|
(埼玉県さいたま市浦和区岸町)
中学生のころ、奈良時代の税制は租庸調と教えられた。租は年貢など田畑からあがる収穫物の何割か。庸は、本来は労役だが、その代納物で、仕丁、采女の衣食用として布や米をあてたという。調は物納租税の中心で律令国家の主要財源。朝廷への貢納物として、みつぎ、つきと称されたという。絹やあしぎぬ、綿、錦、和紙など繊維品が主だったらしい。
夏の午後、浦和の町を歩いて行くと、家並みの向こうに大きな森がみえてきた。調神社の森だ。しばらくして木立にはいると、涼風が顔をなでる。ケヤキの大木がずらり、並木がつづいている。はじめこれが社名のもとになったのかな、とも考えた。ケヤキはもと槻(つき)といったから。わたしは裏口のようなところから入ってしまったようだ。境内で目に飛び込んできたのが、ウサギであった。水場ででかいウサギが口から水を吐いている。正門には鳥居がなく、左右にウサギをのせた門柱が建っている。このウサギの写真を撮っていた御婦人に聞いてみた。どうして、ウサギが多いんでしょうね。「つき神社だからじゃないですか」との答えであった。
菱沼勇氏によると、徴税の職を世襲した調氏に関係あるだろうと、次のように述べている。
応神天皇のころ、百済から渡来した努理使主の子孫で、租税のしごとをした調吉士という人物がいる。聖徳太子のけらいに、調使がいる。筑後や和泉で繁栄していたようだ。朝廷にかかわる氏族だったようだ。
この調神社の地に、武蔵国の天皇の屯倉から収穫された穀類を収納する倉庫がもうけられ、ここから近畿方面に船で送られたのではなかろうか、という。この屯倉の管理を任されたのが調氏だったと推定されている。(「武蔵の古社」)
神社の鎮座する地域は台地のへりで、その下に水路が走っていたらしい。江戸時代まで、そのなごりがあったという。地名の岸町もそのひとつ。もうひとつ、街を歩くと気がつくいいにおい。ウナギのかば焼きだ。ウナギやがやたらめにつく。水路の土産、ウナギが名物になってしまったようだ。
調、みつきが、つきに変化、調(つき)神社、つきのみやといわれるようになった。そこに、月待ち信仰がが結びつき、ウサギが登場することになったのであろう。祭神は天照大御神、豊宇気姫命、スサノオ命の三柱、延喜式小社。境内の池の近くに小さな前方後円墳がかつてあったという。調氏の奥津城であったか。
こんな、メルヘンチィックな神社があるのも楽しいものである。
*調神社の正門と水場のウサギ
|
調氏というのはやはり渡来系なのですね。
東国の屯倉の管掌氏族は壬生吉志などで有名な吉志一族であるらしいと本で読みました。調吉士も同族なのかな?でも新羅ではなく百済系なんですね。
2009/10/23(金) 午前 8:57
吉志とは地位とか階級からきてると、どこかで読んだ。あとで調べてみたいが、新羅とか百済とかの問題ではないのではないかとおもいます。武蔵国の場合、とはかぎらず、列島どこでも入り乱れていますね。
2009/10/26(月) 午後 6:26 [ nag*rik*nn0* ]