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番外篇 三河を歩く

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棉祖祭の行われた「天竹神社」へは朝の9時ごろ到着したが、境内では祭りの飾り付けをやっていた。
 
社殿は、南南西向きに建つ。
 
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由緒書の石碑があり、
 
「今からおよそ1200年むかし桓武帝延暦18年7月この地に天竺国の一崑崙人が漂着し壺に入れた綿の種のまき方や栽培方法を教えわが国に初めて綿を広めた。その崑崙人の古画像がこの地の地蔵堂に伝わり近隣の人々はこれを棉祖神とあがめ延命長寿の神として祭ってきた。
 明治16年当村下登地籍よりこの地に神明社を移転建造して産土神とした時この棉祖神を国家の有功な神霊として祭るため有志により近隣等の賛同を得てこれを新波陀神とし天照大御神と併せ祭った。今も綿の種を入れた壺は宝壺と称して残っている。」
 
祭神は、「棉祖神」と天照大御神だろう。
 
拝殿の内には、「三つ巴」の紋がみえる。
 
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拝殿正面の左右に木彫りの龍の飾りがつく。
 
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本殿は、神明造りだが、千木・鰹木はない。
 
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境内の片側の建物にはショーウインドウのようにして「棉祖」にかかわる物が展示してあり、綿を伝えた「崑崙人の古画像」のお札(?)もある。
 
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綿の種の入っていた壺は今も神社に保管されているそうで、その写真も展示されている。
 
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社務所の向拝に「鶴」の飾りがついている。
 
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社殿の横に赤い鳥居の境内社があり、狐は見られなかったが、社務所にいた人に聞くと、お稲荷さんじゃないかな、とのことだった。
 
神社の外に、「秋葉大権現」の小さな社が東向きにあり、大きな石燈籠には「常夜燈」と刻まれている。
 
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神社の東側を流れる「矢作古川」の上流に、「猿投山」を望むことができる。
 
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10月23日、西尾市の天竹神社で行われる「棉祖祭」を見に行った。
「天竹」は「てんじく」と読むということは、地元に人に聞いて知った。
 
天竹神社は、名鉄「上横須賀」駅で降り、西へ歩いて20分ほど、西尾と吉良吉田の境を流れる「矢作古川」の西尾側にある。
 
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朝9時ごろ神社に着いたが、神事は14時から始まるということで、上横須賀駅前の吉良吉田町の観光案内板に、日本武尊ゆかりの「幡豆神社」があることを知り、午前中は吉良吉田を歩いて、14時前にまた天竹神社へ戻った。
 
「棉祖祭」というのは、愛知県のHPによると、
 
「日本の綿栽培は、約1200年前、当時矢作川河口であった西尾市天竹町に天竺人が綿の種とともに漂着して、村人に綿の栽培を教えたことが始まり。日本唯一の棉神様のお祭りです。
 天竹神社の棉祖祭は、綿を伝えた新波陀神(にいはたがみ)を祭る祭礼です。伝説では、延暦18年(799年)に崑崙人(こんろんじん/天竺人)が綿の種を持って今の天竹町あたりに漂着し、その種をこの地に最初にまいたことから、木綿の発祥地とされいてます。この祭りでは、海を渡って伝えられた綿にちなんで船みこしが担がれ、古式ゆかしい「綿打ち」の儀式も行われます。棉神様を祀る神社としては全国唯一のため、木綿関係者の崇敬も深く、祭りは多くの人でにぎわいます。」
 
なを、「<一口メモ>棉と綿の違い」によると、
「棉」→収穫した実から種を取り除いた状態
「綿」→打ちほぐした状態
 
ということだそうで、拝殿前で行われる「綿打ち」の儀式では、ワタの実から種を取り除き「棉」にして、それを弓で打ちほぐして「綿」にして、それを糸車を使って糸にする工程を見ることができた。
 
しかし、綿栽培は天竺の人がこの地に漂着したとのことだが、彼はどこへ向っていて遭難したんだろうか。。。
 
神事は14時から御祓いがあり、そのあと拝殿の中で15時ごろまで祝詞奏上などが行われていたが、我々拝観者は15時まで境内で綿打ちの儀式が始まるのを待った。
 
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「綿打ち」というのは、「杵」のようなもので叩くのかと思っていたが、弓の弦をはじいて綿をふんわりさせるのだということを知った。
 
