創価学会・公明党

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takさんのコメントに対する当方の意見表明も今回でおそらく最後である。

今回は、創価学会についての記事を書く筆者自身についての、takさんのコメントについて。まずは例によってコメントの検討から。

『貴殿は聖教新聞をよく読んでますねぇ(笑)

そもそも何のために貴殿は読んでいるのですか?
批判するための材料として読んでいるのでしょうか?
批判して、我賢しとアピールしたいのでしょうか?
そういう腹のうちが貴殿の文章からは見て取れます。
その点、あまり賢い人物とは思えませんが。
なぜ、貴殿が聖教新聞を読むのか?
疑問を持つなら読まなければいいのにと、率直に思ってしまいます。
ご回答ください。』

 なぜ聖教新聞を読んで記事を書くのか、というご質問であるが、takさんも薄々感じていらっしゃるように、公明党を通じて政治に影響力を保持している創価学会についての批判的検討、とでもまとめられる理由からだ。

 御周知の通り、創価学会は会員数も多く自ら本格的に政治に介入している事もあって何かと問題も持ち上がってきた組織だが、その割には客観的報道が少ない。特にその内実に迫るような話は皆無に近い。
 
 それと、これは私事かもしれないが、何度も書いているように私の家に来る創価学会の会員諸君は、選挙の時に訪れて公明党への投票を要請する話しかしない。一体彼らはどういう理由で公明党を支持し、ああいう行動を取るのかという理由について探ってみようと思い、彼らが普段読んでいる聖教新聞がどのような物であるか読んでみると言うのは、まあごくオーソドックスな手法だと思う。
 
 「疑問を持つなら読まなければいいのにと、率直に思ってしまいます」というのはtakさんの完全な自己矛盾だと考える。takさんは国民が黙っていてはだめだ、政治について国民は常に監視し正しい政治を求めるべきだと主張なさっていた(前編参照)。それと同じ事だ。疑問を持つから読んで、一体どういう背景でこういう新聞が出来ているのか、考えてみたくなるのである。

 それともtakさんは、仮に「疑問を持」ったら政治になんか関わらなければ良い、とでもお考えなのだろうか。

 我賢しと思いたいから書いている、というのも完全な勘ぐりだろう。私如きの記事を読んで「賢い」と思うようでは、日本のブログ読者の水準も低いと言わねばなるまい。takさんの考える程、ブログの読者はバカではあるまい。

 本当に賢い人間は、もっと広い視野から鋭い論理で創価学会について批判できると思うが、如何だろうか。


 さてtakさんの提起された問題には大概答えたつもりなので、今度は私からtakさんにいくらか質問したい。

 まず、どうして貴方は私の創価学会関係の記事にコメントまで下さったのだろう。こう言っては何だが、創価学会についての記事を読んで反論のコメントまで寄せてくる人はあまりいないのだ。過去に有った数例はいずれも、創価学会系の主張をなさる方々で、多分創価学会の関係者だったのだろう。

 そういう訳で、私になぜ創価学会の記事を書くのかと質問してきたtakさんにこそ、なぜそう創価学会について拘るのかと逆に質問したいのだ。貴方は創価学会について肯定的な評価をなさっているが、その価値観はどのように形成されたのか、創価学会との関係の有無も含めてお尋ねしたいと思うが如何だろうか。

(この記事は「創価学会記事に関する反論に対する反論ないし意見表明」の続きなので、前編を参照のこと)
 
 さて前回に続きtakさんから頂戴した疑問(反論)についての当方の返答・意見表明を行いたい。まずは前回の残りである「外国語能力は哲学の造詣を判断する根拠となりうるかどうか」という話から。

 私は哲学をする上で外国語の能力というのは大いに重要なのではないかと考えている。従って外国語能力を持っているか否かを哲学の造詣を判断する根拠の一つにしてもそれ程問題ではないと考えている。

 勿論外国語能力が哲学に於いて最も重要な能力だと考える訳ではなく、外国語がいくら出来たって哲学の研究において全く実力のない人間も相当数要るだろうとは思うが、外国語が出来ないのと外国語が出来るのとでは後者の方が哲学をする上で好ましいのは妥当な見解だと考える。

