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(茨城県稲敷市神宮寺)
北畠親房が霞ヶ浦に入り、はじめて活動拠点となった神宮寺城跡である。
案内板には、おおよそ次のように記してある。
延元元年(1336)12月、後醍醐天皇は吉野に遷られ、政権は南朝(宮方)と北朝(武家方)とに分かれ抗争半世紀あまり、世に言う南北朝の時代がつづいた。
延元3年9月、南朝方の中心人物、北畠親房は義良、宗良の2親王を奉じ、伊勢大湊(三重県)から海路陸奥に向かう途中、遠州灘にて暴風にあい、兵船は四散した。親房一行は辛うじて霞ヶ浦に入り、東条浦に漂着、地頭東条氏に迎入れられた。そして、この神宮寺城に入ったが、まもなく北朝方の常陸守護佐竹義篤らに攻められ10月5日に落城、親房一行は阿波崎城、小田城、関城、大宝城へと転戦5年、後に海路で伊勢にもどる。
陸奥へむかうはずだったが、どうして霞ヶ浦に入ったか。まだ分かっていないことが多い。
最近の研究をみると、教科書などにかかれている「漂着」とは、ちょっと違うみたいだ。親房らが伊勢大湊から繰り出した船団は300以上にのぼったという。奥州で南朝政権の樹立をねらったか。
親房一行の後ろ盾となったのが伊勢神宮だった。当時伊勢神宮は周辺に8つの神郡を持ち、全国の有力者から献上された御厨は730,その収益は膨大なものであった。関東にも御厨は多数展開され、その収穫物は伊勢神宮の神人によって船で運ばれていたという。常陸国内では新治郡小栗御厨(旧協和町)では絹が生産され、内宮に納められていたという。おそらく、鬼怒川の水運を利用、品川や六浦(横浜)から伊勢へ運ばれたものであろう。このころ、かなりの規模でこのような交易があったという。
親房たちが乗った船もそのような航路に明るい船頭たちによって操作されていたに違いない。霞ヶ浦には、海夫という航海民もいた。かれらなしに霞ヶ浦に入ることはむずかしい。何らかの援助があったのではないか、とわたしは見ている。
城跡の土塁には大正年間に建立された石碑がたっている。「北畠准后唱義之所」とある。唱義とは、人にさきだって正義をとなえること。ここで南朝の正当性を主張したのであろう。東国の要、常陸だからこそ、貴重な史跡といえるのではなかろうか。
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