「糸車」も大きな車に糸を巻いているのかと思っていたが、手前の軸をそれで回転させて糸に撚りをかけているのだということも知った。
 
やはり、百聞は一見にしかず、だ。
 
境内には、船型の神輿が置いてあり、綿の実が入っていたという壺に模した壺が入っている。
 
このお神輿は、氏子の人たちの手作りだそうで子供神輿だが、今は子供の数が少なくなって練り歩きはしなくなったそうだ。
 
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神社前の駐車スペースの片隅で実際に綿が栽培されている。
 
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10月15−16日、豊田市の挙母神社で祭があるので楽しみにしていたが、15日はあいにくの雨で、お昼頃から雨も上がってきたので、12時過ぎに地下鉄と名鉄に乗って豊田へ向った。
 
しかし、この日は、山車の巡航は中止になり、宵祭りの見所の「七度参り」での「若衆のもみ合い」も昨年問題がおこって今年は若衆は参加しない、ということで、静かな盛り上がりに欠けたものでガッカリだった。
 
挙母神社は、名鉄豊田駅の東方、歩いて10分ぐらいのところにある。
 
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由緒書板によると、
 
祭神は、高皇産靈神(たかみむすひのかみ)、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝尊(あめにぎしくににぎしあまつひだかひこほのににぎのみこと)、天萬栲幡千幡比売命あめよろずたくはたちはたひめのみこと)、天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)
 
2番目の神さまは、非常に長い名前だが、ようするに瓊瓊杵尊のことで、3番目の神さまはその母神。
 
「文治、建久の頃(1189)源義経の家臣、三河鈴木重善(のちの善阿弥)は源義経の没落を聞き当地に隠れ住み、そののち大和吉野から子守社を勧請して衣上之郷にまつり奉仕した。鎌倉実記、義経勲功記に「其の頃熊野の鈴木次郎重行と言うものあり、矢作川の上、衣の里と言う処あり、彼の里に庵室をしつらい住みける殊勝なる法師に里人も尊みしたしみけり。熊野の神を勧請云々」とあり、延宝旧図に「大明神の本殿は四間に三間あり拝殿は長さ三間横二間とす。社内に薬師堂あり」とある。衣記に「子守大明神は往古より挙母の鎮護なり、草創は何れの年ともいまだつまびらかならず鈴木某熊野より云々」。旧幕時代は、子守大明神といっていたが明治4年(1871)3月14日挙母藩庁から挙母神社と改められ藩社となり、その後郷社となった。」
 
「日本地名大辞典」によると、「挙母(ころも)」というのは、古くは「衣」と書き、江戸期の天和年間(1681〜1684)頃に挙母と書き改められたそうで、垂仁天皇の子大中津日子命を祖とする許呂母別(衣之君落別王)が三河国加茂群に住み着いたことによるのだそうだ。
 
社殿は、南向きに建つ。
 
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舞殿などの屋根には、「三つ巴」の紋がつく。
 
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本殿は、流れ造りで、千木・鰹木が載る。
 
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境内社には、金刀比羅社、御鍬社、天満宮、秋葉社、子守稲荷社がある。
 
夜、七度参りの間中、「猿田彦之命」がずっと行列を見守っていた。
 
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七度参りは、19時から始まるので、昼神社へ来てからどうやって時間をつぶそうか、喫茶店へでもいこうか、と駅前へ戻ると、駅前に市の立派な図書館があって、そこで、いろいろな本をながめてすごした。
 
