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今年はブログを再開します。

番外篇 伊勢を歩く

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伊賀留我神社の北に県道64号が東西にはしり、それを挟んで東北方にもう一つの伊賀留我神社がある。
 
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由緒書の掲示板によると、寛永の頃(1624〜1643)に分社したものらしい。
 
「延喜式神名帖(1300年程昔)に記載されている、富田地方では最も古く由緒ある神社である。
 神鳳鈔(じんぽうしょう)には「延喜式朝明郡(あさけごおり)伊賀留我神社、神域三丁また斎宮(いつきのみや)大明神とも称す」と書かれている。
 また、和名抄には「伊賀留我神社、天大日婁売命(あまのおおひるめのみこと)、斎宮、是れなり。この社の側に流れる川を咒志川(しゅうしがわ)(現在の十四川)という」と記している。
 現在、鵤は南北に分かれ、双方に伊賀留我神社が存在している。桑名藩の記録によると、「寛永の頃(1624〜1643)に分社した」とある。
 神鳳鈔にしても、和名抄にしても、伊賀留我神社のことを斎宮と記している。斎宮は、伊勢神宮の斎宮であり、倭姫命を祭神としていることから、伊勢神宮との深い関わりを感じさせる。また、鵤の地名は大和斑鳩の地との関わりも伺うことができる。ここ鵤は聖徳太子の御料地であったという言い伝えもある。
 伊賀留我神社には「いのこ神事」の名残の大太鼓、大鉦が今に伝えられている。」
 
「いのこ神事」というのは、旧暦10月の亥の日に、特に関西地方で盛んに行われる行事で、収穫祭の一つといわれていて、古来春の亥の日にやって来られた田の神が、山に去っていく日と信じられているそうだ。
 
広い境内に社殿が建つ。
 
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拝殿屋根の鬼瓦には「五三桐」の紋。
 
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「三つ巴」紋も見られる。
 
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奥のほうに、鳩の飾り瓦が載っていた。
 
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本殿は、ここも神明造り。
 
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こちらは天武天皇のお祭はないが、倭姫命の祭がある。
 
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神社の近くの十四川のそばに「天武天皇迹太川御遥拝所跡」がある。
 
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その説明板によれば、
 
「壬申の年(672)、奈良県吉野に隠棲していた大海人皇子(おおあまのみこ・のちの天武天皇)は、近江朝廷と皇位の継承をめぐって、兵をあげました。世にいう壬申の乱です。
 吉野から名張、鈴鹿、伊勢へと進んできた大海人皇子は、朝明郡迹太川(あさけぐんとおがわ)の近辺で、伊勢神宮を遥拝し、戦勝を祈ったということが「日本書紀」に記されています。
 この地が遥拝所の推定地として指定されたのは、「天武天皇のろしの松」と伝承されている老松があったことによります。
 付記:「のろしの松」は平成14年に枯死したので、管理者の大矢知斎宮自治会が平成18年に槙を植樹されました。」
 
しかし、なぜ天武天皇は伊勢神宮から随分離れたこの地で伊勢神宮を遥拝したのか、しっくりとこなかったのだが、「アマテラスの誕生」で筑紫甲真氏が述べている説に魅力を感じる。
 
「壬申の乱をおこした天武天皇は、皇后の持統をともなって大和の吉野のすまいを出発し、夜になっても歩きつづけて、あくる日の朝、三重県の鈴鹿峠近くまで到着しました。翌日、三重県北部の原野を愛知県に向けて進軍したのですが、日が暮れ、雷雨もはげしく、一行はずぶぬれになってこごえました。・・・・・・・。そこで天武天皇は、そのあくる日の「旦(あした)に朝明郡(あさけのこおり)の迹太川辺(とほかはへ)に於て、天照大神を望拝(たよせにおが)みたまふ」ことになるのです。『日本書紀』が述べる、この「天照大神を望拝みたまふ」という文は、いままでたいへんあやまって理解されていた文章です。これを、皇大神宮を遥拝した、と思いこむ人がいままで多かったのですが、このころ皇大神宮はありませんし、かりにあったとしても天照大神をおがんだまでであって、皇大神宮を遥拝したとは書いてありません。天照大神をまつったところは皇大神宮だから、という先入観から、望拝という文字までも遥拝におきかえて理解してしまうのは、速断といわなければなりません。望(たよせ)という文字は、漢字そのものの意味からすれば、「みやり、ながめること」です。望には、「ついで」という意味があります。望拝とは、視覚に訴えて礼拝するか、ただ礼拝するという意味があるのであって、遥拝というような意識はありません。それもそのはずです。この場合の天照大神は、天皇家の祖先神ではなく、天つカミ=日のカミの一表現としてのアマテルオオカミであったとみなさなければならないものなのです。天皇家が、トーテムとしてまつる自然物の太陽を、朝、望拝したにすぎないのです。望拝の動機は、雷雨にうたれてなやんだからで、天空気象の害をまぬがれるために太陽を拝礼して、その霊魂をいのったにすぎないものと理解すべきでした。」
 
