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番外篇 三河を歩く

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昨日1月3日、西尾市熱池(にいけ)町にある熱池八幡社で行われた「てんてこ祭り」を見に行った。
 
名鉄の「吉良吉田行き」に乗り、西尾駅のもう一つ向こうの「福地」駅で降りて、南西へ10分ほど歩くと、集落のはずれに「熱池八幡社」の森が見える。
 
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境内にたこ焼きの屋台がでていたので、まずはそれで腹ごしらえして、集落の中にある公民館へ向う。
 
公民館では、祭りの準備をしていて、この祭りの主役になる大根で作られた「男根」が置かれていた。
 
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また、膾を作るために身をそぎ取られたボラがぶら下がっている。
 
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公民科に祭りを図案したのれんがかけられている。
 
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祭りの行列は13時に公民館の南東200mか300m南東の県道12号に面したところから始まった。
 
 
 
 
「西尾市の熱池(にいけ)八幡社で行われるてんてこ祭りは,天下の奇祭として有名で,県の無形民俗文化財に指定されている。起源は諸説あるが,その一つによれば1140年ほど前の清和天皇の大嘗(だいじょう)祭の折に,熱池町八幡社一帯が悠紀斎田(ゆきさいでん)に選ばれ,伊勢神宮への献上米が作られた時の御田植(おたうえ)儀式が,農業祭(豊年祭)として今に伝わるものであるという。厄男のたたく「てんてこ,てん」という太鼓の音色から,てんてこ祭りと呼ばれるようになった。現在は,毎年1月3日午後1時から行われている。
 祭りは,先駆(塩まき),神職,社守,町内会長,社寺2名,そして赤い装束の6人の厄男たちが町内を行列するところから始まる。男たちは,太鼓,米びつ,生魚,竹ぼうきなどを担いでいる。また,腰に大根で作った飾りを付けて,太鼓のリズムに合わせて,腰を振りながらゆっくり行進をする。
 八幡社に着いた一行は,施肥作業をまねた,わら灰をまく神事を行う。竹ぼうきを持った者たちが威勢よくわら灰をまき散らす。この灰をかぶると厄除けになるといわれており,参拝者たちは,舞い上がる灰の中に身を任せる。その後,参拝者に酢めしが配られた後,神前で式を行って祭りは終わる。」
 
「てんてこ」と太鼓を鳴らして、腰をクイ・クイと動かすと大根の男根が、ピコ・ピコと跳ね上がる様は微笑ましい。
 
神事で歌われる「謡(田植え歌)」は、下記の通り、
 
「一、こうぞうよ こうぞうよ 今年の門松は高いのう 高いも道理こそ 年の数が増えて来たとサホイ
ニ、ていじていじていそろよ 田を植えて くろめてはういて 穂に出でて 穂に穂が下がりて八穂(やほ)で九升とあったとサホイ
三、ていじていじていじろう 田を植えて くろめてはういて 穂に出でて 穂の上にふっくら雀がふっくりと しょんぼりとサホイ
四、とんべ(び)が田を植えて くろめてはういて とんがさ被って 着せようとサホイ」
 
この田植え歌が歌われる間、参拝者が稲の苗に見立てた松の葉を拝殿へ投げ入れる。
 
お神酒で「直会(なおらい)」をして儀式は終わるが、ボラと大根の膾と酢飯が参拝者にも配られ、私もいただいてきた。
 
これを食べると「夏病み」しないそうだ。
 
境内では、最後に厄男による餅撒きが行われて祭りは終わった。
三河国分寺跡へ向うと、そのすぐちかくに「八幡宮」があった。
 
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入口は広くはないが、境内はかなり広い。
 
石橋が3つ並び、その向こうに二の鳥居、そして中門がある。
 
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中門をくぐると境内が開けて、左右に東御門社(豊磐窓神(とよいわまどのかみ))・西御門社(櫛磐窓神(くしいわまどのかみ))の盗難除け・門衛除魔の神が祀られている。
 
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社殿は、南向きに建つ。
 
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拝殿屋根の鬼板には、「五七桐」の紋がつき、その下部には「三つ巴」紋がつく。
 