 やはり哲学を深く修めるのならば、違った言語や違った時代の他の哲学者の仕事を参照する事が必須ではないだろうか。現に現代の哲学者達で、日本語のみを使っている人というのはごく少数ではないだろうか。皆母語以外の言語を取得して哲学研究に活かしているのだから、外国語の能力について全くと言っていい程評判を聞かない池田大作氏が「哲学への深い造詣」を持っていると言うのならば、どのようにして外国語を使わずに哲学を修められたのか、とこう考えるのは素朴な疑問であると思うが如何であろうか。


 さて肝心の、公明党と創価学会についての話。まずtakさんのコメントを引用しよう。

『それから公明党への「報い」を訴えるという点。私は、こういう姿勢で臨むからこそ、正しい政治をさせるための国民としての監視ができ、自浄作用が生まれると思います。国民への報いを訴えるのは政治家に対して至極当然。黙っていてバカを見るのは御免です。「国民のために正しい政治をせよ!」と堂々と言える賢い民衆でありたいものです。』

 このコメントに対しては私の方では大いに疑問がある。
 基本的にtak氏は、創価学会の政治姿勢を評価する立場をとっている。彼らの政治姿勢は「至極当然」ではないか、という訳だ。
 
 はっきり言って、takさんがもし仮に創価学会の皆さんを「『国民のために正しい政治をせよ!』と堂々と言える賢い民衆」であるとお考えで、或いは彼らによって「正しい政治をさせるための国民としての監視ができ、自浄作用が生まれ」ているとお考えであるのならば、それは今日に至るまでの創価学会の歴史に極めて甘い見方をなさっている、と言わざるを得ない。

 なぜそう考えるかというと、創価学会の会員は基本的に公明党を支持することを教義か何かのように半ば「信じて」しまっている。過去数十年の、組織を挙げての選挙活動と投票行動が物語っているように、彼らは時には公明党の失敗等に多少は怒る事もあるが、「正しい政治をしなければ他の党に投票するぞ」といった強い訴えをする事はほとんどないのだ。どんな政治だろうと公明党には投票するのだから、これでは監視や自浄作用などあったものではない。現に20年ほど前に公明党議員が汚職で捕まったときも、それは例外であるとして創価学会の公明党に対する支持に何の変化もなかったのではないか。

 結局の所、創価学会が他の政治勢力と違うのは、自らの利益や政治思想と異なる政策を公明党が取ろうとも、一貫して公明党(ないしその流れを汲む勢力)を支持してきた事だ。公明党は反自民の細川連立政権や新進党にも参加したが、それからしばらくして今度は敵対してきた自民党と連立を組んで政権に加わってしまった。本来このように派手な変動があれば支持者の支持を失ってもおかしくないのだが、公明党と創価学会の関係は変わらなかった。もともと一心同体だった創価学会と公明党は、言論弾圧事件に際してその関係を批判され形の上では分離したが、その後もこのような関係にあるところを見ると、完全な分離というのは結局不可能であったのだろうと推測せざるを得ない。

 以上のような事情を考慮すると、常に一つの党を支持し投票している集団が、正しい政治を主張し政治を監視する事は非常に困難だと考える。自らが一つの党の支持者として深い当事者性を有してしまっている以上、そのような政治の担当者と対峙する様な行為を行う事はとても無理な話であろうし、現に創価学会は政治の監視者とも政治への提言者とも成り得ていない。創価学会は結局の所公明党の支持母体としてしか政治に関われないのであり、従ってその活動の範囲も限られてしまうのではないだろうか。

 創価学会についての記事に対しtakさんから疑問というべきか反論ともいうべきコメントを頂戴したので、返答したい。そのため他の読者の皆さんにとってはいささか分かり難い記事であるかもしれないので、まずは「最新のコメント」中の、takさんのコメントとコメントが付いた当方執筆の記事双方を読んだ上でこの意見表明をお読み戴きたいと思う。

 さて、基本的にはtakさんのコメントに沿って、逐次当方の意見を表明したい。ただし、当方の能力不足ゆえに、話が他所に飛んだり、話が重複したりといったことは充分考えられるがそれはご勘弁戴きたいと思う。

