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柳沢厚労相の「産む機械」発言問題も幾分前に一段落した所である。この発言の是非については差し当たって述べることはない。はっきり言えば程度の低い発言ではあったと思う。柳沢大臣だってなにも「女性は単なる機械だ」などとはいささかも思っていなかっただろうから(現にこう言っては何だが、という旨を断わったそうだから)、確たる知見も無く、熟考せず発言をした点はやはり駄目だな、と新聞の豆記事を見てこの発言を知った時は思った。だから発言自体が問題になった時は、余程野党も材料が無いのだなという風に思った(新聞の言葉を借りれば今国会は「貧打線」で与野党とも相手のエラーが出ても得点できないという。)。だからマスコミも少々大げさかな、と少し思った物だ。
本題はここからである。マスコミに対してあまりに一部の批判の声が大きいのに驚いたのである。この程度の発言で辞任を要求するマスコミの過熱報道は「言葉狩り」だ、とマスコミに対し批判する人々がいるのである。挙句の果てに発言自体何の問題も無い、一部表現を取り上げるマスコミこそが問題なのだとする意見さえ出てきた。さらにはこの問題を天皇機関説事件と対比する人までいて、その無責任な言論に私はほとほと呆れてしまった。
柳沢発言自体は、表現の上ではさほど「問題」でも「失言」でもないと一部の人達には見えたのだろうが、表現に柳沢大臣の無見識ぶりが出ていて、その点だけでも厚労相としての能力を巡り批判されるべきだと私などは思う。
この発言からは、人間と機械の境界が科学技術の発展で不明瞭になりつつあり、人間と機械の関係が激変しつつある現代社会に対する考察の無さ、生命倫理学・バイオエシックスへの造詣の無さのようなものが私には感じられる。厚生行政の責任者として、この点は大いに批判されてしかるべきだと私は考えている(勿論だからといって必ずしも辞任要求をする訳ではない)。高校倫理程度の知識があれば、もう少し人間と機械という言葉の持つ意味を考えないだろうか。
天皇機関説事件とこの発言問題を同一視する言論にも非常に違和感を感じる。美濃部達吉が確固たる自己の思想と学説に基づいて発言し弾圧された、学問の自由を巡る機関説事件と、およそ思想性も確たる考察も感じられない発言を巡る問題を同列に論じるなど、天皇機関説事件を今回の発言程度にしか捉えていない意見で私は到底受け入れられない。今回の問題について、天皇機関説事件の後言論の自由が奪われたことを嘆いて柳沢発言を擁護している渡部昇一氏など、きつく言えば言論人としての良心を疑う。
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