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(ふじみ野市滝)
新河岸川に新緑はえる標高16㍍の台地、田園風景が一望だ。徳川家康が鷹狩りで休憩をとったところとして、権現山という地名が伝えられるようになったという由緒をもつ。
昭和50年代後半、前方後方墳1基と方墳11基の権現山古墳群が明らかになった。もともとこの地は縄文時代の遺跡が点在していたという。
前方後方墳(2号墳)は川側に後方部を向けて築かれ、当時はながめがよかったことだろう。全長32㍍、後方部20㍍四方、前方部12㍍四方。前方部はほぼ平地で、後方部に2㍍ほど盛り土をほどこしている。この周辺に11基方墳が築かれている。近くの住居跡からS字状口縁台付き甕が見つかっていることから、被葬者は東海地方と関係があったのではないかと推測されている。
古墳時代初期の3世紀後半に築造された、貴重な古墳である。
写真中央左手、こんもり盛り上がっているのが後方部、手前が前方部だ。
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奈良県明日香村のキトラ古墳壁画展を東京国立博物館で見学してきた。
切り取られた朱雀、白虎、玄武など、光の制限されたなかで、目をこらしてみるのは厳しいしごとだ。玄武は蛇と亀の交錯する図=写真、比較的色が残って居る。朱雀や白虎は線描きていど、十二支の場合、杖が浮かんでいるように見え、持っている本体はわからない。想像図をみると、ねずみが衣装をまとってつえを持つ姿らしい。韓国・慶州の掛陵、古墳の側壁に置かれた十二支たちを彷彿させる。刀や杖をもつ十二支の動物たちがユーモラスに浮き彫りされている。
天文図が興味をひく=写真右天井模式図。同じ頃築造された近くの高松塚古墳に描かれた天文図よりも精巧である。高松塚の場合、4方向に7つの星座、計28の星座,179の星が描かれている。キトラ古墳は天井中央に内規、外規、赤道、黄道、66の星座、計350の星が描かれていた。そして、右に太陽、左に月、オリオンや北斗七星もわかる。古代中国では大地と宇宙の支配者を表現する、すなわち王の墓がここであるということになろう。研究者によると、この星座は北緯37度あたりでみえる空ということになるそうだ。日本では福島県いわき市、新潟県上越市あたりだ。朝鮮半島でいえば、ソウルの南、百済発祥の地といえそうだ。百済は中国の仏教など取り入れ、それを日本に仲介した。日本と最も親しい関係にあった。
被葬者はまだわからない。高度の天文知識、優れた絵画の才能をもつ人材、7世紀末から8世紀にかけ明日香村でこういう文明を駆使できるひとは多くはいない。直径14㍍に満たない円墳だが、この華麗な内部を知っていたのは、残念ながら盗賊とその一味だけであった。貴重な副葬品はどこへ消えてしまったか。
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(川越市)
天海僧正とはこういう人であった。
厳しい表情で宙をにらむ。徳川政権、江戸時代をどうみていたのか。
木造天海僧正座像。寛永20年(1643)、仏師式部卿の制作で檜寄木造、極彩色をほどこした座高169センチの座像である。天海入寂2ヶ月まえの姿であるという。ほんものは喜多院の奥にひっそり鎮座されている。写真は川越市立博物館の複製品。ほんものにはめったにお目にかかることができないようだ。驚異的な長寿、108歳で往生するまで、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、徳川政権の宗教政策に深くかかわった。
江戸崎不動院(茨城県稲敷市江戸崎)時代の随風、川越・喜多院時代の天海、そして徳川家康との交流、波乱に満ちた生涯は興味をそそる。その足跡を一歩一歩訪ねてみたい。
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(横浜市金沢町)
この風景があの大横浜にあると思われる方は少ないのではないか。
阿字が池にかかる朱色の反り橋、弧をえがく欄干、どこか、彼岸への入り口のような、別世界の入り口のような光景にみえるのは筆者だけであろうか。池を渡ると、深い緑を背景に金堂、釈迦堂にいたる。釈迦堂のわきの山道をたどると、この称名寺を建てたとされる北条実時の墓所だ。
ここ一帯が鎌倉時代の浄土式庭園として国重要文化財に指定されている。平安時代からの伝統を引き継ぐ作庭様式で、平泉の毛越寺、いわきの白水阿弥陀堂が知られている。浄土とは仏様の世界、浄瑠璃世界ともいう、苦のない世界、極楽世界、西方にあるというところ。
鎌倉時代というのは源氏が平氏をいくさで破って樹立した政権だ。そういう戦乱の時代をへて、武家社会が成立していく。どうしても、血なまぐさい世の中から、浄土をもとめる、あこがれる、そういう願いがこの庭にも反映されているのではないか。
称名寺は鎌倉幕府の執権につらなる北条実時によって正元元年(1259)建立、元亨3年(1323)伽藍が完成。もとは持仏堂で、のち拡大され、講堂、方丈、霊堂、三重の塔などそろえた宮殿に仕立て上げられた。現在は釈迦堂や仁王門が当時の面影を伝えている。実時は文書収集にも力を注ぎ金沢文庫として代々伝承されてきた。現在は隣接して神奈川県立金沢文庫として博物館機能も併せ持ち公開されている。
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国史跡吉見百穴から東に2㌔弱、標高30㍍の台地の縁に築かれている。平成2年に調査されて、その後手入れもされた様子はない。藪がきつい。後方部が北に向き、東方向すそに小さな古い墓石が並んで据えられている。近所のひとも古墳については記憶もおぼろげだ。
調査によると、全長58㍍の古式古墳、前方後方墳である。このときは周溝のみの調査で、本体含めた本格的な発掘はしなかった。それでも、土師器高坏、甕型土器、鉢形土器など出土、いずれも五領式土器だという。4世紀から3世紀にかけて築造された古墳であろうと考えられている。このほかにも、周辺の藪の中にひっそり円墳などが眠っているそうだ。
この山の根古墳から南に1㌔離れた田園地帯に三ノ耕地遺跡がある。平成8年(1996)に圃場整備で明らかになった。前方後方墳が3基も発掘されたのである。1号墳は全長49㍍、2号墳は全長30㍍、3号墳は前方部が欠けていて正確な規模はわからないが、23㍍はあっただ
3基の前方後方墳に重層して方形周溝墓が28基検出されたのも興味をそそる。ほかに円形遺跡、住居跡、水場遺構など縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡であったという。残念ながら、この遺跡は田畑にもどり見学することはできない。出土品が吉見町埋文センターで見ることができる。
右の土偶は出土品のひとつ、体内は中空、手足が欠けている。呪術にでも利用したのか。下腹部に見えるのはペニスなのか女性のシンボルなのか。土偶の多くは女性像だ。ほかにミミズク型土偶、イノシシ土偶などがみつかっている。
吉見百穴に代表される縄文遺跡から古墳時代前期の前方後方墳、連綿と続く古代人の流れは現代にどうつながってゆくのか、考えて行きたい。
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