 まずtakさんのコメントの、哲学に関する部分を引用したい。

『まず哲学への造詣について。所詮、哲学といっても“人間どう生きるか”についてのもの。であるならば、外国語が話せて、外国の書物を読めるかどうかを基準に、哲学への造詣のあるなしを判断するのは浅い見解だと思います。学者が机上で学ぶことに終始し、それを現実生活に生かせなければ、それこそ、哲学者の言わんとしている本来の意図を汲み取れていないといえませんでしょうか。むしろ、哲学の本質を含み、広く大衆と関わりながら行動を起こしているという点に対して、造詣が深いと捉えているのだと思います。』

一読しての、あまり本筋とは関係がないが返答に当たって困った、率直な疑問から述べたい(以下いくつか述べるであろうこうした疑問に対し、一体何を言っているか自分の考えと違う、と思われたならばtakさんにはそれについての補足説明をして頂きたい。Takさんの言わんとするところが明確でなければ答えたくて堪らない当方とて有意義な返答は難しいのだから)。

まず一行目から三行目の「であるならば」で繋がった二つの文について。「であるならば」という表現を用いられている以上は、「AならばB」と同様の論理展開がなされたと考えなければならないのだろうが、「哲学といっても“人間どう生きるか”についてのもの」であることが「外国語が話せて、外国の書物を読めるかどうかを基準に、哲学への造詣のあるなしを判断するのは浅い見解だと思」う理由になるというのだから、この文章からはどういう論理でこのような結論に至ったかが分からない。よって哲学の主題が人生についてであるということがなぜ、どのような思考の上で外国語の能力で哲学の造詣を判断するという見解を「浅い」と思う理由になったのかtakさんにご説明して欲しいものだ。

 まあこれは上記の通り全然本筋とは関係のない話だと当方も考えている。takさんの言いたかったことは多分「外国語が話せて、外国の書物を読めるかどうかを基準に、哲学への造詣のあるなしを判断するのは浅い見解だと思います。」で大方言い尽くされているのだろうから。その前の部分は、多分言いたいこととは別の事をついうっかり書かれてしまったのだろう。誰がどう考えても、哲学が何を対象としているかと哲学の造詣は外国語能力で測れるかという話はまるで関係がないのだから(「では哲学が何か別の、例えば社会か宇宙を対象としている物ならば外国語能力で造詣を判断しても良いのか」といったことをtakさんのコメントについて考えてみると当方はつくづくそう感じるのだが)。

 本筋とは関係がないと言いながらも一つ気になったのでこれも記すが、「所詮、哲学といっても“人間どう生きるか”についてのもの」とのtakさんの見解は、私にはあまり納得出来ない。哲学の重要な主題の一つ、或いは根源的な主題の一つが人生やいかに生きるかという問題であることは多分当たっているのだろうが、では哲学者の仕事、哲学という営みが全てこの人生の問題に収束されるのだろうか。特に20世紀以後の哲学、例えば私のような素人が知っている事はただ彼の名前だけと言っても良いようなヴィトゲンシュタイン、彼や他の哲学者たちの言語哲学と言われる分野の仕事も人生の問題を対象とするのだろうか。或いは宇宙の成り立ち、在り方についての哲学的考察もこれも人生の問題についてなのだろうか。一つ、所詮哲学とは人生を如何に生きるかと言う問題だと言い切るtakさんにご説明いただきたい物だ。

 さて、もう少し本筋の話に入りたいのだが一つ確認しておきたいことがある。我々(つまりtakさんと筆者たる私)は今まで「哲学」について意見を述べ合ってきた(はずである)。私が創価学会の指導者池田大作氏の「哲学の造詣」が深い、と言う話を載せた創価学会の機関紙『聖教新聞』に対しそうだろうかと批判的に書き記し、それをtakさんがそんなことはないという主旨のコメントで反論なさってきたので、今当方がそのコメントに返答している、という状況なのだからそういうことで間違いはないだろう。

 ところでそもそも「哲学」という言葉で我々は何を表してきたのだろうか。
 まず当方は一貫して、学問としての哲学と言う意味で「哲学」という語を用いてきたつもりだ。従ってその語が表すのは、人文科学の一分野であり、他の諸科学(例えば数学とか物理学)同様に論理に基づいて結論や答えを目指す、学問・科学としての哲学のことを言ってきた訳だ。広義の哲学(誰々には哲学がある、といった学問としての哲学以外の意味も含む哲学)ではないので、そこは注意していただきたいと思う。