この日は、ここまでで、十四川に沿って下ると近鉄の「富田駅」に至り、名古屋へ帰った。
 
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志氐神社から県道9号を北へ2kmほど行くと、道沿いに式内社の「伊賀留我神社」がある。
 
こんなところにも「いかるが」という所があるのか、と訪れてみた。
 
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「いかるが」といえば、聖徳太子の「斑鳩」が思い起こされるが、この地は、聖徳太子の御料地であったという言い伝えがあるそうだ。
 
祭神は、三重県神社庁のHPによると、天照大御神荒魂・大年神・大山祇命。
 
拝殿に垂れ下がったようにかかる注連縄が印象的だ。
 
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拝殿の内には左右に武人の像がある。
 
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拝殿屋根には、「橘」の紋。
 
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本殿は、ここも神明造り。
 
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「屋形置場」と標札のかかった小屋があり、その屋根にいい雰囲気の鬼瓦が載る。
 
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祭りのスケジュールが掲示されていて、3月13日に「天武天皇祭」という祭があるとのことで、来年は見にこようと思う。
 
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境内のひと隅に、ここでは砲弾が奉納されている。
 
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椿大神社から近鉄四日市駅前へもどり、四日市といえば豚テキ、ということで駅前商店街で昼食にした。
 
腹も満ちて、近鉄で名古屋方面への3つ目の駅「霞ヶ浦」まで行き、境内に古墳のある「志氐神社」へ向った。
 
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社域は広く、拝殿の向って左後方の森が古墳になる。
 
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由緒書板によると、
 
祭神 気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
配祀 伊邪那岐命 伊邪那美命 外26柱
 
「当社は垂仁天皇の御代の鎮座にて高野御前(たかのみまえ)と称え奉られ「志氐」の名は天武天皇が皇子であられた頃壬申の乱を避け吉野から鈴鹿を経て桑名への途次、迹太川(とほかわ)の辺で伊勢の神宮を望拝されたことに起因しています。
 シデとは御幣のことで天皇が四方に幣(ぬさ)を班(わか)ち、祓の神気吹戸主神をお祀りし禊祓をなされた御跡を斎(いは)い奉れる神社であります。
 天平12年聖武天皇が此地方へ行幸の時に丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が当社で詠んだ歌が万葉集にみえます。
 
 後れにし 人を思(しの)はく 四泥(しで)の埼 木綿(ゆふ)取りしでて さきくとぞ念(おも)ふ (奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神さまにお供えものをして妻の無事を祈った歌)
 
 当社境内古墳は前方後円式で前漢時代の鏡・車輪石などの出土品により4世紀頃の高貴な方の墳墓と推定され北勢随一の大古墳であります。
 平安時代の延喜式にあげられ代々藩主の崇敬の念篤く御神威は遍く光被じて北勢の名社であります。」
 
この由緒書によると、天武天皇は、この地で伊勢神宮を遥拝したことになる。
 
拝殿屋根の瓦の神紋は、菊のようだ。
 
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拝殿の内には、左右に武人の像がある。
 
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本殿は、ここも神明造り。
 
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拝殿に主要な祭神の名が掲げられている。
 
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古墳の前には、石標と石碑が立つ。
 
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石碑によると、
 
「この古墳は前方後円墳で後円部の高さ約6m、径約30m、周湟をめぐらし陪塚が7基あったと伝えられているが現在は境外も東側に1基を残すだけである。この規模の宏大さとよく整備されていた点では北伊勢随一の大古墳である。前方部は先年取りこわされて、今はその跡もないが前端部に生い繁る椎の古樹によって昔の様相を創造することができ、1852年に前方部と後円部の境目に小径を開いたとき、前漢式の内行花紋鏡・勾玉・管玉・車輪石などが出土した。
 古墳の形式と出土品から考えて4世紀の末頃に築造さられた高貴な方の墳墓と推定される。」
 
