。
地図機能では、現在位置の確認と近くに神社があるかどうかも確認できて、予定外の神社も見つけることができる。
この日は、金縄塚古墳の西北、古墳からさらに高いところに「赤坂神社」を見つけた。
思ったより大きな神社で社域は広い。
由緒書がないので祭神などはわからないが、「赤坂」というと、金生山のあるところは「赤坂町」で、「赤坂」というのは、「赤い地面の坂」、その赤は鉄の赤錆色であるらしく、村国真墨田神社が鉄、鍛冶の神でもあり、この赤坂神社もその系統の神様かもしれない。
ここ各務原市の「かがみはら」は「鏡はら」とも考えられ、これも鍛冶との関係を思わせる。
拝殿屋根の神紋は、「桔梗」。
この紋は、美濃を治めた美濃源氏の土岐氏の紋だから、そのゆかりの神様が祀られているんだろうか。。。
本殿は流れ作りで、屋根は「赤坂」ということでか、赤に塗られている。
本殿側面の蟇股の飾りは、波間を走る獅子だろうか、狛犬だろうかが走り、ヒズメがあるようだから兎ではないようだ。
境内社が2つ並んで建つが、一つは比較的大きな社で、屋根には三つ巴の紋が付く。 |
番外篇 美濃を歩く
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「春日井シンポジウム 4」という本の中の細矢藤策著「美濃尾張の鉄 そして渡来人」の中に、真清田神社と同系列の「村国真墨田神社」が名鉄犬山線の終点になる「鵜沼」にあるということで、今年の1月2日天気もよく、午後、でかけてみた。
神社は、鵜沼駅の北西、歩いて5分ほどのとこにある。
お正月ということで、初詣の人たちが次々に訪れていたが、参拝するのに並ばなくてはいけないというほどではなかった。
由緒書は、下記のとおり、
「当社の祭神は天之火明命、彦火火出見命、金山彦命、罔象女命、村国雄依である。社名の由来は南宮、真墨田、村国を組み合わせて美濃の南宮神社の系列で尾張の真清田神社と同系である。村国は飛鳥時代当地を治めた村国氏の祖を祀ることで付けられたものでこの地に散在する古墳が村国氏にゆかりが深いことはよくこれを物語っている。醍醐天皇の御代の延喜神名帳には村国大明神とあり、天正12年までは南町部落郷倉にあった。戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね永正3年時の城主大沢和泉守吉正の弟大沢次郎左衛門正継が出家の折奉納した愛刀村正は現在神刀として保存されている。永禄10年鵜沼城は落城し織田領となり天正12年小牧長久手の戦いに船頭かしら河村惣六は豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力その功により馬5頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり、之を奉納し当社の宝物となっている。惣六は喜んで村中氏子の同意を得、現在地に神殿を造営奉遷し現在に到っている。一番古い標札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である。」
祭神のなかの「村国雄依」は、前記の著書によれば、
「壬申の乱の功により尾張大隅と共に功田十町を贈られた村国連雄依は、大海人皇子の命により和珂部臣君手・身毛君広(むげきみひろ)とともに大海人皇子に派遣され、多品治や諸国司等に兵を発するよう命令を伝えて不破関を塞いだ。彼は美濃国各務郡の豪族で、本貫地は岐阜県各務原市鵜沼付近一帯に比定されている。(中略) 村国雄依は尾張氏の配下にあって鍛冶・鋳物等の生産力を背景に、同じ職能の多品治・尾張大隅・小子部鉏鉤等との連携役を命じられ、その功績の故に尾張一宮の鍛冶神として祀られたのではなかろうか。」
拝殿屋根には、三つ巴の紋。
社殿は小高いところに建っていて、本殿の姿は塀に阻まれて見ることはできなかったが、拝殿の雰囲気からすると流れ造りであろうと思う。
拝殿の中には、奉納された鏡餅と酒が並ぶ。
小高い狭い社域の西側に、山神社、洲原社、御鍬社、天満社、秋葉社、雨之宮社の末社が並び、下の低い広い社域には、金毘羅社、護国神社、恵比須大黒神社が並び、少し離れて、稲荷神社がある。
参拝のあと、神社の北東の小高いところに「金縄塚古墳」があるので、そこへ向かった。
この古墳について、教育委員会の説明板があった。
「金縄塚古墳は、直径37m、高さ6mの円墳です。現在古墳の中央部が深く窪んでいるのは、江戸時代に削られたためです。伝説では、この時、名前の由来ともなった金の縄のようなものや、土器などが出土したとされています。」
その説明版には、この地、各務原の古墳群についての説明もあった。