翌16日はすばらしい晴天になったが、急用ができてしまい、祭り見物は来年への宿題になった。
 

刈谷万燈祭 本楽

7月31日は、秋葉社境内の神前で舞われる「本楽」の日。
また同じ時間の名鉄で、今度は「刈谷市駅」まで乗っていく。
 
前日とは打って変わって駅前には人通りがない。
途中、ラーメン屋で腹ごしらえしてから秋葉社へ向かう。
 
17時ごろ神社に着くと、提灯に点ける「神火」を貰い受ける神事が行われていた。
 
神前舞は、司町、新栄町、銀座町、寺横町、広小路五丁目、広小路町、東陽町の7つの町衆によって順番に舞われる。
 
18時ごろからまずそれぞれの町の子供たちによる子供万燈の神前舞が行われてから、そろそろ薄暗くなってくる頃、大人万燈による神前舞が始まった。
 
 
始めはゆっくりしたお囃子「ちりり」にのって舞われる。
このとき、万燈を担いで舞う人は、足を跳ね上げるのが上手な人であるそうだ。
 
ゆっくりした舞を何人かが交替して舞われてから、「ちゃらぼこ」という速い調子のお囃子に変わって、若い衆がワッショイ・ワッショイと囃し立て、万燈もテンポよく動き回る。
 
寺横町まで終わったところで、立っているのも疲れてきて、ちょうど私の斜め前に空きスペースができたので、いつもバックに入れているビニールシートをひいてあぐらをかいて見ることにした。
 
 
 
東陽町まで終わってから、その町衆について広小路まで行き、最後の一斉舞を見て、刈谷市駅へ向かった。
 
けっこうな賑わいであったが、観衆のほとんども地元の衆であるらしく、電車は意外とすいていて座って帰ることができた。
 
自分は大騒ぎに参加しているわけでもないのだが、けっこうスカッとした気分になり、いまだに「ちゃらぼこ」のお囃子の音が耳をはなれない。
 
 
 
 
 

刈谷万燈祭 新楽

このところお祭が毎週のようにあって、日中は暑いこともあり、夜祭見物にでかけている。
 
7月30・31日は三河の刈谷で「万燈祭(まんとまつり)」が行われて見に行った。
 
万燈祭というのは、秋葉社境内にあった説明板によると、
 
「宝暦6年(1756)この地に秋葉堂が建てられ、翌年から祭りが行われた。安永7年(1778)になって各町組ごとの出し物に笛・太鼓で拍子をとる形態に変わり、この年初めて万燈が登場した。まもなく各町の出し物は次第に万燈に統一され、この秋葉祭礼は万燈祭ともいわれるようになった。この祭りは長い伝統を受け継ぎ、火難防除・町内安全の感謝と祈りを込めて、今日も続けられ、県指定文化財である。」
 
また、万燈保存会のHPによれば、
 
「「万燈」は竹と和紙で精巧に作られた張子人形のことで、氏子各町が半年以上の期間をかけつくりあげる万燈は必見です。祭りでは、大きいものでは高さ約5メートル、重さ約60キロにもなる万燈を、若者が1人で担ぎ、笛や太鼓の音色に合わせ舞い踊ります。火が灯され、真夏の宵闇に浮かび上がる万燈が舞い踊る様は、実に勇壮で、見る人の心を魅了する、まさに「天下の奇祭」と呼ぶにふさわしい祭りです。」
 
名鉄の駅前から始まる、ということで、「刈谷駅」で降りたが、それらしき雰囲気はないので、おかしいな、と思い、駅に貼ってあったポスターを良く見ると「刈谷市駅」の駅前出発となっていて、刈谷駅のもうひとつ先に「刈谷市駅」があることを知る。
 
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刈谷駅前で腹ごしらえをして、まずは、秋葉社へ向かう。
 
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神社は思ったより小さな社で、隣のお寺「秋葉三尺坊大権現」のほうが敷地も本堂も大きい。
 
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神社から刈谷市駅前の通りへ17時すぎに着いたが、すでに「万燈」は揃っていて、けっこうな賑わいだ。
 
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30日は、万燈は神社境内へは入らず、ぐるりと練り歩き、最後は広小路通りでの「一斉舞」で終わる。
 
 
 
万燈は40〜60kgもあるそうで、それを一人で担いで舞うのは大変だ。
これを担ぐことが、少年が大人になるための通過儀礼の一つなんだろう。
 
ワッショイ、ワッショイと威勢のいい声と笛と太鼓のお囃子の満ちた暗闇に浮かびあがる万燈は美しい。
 
神社の境内には灯篭が並べられ、巫女さんの舞いも奉納されていた。
 
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