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本殿は、流造りで、国の重要文化財に指定されている。
 
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説明板があり、
 
「この八幡宮は第40代天武天皇の白鳳年間豊前の国(現在の北九州)から勧請されたものと伝えられている。奥にある本殿は文明9年室町時代の建築でこの種の建物では実に優れたものであり三間社流造の桧皮葺で蟇股の彫刻といい、木割の調子の整った点、懸魚から操形のさびのあるところなど当時の建物の特色を充分に表現しており、蟇股の彫刻は題材が一つ一つ変わっているあたりは他に類例がありません。明治40年5月27日国の特別保護建造物に指定され、現在は重要文化財である。」
 
本殿屋根には、「菊」の紋。
 
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蟇股には、蓮と日と月の飾りがつく。
 
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本殿の左右には、内宮(天照皇大神(皇室・国民の守護神))・外宮(豊受大御神(五穀豊穣・衣食住の神))が祀られていて、境内には何箇所も色々な神さまが祀られている。
 
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境内社には、それぞれ社名と祭神とそのご利益が書かれた札がある。
 
下天神社:弥都波能売神(みつはめのめのかみ)(農耕・水・水難除けの神、祈雨・止雨の神)
荒御魂社(あらみたましゃ):応神天皇之荒御魂(厄除け開運の神)
沖社(弁財天社):市許嶋姫命(水の神 福徳財宝の守護神)
 
金刀比羅社:大物主大神(雨乞いの神、航海・漁業・農耕の守護神)
秋葉社(本郷嶋の祀る社):火之迦具土神 眷属神秋葉三尺坊(火難・水難・剣難除けの神)
天王社(本郷嶋・市場嶋・西赤土嶋の祀る社):建速須佐之命・大己牟遅命(厄病除けの神)
碓丸社(うすまるしゃ)(上碓丸社、下碓丸社合祀):大碓命・小碓命(別名倭建命)(国家・国民の守護神)
春日社:武甕槌神・ 経津主神・天児屋根命(祟り・邪気払い・藤原氏の守護神)
住吉三社:底筒男命・中筒男命・表筒男命(縁結び・子授け・海上安全の守護神)
 
談合社:思兼神(智恵・学芸・大工・畳工・石工の守護神)
 
天満天神社(北野天神社合祀):菅原道真公(雷雨神)(受験学問の神(気象・天候・農耕の神))
高良社(こうらしゃ):武内宿禰命(長寿延命・健康の神)
 
磯良社(いそらしゃ):安曇磯良命(あずみのいそらのみこと)(海・航海安全の神)
一品社(いっぽんしゃ)(市階天神社(いかいてんじんしゃ)):舎人親王(とねりしんのう)(書物・読書の神)
諏訪社:建御名方神・八坂刀売神(やさかとめのかみ)(台風除け・狩猟・農耕の神)
須佐之男社(中進雄社合祀):須佐之男命(災難・病疫除けの神)
若宮社:仁徳天皇(国家繁栄の神)
 
駒ケ嶽社(本郷嶋の祀る社):保食神(うけもちのかみ)、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)(衣食住、農蚕牛馬の守護神)
 
この他に2社、修理中の比較的大きな社がある。
 
「金的中」と書かれた額がたくさん奉納されている建物があり、何気なく撮った写真のものは「天保九年」とあり、古くからのものがあるようだ。
 
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社を修理している宮大工さんがここで昼休みしていて、ちょうどいい機会だと、いろいろ話をしているうちに13時をすぎて、14時半の約束に間に合わなくなるといけないので、まだ聞きたいこともあったが駅へ戻ることにした。
 
途中、「総社」という大きな神社があったが正面から写真を撮るだけにして駅への道を急いだ。
 
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国府の駅に着くと、ちょうど豊橋行き特急がやってきて、豊橋から乗ったJRは踏切の異常とかで15分余り遅れたが、14:25に舞阪の駅に到着して約束に間に合った。
 
11月9日、浜名湖のほとりの町、舞阪に用事ができて、14時半に先方へ伺うことになり、以前から舞阪へ行くたびに通り過ぎている名鉄の「国府(こう)」というところが気になっていて、名古屋を早めに出て、国府を歩いてみた。
 