「各務原台地東部の鵜沼地区には、今から1600年ほど前の古墳時代前期に築造された古墳が所在しています。『三角縁神獣鏡』と呼ばれる鏡を出土した『一輪山古墳(いちりんやまこふん)』、全長120mで県下第2位の規模を誇る前方後円墳の『坊の塚古墳』、直径52mで県下最大規模の円墳である『衣裳塚古墳』そして、ここ鵜沼東町の丘陵上に位置する『金縄塚古墳(きんじょうつかこふん)』です。このように、鵜沼地区の台地縁辺部に、これらの有力な古墳が所在していることは、この地が美濃と尾張の木曽川の渡河地点であると共に、河川交通の要衡として、当時から重要視されていたからであると考えられます。」
この地は、木曽川が山地から濃尾平野に出る口にあり、対岸には、犬山の古墳群もあり、水運が重要であった時代では、この地をおさえることは大きな力になっただろうことは想像できる。
古墳のすぐ北側に現代の墓地があり、その口、道路に面して「庚申塚」もたっていた。
この台地から、南には木曽川対岸の犬山城が、
西には、伊吹山を望むことができる。
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水無し川の谷川沿いの道を上へ上っていくと、とちゅうから水が流れるようになり、その上流に公園があって、願成寺古墳群はその公園のすぐ南のお茶畑の中にあった。
比較的小さな、横穴式円墳で、古墳時代後期、6−7世紀に築かれた古墳群。
ふもとの神明神社に祀られている春木宿禰の一族が葬られているのだろうか。。。
お茶畑の中に大小ぼ円墳が残っていて、1号墳は比較的大きく、石室の中に入ることができる。 黄泉の国から外を望むとまぶしい。
1号墳とすぐ後ろの2号墳の間には、石塔が祀られている。
43号墳、
茶畑がきれた、森の中に最終期に築かれたという51号墳があり、切り株がいくつもあって、その一つに腰掛けてしばし休憩。
この日はここまでで、大垣から名古屋へ帰ったほうが早いが、来るときの養老線の電車の中でネット検索して、桑名のハマグリを食べさせる評判のいい店をみつけたので、フリー切符でもあるし、時間も桑名に着く頃に夕食時になるし、と桑名まで戻った。
ハマグリは私のイメージしたものとちがったので、写真を撮って浜名湖で水産卸問屋をやっている友人に見せたところ、中国から輸入されているというシナハマグリとのことだった。
桑名からはJRで名古屋へ戻ったが、JRのほうが近鉄より安いことを知る。
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昨年11月21日、多度神社に参拝したあと、また養老線に乗って、美濃本郷駅近くにある願成寺古墳群へ向かった。
この日は、養老線のフリー切符を利用したので、養老線沿線で古墳はないかとネット検索していて、この願成寺古墳群を見つけた。
養老線の多度駅の次は美濃松山駅で、多度神社は、伊勢と美濃の境にあることを知る。
大垣で乗り換えになり、1時間ほどで美濃本郷駅に着いた。
駅近くにパチンコホールがあり、他に店もみえないのでそこで昼食にした。
古墳群のある池田山が駅の真西にほうに見える。
池田山へ向けて歩きはじめてすぐ、神明神社の石柱があったので、神社へ向かう。
祭神は、天照大神とこの地の豪族の祖神である春木宿禰。
神明神社の本殿の左右に相殿が建ち、向かって左は八幡社のようなので、右側の小さなほうが春木宿禰を祀った春木神社だろうか。
神明社には菊の、八幡社には三つ巴の紋が屋根に付く。
神明社本殿の蟇股には龍の飾り。
脇障子には虎。
側面、康面には兎の飾りが付く。
向かって左側の屋根には「三つ巴」の紋がついているので、八幡社だと思うが、正面蟇股の飾りは「狐」のようで、これは珍しい。
側面には八幡神にまつわるの鳩の飾りが有る。
脇障子には獅子の飾りがつく。
神社からまた池田山のほうへ歩き、ゆるい傾斜を川に沿って上り始めるが、川には水が流れていなくて、水無し川になっていて、神社の由来書に、「池田山の谷川すべて水が涸れて・・・・」とあったことが実感された。
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不破関資料館から旧街道を関ヶ原駅方向へ、井上神社の石柱の立つところまで戻り、そこから南へ400、500mほど、新幹線のガードをくぐってちょっと行くと井上神社はあった。
天武天皇を祀っているとのことできてみたが思ったより社殿は東向きに建ち、簡素なものだ。
拝殿には神社にはめずらしく、鯱がのり、八角の法輪の紋がつく。
拝殿の蟇股は、簡素な唐草のようなの飾りがつく。
本殿には千木・鰹木が載っていない。
本殿屋根には、やはり八角の法輪と下方に三つ巴の紋もつく。
夕暮れはますます近づき、もう一箇所このちかくの「春日神社」に急ぐ。
この地は、関ヶ原の戦いで、福島正則が陣をしいたところだったそうで、その説明板がある。
杉の巨木が印象的だ。
この日はここまでで、JR関ヶ原駅へ戻り、名古屋へ帰った。 |