 そのような立場から見ると、takさんのコメントの後半(学者が〜以下)に対しては違和感がある。例えば以下の文。

『学者が机上で学ぶ事に終始し、それを現実生活に生かせなければ、それこそ、哲学者の言わんとしている本来の意図を汲み取れていないといえませんでしょうか』

 私はそうではないのではないか、という気がする。これも細かい事だが、「哲学者の言わんとしている本来の意図」と括ってしまっているが、それこそ哲学者たちの思想、それから彼らの「意図」は千差万別ではないか。哲学で学んだことを、哲学者の思想を「現実生活に生かさなければ」というが、じゃあ現実生活に活かす事が哲学者達の「意図」だったのだろうか。例えば思うがままに例を挙げると、プラトン、デカルト、ヘーゲル、ヤスパース、メルロ=ポンティ、或いは中国の荘子・王陽明…皆哲学者と呼ばれるが彼ら全てが現実生活への応用を意図して哲学をやっていたのだろうか。また彼らは自身の哲学の産物を現実生活に活かしたと言えるのだろうか。takさんにお尋ねしたくなる。

 率直に言えば、カントの例だけでもこの部分への疑義としては充分ではないだろうか。カントは全く几帳面で規則正しい生活を送り、それこそ散歩を除けば「机上で学ぶことに終始」した訳だが、しかし彼は偉大な哲学者の一人で、西洋哲学のとても重要な哲学者でありつづけている。そのことから、「机上で学ぶことに終始」することと「現実生活に活かす事」「広く大衆と関わりながら行動を起こしていること」を対比して分けて考えるのはおかしいと考えるし、机上で哲学に終始することを「哲学の本質」ではないと批判的に捉えるのもカントの例においては微妙な考え方だと言えはしないだろうか(そもそも「哲学の本質」って何、という素人ゆえの意地の悪い質問が浮かんでくる)。

そもそも前述のように「哲学」を学問として捉える立場を取っている者としては、人文科学や自然科学の成果を直接現実生活に応用することはないという前提の上に哲学を眺めているので、現実生活に直接活かすために哲学をやるかの如き考えに違和感を持ってしまう。

 長くなったので肝心の「外国語能力」云々への返事は出来なかったが、またいずれ(追記:さすがにコメントを付けられた記事で当方が書いたことでもありまたtakさんの疑問もここによる所が大きいと考えるので、創価学会についての話に移る前に次回で触れておきたいと思う)。相当長くなるかもしれないが、一応takさんの挙げた問いには何がしかの形で答えようと思うので、一週間単位で気楽に待っていただくと有難い。

 また、哲学の素人ゆえ、一体何を書いているのだ、とお考えの方もいらっしゃいましょうが、馬鹿な奴だなあと笑い飛ばして頂ければ幸いです。勿論専門の立場からのお叱り等は適宜受け付けますが。

 最近一部では人権擁護法案に対し反対の声が上がっているらしい。
 詳細は知らないから法案自体については特に意見もない。

 ただ何となく滑稽なのは、人権擁護法案に反対する人々(「反中派」や「反左翼」系の人が多いようだ)の中に「この法案は創価学会などへの批判を封じる物だ」「創価学会を利する法案だ」といった意見があることだ。
 
 これははっきり言って的外れな意見だと思うし、このような考えを理由の一つとして人権擁護法案に反対しているのならば、随分とつまらない理由で法案反対運動をなさる物だ、といわざるを得ない。
 言っておくが私は創価学会を「擁護」する気は全くない。むしろ当方は創価学会系の人々から批判されるような記事を執筆してきた人間だ。

 人権擁護法案と創価学会問題はあまり関係がないと考えている。理由の一つは、創価学会が積極的に人権擁護法案を推していないから。創価学会系のブログを見ても、創価学会・公明党が組織的に法案の宣伝や法案賛成の活動をしているような兆候は見られない。創価学会にとってそれ程有益な法案ならば、ただ坐して静観している訳がない。
 それから、創価学会を巡る言論、特に新聞・テレビ等の言論機関による言論は、既に全くと言って良い程機能していない。創価学会と公明党との関係と言った際どい問題に踏み込む大手マスコミは皆無だ。創価学会を「反日勢力」扱いして悦に入っている「保守主義者」の皆さんは、普段散々右翼的言説を発している産経新聞にすら創価大学の広告(それも全面カラー広告)が載っている事をお忘れではあるまい。BSフジで創価学会のCMが流れることもあれば、地方紙で見開き2ページにわたって創価学会の広告が掲載されることもあるのだ。
 既に創価学会は日本の言論界をほぼ手中に収めてしまっているのだから、いまさら言論統制に乗り出す必要もないだろう。
 
