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(茨城県神栖市息栖)
息栖(いきす)神社は数々の伝承を残し、うっそうとした神域に古代の雰囲気を漂わす森である。
由来書によると、鹿島神宮、香取神宮とあわせ東国三社として古来信仰を集めてきた。当初は4㌔ほど下流の日川に鎮座、大同2年(807)平城天皇の勅命によって現在地に移ったと伝えている。『三代実録』には、光孝天皇のとき、仁和元年(885)「正六位於岐都説神従五位下授く」とある。海辺の片田舎、沖洲のようで、於岐都洲、於岐都説、そして息栖に変化したのではないかと推測されている。
江戸時代のこのあたりを記述した『利根川図志』には、次のような伝承を伝えている。息栖村の海辺では、住吉三神、底筒男中筒男表筒男命をまつっている。海中の鳥居のそばに、神代から大小の瓶ふたつあり、潮がひくとみえる。瓶のなかの水は塩気無く、あじわいあましという。
大小2つの瓶が鳥居のふもとに据えられて、そこから清水がわきいでる、というのだ。これを忍潮井(おしおい)といっている。
現在の祭神は久那戸神、天の鳥舟、住吉三神である。くなど神は集落を災いから守るもの。住吉三神は興味をそそる。『太平記』の神功皇后が新羅を攻めたときの記述に、常陸の鹿島の海底に阿度部磯良という海神がいて、かれの干珠万珠を借りることによって攻めることができたという。磯良は福岡・志賀海神社の祭神でもある。安曇族といわれ、海人族である。常陸と九州が海でつながっていたのであろうか。
創建は下流の日川浜という。その近くに権現塚古墳がある(写真右)。前方部を東に向けた20㍍ほどの小さな前方後円墳だ。前方部が低く、古式様式をしめす
『三代実録』の於岐都説神社がこの息栖神社であったかどうかである。
昭和51年に発行された『玉造町史料写真集』(現小美玉市、旧玉造町)が手元にある。そこには旧玉造町沖洲の於岐都説神社の記事と写真が掲載されている。祭神は天照皇大神、国常立尊、経津主命、武甕槌命、天児屋根命。社伝によると、天長7年(830)葛原親王常陸太守に任ぜられたとき、大任遂行を祈願して創立されたという。『三代実録』にも記述される。天正年間(1573−1591)兵火で宝物炎上、同18年(1590)佐竹義宣再建。寛文4年(1664)領主新庄造営、並びに上田一反貢米7斗5升寄付。そして、集落に残る記録としては、延文2年(1357)烏有に罹る神祇仮宮に安置、文禄3年(1594)祀殿営修、旧観に復したと伝える(写真下、同書から)。この神社の左手に馬型飾りの着いた王冠を出土した三昧塚古墳がある。
旧玉造町の伝承はすてがたい。信憑性があるように思えるのである。
日立市川尻町の養蚕神社は江戸時代以前、於岐都説神社と名乗っていたという。徳川光圀、黄門様の意向で変更されたといわれている。
はたして、『三代実録』にいう、於岐都説神社はどこであろうか、今後も考えていきたい。
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