ネットで調べると、駅の近くに「大社神社」をみつけたので、まずはそこへ向った。
 
神社は、駅の西、旧東海道に面してあった。
 
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前面の横幅は狭いが、境内は広い。
 
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由緒書板は無かったが、神社のHPによると、
 
「 「社伝によると、天元・永観(978〜985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある。
 社蔵応永7年(1400年)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。
 当社には、徳川14代将軍 家茂が長州征伐に際して、慶応元年5月8日、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。」とある。
 また、明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。」
 
ということで、祭神は、出雲の大国主命(大國霊神、大己貴命)。
 
社殿は、南南東向きに建つ。
 
拝殿の鬼瓦には、「菊」の紋がつく。
 
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しかし、賽銭箱には、出雲大社系の「亀甲」に「大」の字。
 
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拝殿正面の扁額には、絵なのか文字なのか、よくわからない線が刻まれている。
 
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拝殿の壁には、刈り取られた稲が架けられている。
 
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社殿の向って左手奥に、進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)と、御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られている。
 
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進雄神社の祭神は、進雄神(すさのおのみこと)(牛頭天王)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)。
 
素戔鳴尊を「進雄」とも書くことを知る。
 
御鍬稲荷神社の祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおかみ)、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)。
 
神社へ入ってすぐのところにも左右に、秋葉神社、金毘羅神社が祀られている。
 
駅の東方向に国分寺跡があるということで、そちらへ向った。
 
正法寺古墳から南へ歩き、海岸道路をさらに南へ行くと岬の先端の丘への登り口に「幡頭神社」の石標が立っている。
 
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そこを登ると、社殿が南南東向きに建つ。
 
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由緒書板があり、
 
祭神は、建稲種命、大物主命、誉田別尊
 
「景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の祭大功をお立てになった建稲種命は帰途海上で御薨去御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で大宝2年文武天皇勅して社殿を建て官社に列せられたと伝へられ延喜式に戴く文徳実録に授従五位下とあり大日本史に正一位とあり明治4年郷社に大正10年県社に列せられて古来から由緒高く人々の敬仰厚い御社である。」
 
別の、「社伝抜粋」によると、
 
「祭神は東征の勅命を受けた日本武尊の幡頭(はたがしら)の役を勤めた建稲種命で、東征の帰路駿河湾で遭難、蛭子岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を幡頭(はず)と書くようになったともいわれる。」
 
幡頭神社は拝殿にかかる扁額には「幡豆神社」とも書かれているが、祭神の建稲種命が「日本武尊の幡頭(はたがしら)の役を勤めた」ということで、「幡頭」がふさわしいと思う。
 
拝殿屋根の瓦には神紋」は見られない。
 
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本殿は、重要文化財に指定されていて、桧皮葺の姿が美しい。
 
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説明板によると、
 
「三間社流造、桧皮葺。
 幡頭神社は大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久(くまく)神社とともに古い由緒をもつ神社である。
 本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押(なげし)および虹梁などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。」
 
両側に建つ、神明社本殿・熊野社本殿は県の文化財に指定されている。
 
「重要文化財の本殿と同時代に築かれたものとみられる。神明社は本殿の東に位置し三間社見世棚造、熊野社は西に位置し一間社熊野造でいずれも桧皮葺である。幡頭神社本殿と両脇殿の三社が並ぶ姿は、形式を異にしつつも調和が取れており美しい。」
 
本殿の庇の蟇股には、「蛇腹」模様がつく。
 
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この蛇腹模様は、知多半島先端の師崎にある羽豆神社(はずじんじゃ)の本殿の屋根にも見られる。
 
本殿の本体に着く蟇股は、「牡丹」だろうか。
 
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神社からは三河湾を望むことができる。
 
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建稲種命が東征の帰路駿河湾で遭難、蛭子岬に漂着したということで、幡頭神社のある岬の先端には、「蛭子社(えびすしゃ)」がある。
 