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天武天皇が伊勢神宮を遥拝したところということでか、「皇大神宮遥拝所」が祀られている。
 
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境内には、日本武尊ゆかりの「妻恋稲荷神社」もある。
 
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由緒書板によると、
 
「妻恋稲荷神社の本社は東京都文京区妻恋町妻恋坂の高台に鎮座し日本武尊が東征のみぎり御行宮され「妻恋しはるかに見れば」と詠まれこの地を吾妻(あづま)とよび神社名の妻は日本武尊、恋は弟橘媛命、稲荷は倉稲魂命であります。
・・・・・嘉永6年(1853)志氐神社の神主森出雲守泰友の代にこの分霊を庭内に奉斎し、その後昭和34年に祠で神社境内に遷座・・・・・」
 
四日市というところは、日本武尊ゆかりの神社が多いような気がする。
 
ここも「神馬舎」がある。
 
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そしてなぜか、境内の片隅に、昭和18年瀬戸内海で爆発沈没した戦艦陸奥の部品が奉納されている。
 
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椿大神社 その2

高山土公神陵の前、参道から右方へ入ると、別宮の「椿岸神社(つばきぎしじんじゃ)」がある。
 
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主祭神は、天之宇受女命。
相殿に、太玉命(ふとだまのみこと)・天之児屋根命
 
太玉命は、天照大神を天の岩戸からさそいだすため、天之児屋根命とともに祈祷した神様。
 
由緒は、栞によると、
 
「天之宇受女命は猿田彦大神の配祠(宮妻)にて亦の御名を「宮比の神(みやびのかみ)」「椿岸大明神」「小岸大明神」と称え奉り、大神と共に地上すべての穢れを清め、直(すぐ)なる道へとお導きになり神々のミタマを生み出す貴い神様です。亦の御名「大宮能売神(おおみやのめのかみ)」と称え、宮中をはじめ全国各地に祀られ、世の荒ぶる心を和め奉り、夫婦円満・家族親族の和合、万民協和の御守導あらたかです。天孫降臨における猿田彦大神との出会いから「縁結びの神」の御霊験あらたかであり、天の岩戸開きによる、かぐら舞より「芸能祖神」「美の神」「獅子神化身」として古くから信仰篤き親しみ深い神様です」
 
 
拝殿前に、「神招福臼(かみおぎのふくうす)」が置かれていて、
「この福臼を福杵で三度搗いてお祈り下さい」
とあり、私もコンコンコンとついてきた。
 
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いろいろな絵柄の絵馬がある。
 
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ここからさらに奥へ行くと、茶室があり、さらに奥へ行くと、お寺の本堂のような「行満堂神霊殿」がある。
 
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行満大明神が祀られている。
 
「猿田彦大神の神孫であり、役の行者をお導きされた事蹟から行の神として古来尊信されております。」
 
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ここの前には、松下幸之助を祀る「松下神社」や「椿立雲龍神社」、弓道場の「自疆館」があり、伊勢湾を望む眺望がすばらしい。
 
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この広場から参道へ戻る道を行くと、「延命地蔵堂」がある。
 
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祠の横に石塔が並び、道祖神も見られた。
 
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延命地蔵尊は、平安後期の作といわれ、昔から難病平癒に霊験あらたかだそうだ。
 
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椿大神社の森の西側に護国神社と並んで、縣主神社がある。
 
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説明板によると、
 
「祭神 倭建命 建貝児王(たけかいこのみこと)
 
