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(千葉県栄町龍角寺)
龍角寺古墳群で調査されたまれな古墳と言えよう。このはにわの表情がうまく再現されている。直径25㍍、外側に3㍍の周溝をもつ円墳。円筒埴輪120、東部の裾にさまざまな埴輪が樹立されていた。
盾持ち人、椀を捧げる女子、帽子をかぶる男子などの人物、馬、鹿、犬、猪、水鳥などの動物、葬送儀式をあらわしたものか。
埋葬施設は墳頂部や裾、周溝などに5基みつかった。何年も追葬がくりかえされたものか。
6世紀から7世紀にかけて埋葬がつづけられたようだ。
碧玉管玉、金の耳飾り、鉄製馬具、直刀、鉄鏃などが副葬されていた。
人物埴輪は印旛沼、古くは香取の海の住人を思い起こさせてくれる。
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(千葉県成田市舟形)
麻賀多神社に隣接する公津ケ原古墳群の39号墳。墳頂に「印波国造伊都許利命墓」と石碑に刻まれている。
この古墳は一辺35㍍の方墳、二段築成。5㍍の高さで、古木が鬱蒼と茂っている。南側に横穴式石室が開口、単室構造で奥行き3㍍強、凝灰質軟砂岩製である。西側テラス部にも箱式石棺があった。これは絹雲母片岩、おそらく筑波石か。鏡や玉が発見されている。七世紀の築造と考えられている。異なった石質の石室、石棺、どうしてなのか不思議である。
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渋川市の金井東裏遺跡の火山灰下から古墳時代の被災者が発掘され注目されたのは2012年の12月。よろいをまとって前のめりに倒れた状態で発見された。さまざまな研究が進み、8月にシンポジュウムが開かれた。
榛名山の6世紀初めの噴火で遺跡が埋まり、現代によみがえった貴重な遺跡だ。
この遺跡からはよろいをまとった古墳人と首飾りの古墳人、幼児、乳児の4名、ほかの被災者の遺骨、馬の足跡などが明らかになった。
よろいをまった古墳人は前のめりにうつぶせの状態で発見された。163センチの男性。CTスキャンなどから、頭に冑をかぶり、小札甲というよろい、内部に骨製小札を着けていた。韓国ソウルの夢村土城で同じようなものが出土しているそうだ。この土城はソウル東部漢江左岸、オリンピックスタジアムちかくにある。石村洞積石塚古墳群もこの近くだ。2〜4世紀、百済発祥の地ともいわれる。
ストロンチウム分析によると、その人物の生育地がわかるという。古墳人は長野県伊那谷地域から、馬の飼育技術をもって毛国に来たのではないか。渡来系の性格を帯びているらしい。
古墳人の近くから首飾りの古墳人もみつかった。143センチの女性、30代らしい。くびに70個のガラス玉、12個の管玉など装飾、古墳人との関係は不明。面白いことにこの女性はストロンチウム分析では在来の渋川周辺の生まれではないかとみられている。乳幼児、いずれもこの周辺の生まれであろうという。渡来系の人と在地の人が一緒に住んでいたことがわかったことは大事だ。日本人の形成にかかわることだからだ。
調査はほんの一角である。火山灰はこの毛野国一帯にふりそそいだ。さらに多くの古墳人の出現を待ちたい。
*写真上が古墳人の発掘現場、今は埋め戻されている。下が古墳人レプリカ、頭が右側
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9:20 渋川市役所を市バスで出発
10:00榛名湖近くヤセオネ峠付近から徒歩で山麓へ
10:34オンマ谷風穴到着。カルデラ火山の噴火口。溶岩がかたまり、あちこちに空洞ができている。この付近から地中のマグマが噴出、火山灰や噴煙となって降り注いだものだ。富士山の愛鷹山のように、山腹から噴火したようだ。二ツ岳山頂雄岳、雌岳は溶岩ドームだった。深緑の森にひめはるせみの鳴き声がやかましい。まゆみの原からオンマ谷をぬけるまでののぼりがきつい。
11:59むし湯跡。江戸時代まで噴気がでていて、湯治を楽しむことができたらしい。
12:10もみじの広場に到着。昼飯。二ツ岳を約半周したことになる。
13:00県立伊香保森林公園管理棟を出発。紅葉橋から伊香保温泉街へ。
14:15三美ケ丘自然公園。噴火物の検証。五世紀前後の噴火の様子がわかる。
15:00渋川市役所着。解散。
二ツ岳の噴火は5〜6世紀にかけて3回認められるという。5世紀の榛名有馬火山灰、6世紀初めの大規模噴火の二ツ岳渋川テフラ、6世紀中頃の二ツ岳伊香保テフラの三度。火山灰の層がくっきり違うのだ。
甲を着た古墳人が金井東裏遺跡から出土した。黒井峯遺跡も火山灰の下から現れた。榛名山東の遺跡は火山灰によって保護され、現代によみがえった。その時期が火山灰によって明らかになったらしい。いずれ、このあたりの遺跡をたずねてみたい。
御嶽山の噴火、ハワイ島の溶岩流失、グアテマラの噴火、恐ろしい。榛名山が爆発したらどうなるか、近くに伊香保温泉があるだけにこわいことだ。富士山も同様、やはり備えははきっちりしておきたい。
*写真は㊤二ツ岳㊦オンマ谷風穴
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伊豆長岡温泉近くの茨城神社。伊豆箱根鉄道の原木で降りて歩いて20分、現在は荒木神社だ。伊豆国田方郡の式内社、天津日子根命をまつる。和名抄によると、この地は茨城郷といったという。いばらき、ばらき、あらきと変化したか。境内には巨木がそびえ、古社の雰囲気だ。
このあたり、初めて訪ねたのは1978年、近くの大北横穴群から「若舎人」と刻まれた石櫃が発見されたという報道を読んだからだ。
常陸国(茨城県)にも防人・若舎人部広足がいて、万葉集に次の二首残していた。
難波津に御船下すゑ八十楫貫きぬ今はこぎぬと妹に告げこそ
防人に発たむさわきに家の妹が業るべき事を言わず来ぬかも
原典はすべて漢字である。当時、それだけでも、地域のエリートであったか。
舎人とは天皇につかえた役職、若舎人とは皇子につかえたものだったという。
太田亮『姓氏家系大辞典』によると、若舎人部広足は「百済国人和加志豊王の後」とある。『大日本人名辞書』によると、「利加志豊王」とある。和か利か、出典がわからず確認とれず。
さらに、奈良の都で発見された木簡に「若舎人部伊加麻呂」「若舎人部人麻呂」とあった。伊豆半島のつけね、駿河国から税として荒堅魚をおくったものに付けられていたという。荒堅魚とは半生のかつおのことだ。都ではたいへん好まれたようだ。
駿河国、伊豆国、常陸国、いずれも海につながっている。なにか交流があったのであろうか。興味をそそることである。
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