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社は、東南東向きに建つ。
 
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拝殿正面の鬼瓦には「恵比須」さまの像がつく。
 
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海辺でのんびりしたかったが、このとき12時すぎで、14時からの棉祖祭に間に合うようにと吉良吉田の駅へ向った。
棉祖祭の天竹神社へは朝9時ごろに着いたが、祭りは14時から、ということで空いた時間、吉良吉田にある「幡頭神社」へ行くことにした。
 
iPhoneの地図をみると、吉良吉田に「正法寺古墳」とでているので、先にその古墳によることにした。
 
古墳は、名鉄吉良吉田駅の南東の東から続く丘の先端に、南南西向きにある。
 
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説明板によると、
 
「正法寺古墳は、全長94mの西三河最大の前方後円墳で、平成13・14年度の発掘調査によって、墳丘が三段の階段状に築かれ、斜面には葺石がほどこされていることが判明した。南側のくびれ部には、祭壇として使用されたとみられる「島状遺構」が発見されている。なお、埋葬施設は未調査で、内容は不明である。出土したした遺物には、各段に立て並べられた円筒埴輪と、古墳の頂上に立てられていたとみられる家形、蓋(きぬがさ)形などの形象埴輪がある。
 古墳の築かれた時期は埴輪や墳丘の形態の特徴から、古墳時代中期前葉(4世紀後半)と考えられる。本古墳は矢作川と三河湾を結ぶ水上交通の要所に築かれており、被葬者は三河湾、さらには伊勢湾に通じる交通路を配下に置き、強大な勢力を有した豪族と考えられる。」
 
古墳のある丘からは、三河湾が一望できる。
 
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佐久島と日間賀島が正面に並び、遠く、渥美半島、知多半島、志摩半島が見える。
 
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天気が良くて、海と空が美しい。
 
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正法寺古墳は、写真の右のほうの丘の先端にある。
 
古墳から南へ、幡頭神社のほうへいくと「西尾市吉良歴史民俗資料館」があり、古墳からの出土物もてんじされていて、岩場古墳から出土した「円筒棺」が印象的だ。
 
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円筒棺というのは、説明パネルによると、
 
「埴輪の製法を、用いて、埋葬専用に作られた土製の棺です。筒状の本体の両端をふたでおおっています。古墳の埋葬施設としては珍しいもので、近畿地方を中心に20例ほどしか出土していません。円筒棺の中からは、被葬者が身につけていたとみられる勾玉・管玉と鉄刀2本が出土しています。棺の外側にも、鉄鏃・鎌・斧などの豊富な鉄製品が副葬されていました。」
 
岩場古墳というのは、
 
「墳長37mほどの帆立貝形前方後円墳とみられます。昭和25・26年にあいついで埴輪棺・円筒棺が地元の中学生によって発見され、調査が行われました。特に、円筒棺からは、豊富な鉄製品が出土しました。また、墳丘には円筒埴輪が巡っており、墳丘上からは、甲冑・衣笠・家などをかたどった形象埴輪が見つかっています。全長91mと西三河最大の正法寺古墳のあとに続く、5世紀中ごろの有力者の墓と考えられています。」
 
資料館の前庭には、移築された「岩谷山(いわだにやま)第1号墳」の石室がある。
 
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説明パネルによると、
 
「この古墳は吉良地区の北、岡山丘陵の西端にありましたが、土取工事のため破壊されることになり、当地に移築されました。
 墳丘は直径14mの円墳とされ、内部からは金銅装太刀、金環(耳環)、須恵器などが出土しました。
 このような横穴式石室は古墳時代後期に一般化し、吉良地区でも丘陵上に多数の小円墳が築かれました。この古墳は7世紀のものとしては大規模なものです。」
 
吉良吉田という地は、尾張から続く平野が三河の山々に変わる山すそに位置していて、古くから船による交通の要所であったことを知る。
 
資料館には、吉良吉田といえば「吉良上野介」で、吉良家の資料も展示されている。
 
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そしてまた、吉良吉田といえば製塩で、それに関する展示も多い。
 
わたしが小学生のころ(昭和37年ごろ)、両親と吉良吉田に潮干狩りに来たことがあり、そのときはまだ残っていた「枝状架」の写真があり、懐かしかった。
 
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枝状架というのは、
 
「枝状架は6〜8mの高さに柱を組み、これに竹やササの枝を八字形に5〜6段にかけたものを2mぐらいの間隔に並設したものである。
 流下式塩田で得たかん水をポンプで枝状架の頂部に設けた給水トイに送り、かん水がタケの小枝を伝わって流下する間に蒸発が行われる。通常この操作が10〜20回繰り返され、濃縮されるのである。」
 
前庭には、製塩設備の小屋が再現されている。
 
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