 しかし読者の中には、インターネットなど個人単位での言論も増えているから創価学会の狙いはそれの撲滅にあるのではないか、と思う人もいることだろう。
 それはあるまい、と私は考える。なぜなら、自分自身が1年執筆活動をしてみて感じているのだけれども、個人単位の言論にはやはり限界がある。創価学会・公明党がその権力を挙げて封じるのは、組織防衛上もっと重要でもっと急激な動向であろう。
 そして、これがこの小文を記させる一番の理由だが、「創価学会への批判が封じられる」と人権擁護法案に反対する人々に限って、本気で創価学会の批判をしたことなどないのである。それ程創価学会への批判を重要視するのならば自分自身でさっさとしてしまえば良かったのだ。彼らには自民党、特に自民党保守派支持者が多いが、そういう人々に限って自民党が公明党と連立を組んでいることを軽視していたりする。創価学会・公明党への批判はしても、それと連立を組んでいる自らの支持政党には批判をしないのだ。

 はっきり言って創価学会・公明党への批判的言動を続けてきた者としては、これまでろくに創価学会問題について言論をしてこなかったのに創価学会についての言論統制を法案反対の理由とする人々に対して、多少の反感を覚える。全く不快だ。公明党との連立や創価学会問題を脇において自民党や安倍晋三擁護しか考えていなかった人々に、創価学会についての言論を「擁護」して欲しくなどないのである。

創価学会は良書主義?

 以前私の書いた創価学会関連記事について批判をした方が(他の訪問者を「気違い」と読んだり、私が単なる「やっかみ」で創価学会問題について書いているなどとおっしゃったきりお見えになりませんが)、私の知っている創価学会会員は読書家ではない、という記述に疑問を呈しておられました(『また創価学会の信者の方を個人的に愚弄する様な発言も頂けません「本など読んでいないという、証拠でもあるのであれば別じゃが」』というコメントです)。

 以前も書きましたが、少なくとも私の家に来る創価学会の人達は読書家ではない、と考えています。
 何度も言いますが彼らは政党や選挙の候補者は薦めても本を薦めてはくれないからであります。本を読んだという話すらなく、況やこちらの生活について訊ねもせずにただ政党と候補者の話だけをして電話を切ったり帰ったりするのです(そもそも読書家で無い人を読書家でない、と記述することはその人を「愚弄」している、という批判は、勿論その人が大変な読書家であったならそれは記述の誤りですが、登山家でない人のことを彼は登山家ではない、と記述したら彼を「愚弄」している、ということと同じくらい下らない疑問ではないかと思います)。

 ところで創価学会と池田大作氏は読書、特に良書を読むことを薦めているらしい。これは海外のSGIにいる四条金吾氏のブログで知ったことですが。

 どうもこの二つの事象が私の中では結びつかないのです。

 家に来る創価学会の人達も、良書を読むように指導はされているが、実際には読んでいない、ということでしょうか。それとも良書を読むようにという指導は、選挙活動をすべし、という指導に比べて緩い物なのでしょうか(しかしあれだけ「師弟不二」と言っておいて師匠の言いつけを守らない、ということはないでしょうに)。
 
 こちらとしては創価学会の皆さん方に、公明党がどうのといった話よりも会員の皆さんが例えば『荘子』について、遠藤周作の『沈黙』について、カーの『歴史とは何か』について語ってくれた方がどれだけ面白いか分かりませんから、そうしてくれるとこちらも助かるのですが。

 それと悪書は駄目だ、というのが池田大作氏の御意見のようですが、会員の皆さんも『創価学会解剖』(朝日文庫)辺りはお読みになっても宜しいのではないでしょうか。公明党が小沢一郎氏らと組んで新進党を結成し、自民党と激しく対立していたという、ほんの十年ばかり前のお話です。

(第二版では、初版で述べたような当方への批判は無かったと書いて謝罪訂正をしたのですが、よく探すとそのような批判コメントがありました。再度訂正して謝罪します)。

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