日本台湾統治50年史様々シリーズ
大正、昭和と残った台湾総督府官営農業集落の変貌ぶり台湾東海岸は台風銀座である。住宅、耕地、交通機関、農作物、用配路、地上施設全部が台風で 被害をだし、のうさくぶつが全滅したものです。中々救助が届かずに、困窮この上も無い 状況で最後は軍隊の出動が出てやっと復旧も始まる状態になったのです。困ったのは海からの 吹き上げの塩気の為に平地から浦の山系までの緑が消える塩害により、その後の農業が 継続できないことでした。その間、常にマラリア感染の心配がありました。昼間聞こえる田んぼ 野中をゆっくり歩く水牛の上から聞こえる、「エエ・・・・・ホイヤー・・ホイヤー」の鼻歌でありました。開墾と牛の飼料の草刈が主な仕事となり、煙草栽培もひろまり、煙草の葉っぱを干す乾燥小屋がたちはじめたそうです。自分の家の庭には必ず、マンゴー、竜眼、バナナ、連夢(今は連霧とかく)、 木瓜、釈迦頭などがうえられていました。子供でも水牛をこなし、両親をたすけたそうです。 地元に高等教育機関がないので、内地に留学するものも増えて、帰台したこれらのインテリは 農業する農民の必要とする小売、雑貨品店などを農業と兼農出始めるものがおおくなりました。 応募要綱には農業以外は禁止とありましたが、農民の必需品供給は必要であった為に、この規約 は緩和されました。裁縫店でミシンでの服作り、補修、仕立て屋開業、洗濯や、食料品店、雑貨商店、 終いには映画館(小屋で)、お風呂やまであったそうです。 親子二代つずけて農業をいそしんだ家族は少ない現代社会となりつつありました。両親だけが農業に 従事して、息子達は内地留学や外で勤務する働き者がでてきたのです。 初期より農業をひきつぐ世代数はほんの僅かな数になっていました。 海外に夢を追って来台した若者には抑えることが出来ない志が絶えず燃えていたのでしょう。 老人の集落場所、若生の小売商売に方向がはっきり分かれた模様です。 その他の集落、林田、豊田村も同じ運命にあいました。今は林田の林業事務所と官舎が のこっているだけです。つわもの殿の夢の跡だそうです。 鳳山高雄。
11−09−06. |