 縣主神社は、「延喜式」に見える鈴鹿郡十九座の一つで、川崎村(現亀山市川崎町)に鎮座し、俗に縣大明神と称され鎮守社として親しまれていた。ところが、内務省が一町村一社を目標に行った小祠整理により、明治41年、能褒野神社に配祀され、下って平成十年十月十日、「椿護国神社」南隣を鎮座の大地と選び定め、椿大神社の摂社「縣主神社」として遷座された。
 当地鎮座の由来には、先々代の行輝宮司の出身地が川崎村であることと篤志家による誠実無私の奉斎運動が挙げられる。
 御祭神の倭建命(日本武尊)は、人皇第十二代・景行天皇の皇子で、西に熊曽建(くまそたける)、出雲建などの諸賊を討ち、東に蝦夷を平定された。のち、伊吹山に賊ありと聞き、これを討たんと向われたが、御病を得て伊勢国・能褒野に薨去せられた。建貝児王はその御子であり讃岐の綾君(あやのきみ)の祖である。」
 
もともとは、日本武尊の終焉の地、能褒野にあったものが遷座されたものだそうだ。
 
参集殿に食堂があって、甘酒を飲み、よもぎ餅を土産に仕入れて、とりあえず四日市駅へ戻った。
 
四日市といえば、3月27日に、午前中鈴鹿の椿大神社を訪ね、午後は四日市の神社を訪ね歩いた。
椿大神社は、「つばきだいじんじゃ」ではなく、「つばきおおかみやしろ」と読む。
 
椿大神社へは、四日市駅前から神社行きのバスで40分ぐらい、鈴鹿山脈の山懐にあり、神社に近づくと、まだ雪が残った、いわゆるお椀を伏せたような神奈備山の「高山入道ケ嶽」が見えてくる。
 
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バスは、神社の一の鳥居のすぐ前まで連れて行ってくれる。
 
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神社でいただいた栞によると、祭神は、
 
主神 道祖 猿田彦大神
相殿 天孫瓊瓊杵尊 御姥(おんはは) 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
前座 道祖神裔 行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)
別宮 道祖配祠 天之宇受女命
合祀 八百萬神(やおろづのかみ)
 
創立の由来は、
 
「当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(たかやま)(入道ヶ嶽)短山(ひきやま)(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第十一代垂仁天皇の御代廿七年秋八月(西歴紀元前三年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座(みふねいわくら)附近に瓊瓊杵尊・栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)を相殿(あいどの)として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。このように社殿創始は垂仁天皇の御宇(ぎょう)でありますが、それ以前、悠久の太古、すで原始人類に信仰の芽生えを見た時、既に大神の尊崇と本社創建の渕源は存したと言わねばなりません。即ち神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。天孫、「瓊瓊杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢(やちまた)に「道別(みちわき)の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙(つつが)なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別(ちわき))大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。」
 
発展の歴史は、
 
「猿田彦大神の神喬(直系子孫)であり、神代以来連綿として当社に奉仕して来た山本神主家は往古猿田彦神族の長として、当社地を拠点とし伊勢地方を掌握していすいにんぎようたが、時あたかも垂仁天皇の御宇、皇大神宮の伊勢御鎮座に当っては、神族を遣して皇大神宮の御警衛、又御用命に奉仕おおたのみ;とした。神族の代表とも云うべきに太田命あり大御饌供進の奉仕を勤め、当社と神みに尾宮との間には千数百年問、御贄の神事として存続された事についても明らかであります。これらの事から皇室を始め、一般庶民に至る迄崇敬厚く、仁徳天皇の御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ、天平十一年聖武天皇は当社へ親拝され、勅願によって古備真備をして、大神御神面及び獅子頭一頭を刻ましめて当社に奉納された。これに由来して獅子神による祈祷神事は、千三百年間絶ゆることなく現在も継承されて全国幾多ある獅子舞の宗家として知られ日本最古の獅子舞であります。
  光孝天皇仁和年間には「伊勢の国一の宮」に、醍醐天皇延長五年十二月には「延喜式内社」に列し、白河天皇の御宇には、神階も正三位に昇進、社頭隆昌して神威大いに輝いていたが、たまたま天正十一年織田勢の兵火に罹り、御神体を始め獅子頭等一部を除いて社殿古記等ことごとく焼失した。天正十四年三月、苦難に堪えつつも漸く社殿を再建、一の宮としての体面と祭祀の厳修は続けられて来たが、徳川の代となり藩主本田平八郎の崇敬篤く、社頭諸施設の寄進せられるに及んで、諸古儀も次第に往時に復し、国家隆昌・皇室弥栄の祈願は絶える事なく、特に九条家累代の御祈願所となった。昭和初期に内務省神社局の調査によって、全国各地に二千社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮であることが再確認され、当時の内務省神社局考証課長宮地直一博士より当社に対し「地紙猿田彦大本宮」と尊称することと、「国幣大社」列格の件に関しての示唆を受け、其の意を体して諸手続を為し、列格の内示をー,受けるまでに至りたが、大東亜戦争勃発の為中絶された。'しかし、猿田彦大神の本宮である事が明らかにされると、昭和十年、三月警視庁は当社の御分霊を庁内に奉斎して、国土及び皇室をはじめ国民守護の神とし、昭和十四年三月には内閣を代表して小磯国昭拓務大臣が国土開発祈願の為に正式参拝され、また昭和ニ十年四月には皇室御名代として賀陽宮邦寿王殿下の御代拝あり、戦後に到っても官界財界の重鎮、武道界角界芸能界に至るまで多数の参拝者があります。当社は天つ神の本宮、皇大神宮に対し奉り、地つ神(くにつかみ)の本宮「地祇大本宮」として崇められ、昭和四十三年十一月には新しく社殿御造営になり、現代の精神的空白の時代を満たすに足る「地祇大本宮」としての面目を新たに全国的に崇敬者が急増し、社頭に参拝者の絶えることのない賑わいを呈している。」
 
 
鳥居をくぐるとすぐ、「庚龍神社(かのえりゅうじんじゃ)」があり、樹齢400年と伝えられる樅の木に、金龍・白龍・黒龍の龍神が祀られている。
 
そして聖武天皇勅願の獅子堂があり、なかに獅子頭が祀られている。
 
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獅子神楽が有名だそうで、説明板によると、
 
「3年に1度、丑、辰、未、戌の年に2月から4月まで舞われ、山本町民から選ばれた鉾役・神主・神面・御頭・笛・鼓・太鼓の七役で潔斎の上行われている。
 獅子は一頭で、舞は、初段の舞に始まり、起し舞、扇の舞、後起しの舞、御湯立ての行、子獅子の舞があり、最後に花の舞となり約2時間におよぶものである。獅子頭は、天下泰安、四海静穏、風雨順時、百穀潤屋という聖武天皇の勅願により、吉備大臣が椿の木で彫刻したと社伝で伝えられている。各地に山本流獅子舞としてその技を伝えており、以前は鈴鹿山脈の山麓づたいに北勢地方の巡舞であったが、今は県外にも巡舞している。」
 
来年は辰歳だから見に来たいものだ。
 
参道を進むと、右手に大黒・恵比須が祭られた祠がある。
 
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左手には、「御舟石坐(みふねいわくら)」が注連縄に囲まれた中にある。
 
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これも案内板によると、
 
「此の御神跡を御舟石坐と申し伝え、中央三個の石を天降石(あまくだりいし)と古来より称す。神座(しんざ)を之れに依って明らかにす。中央奥は主神道祖猿田彦大神、左は皇孫(すめみま)瓊瓊杵尊、右は栲幡千々姫命。往古國津神磯津の濱より遡り給ひて御舟をここにつながれ給い。高山短山のいほりに安住なし給ふと申し伝う。日本國土の神社の淵源を物語る貴重な御神跡であります。」
 
ということで、もともとはこの磐座が御神体として祀られていたものらしい。
 
そして参道の中ほど、左手に、「高山土公神陵」の古墳がある。
 
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この陵は、パンフレットによると、
 
「猿田彦大神の御陵で、山本神主家はこのお墓を神代より守り続ける大神直系の神主家であります。」
 
円墳かと思ったが、前方後円墳であるそうだ。
 
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陵のかたわらには、国津神の大本ということで、地球を踏みしめた猿田彦の石像もある。
 
本宮の社殿は、南南東向きに建ち、本殿は見にくかったが、神明造りとのこと。
 
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神紋は「三つ巴紋」。
 
拝殿は広いが、意外に簡素な造りだ。
 
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高山入道ケ嶽の頂上に奥宮があるそうだが、雪も残っていて寒そうなので、登るのはやめにした。
 

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