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(静岡県沼津市井田)
伊豆半島は山が海に没したとこで、それだけに絶景が楽しめる。
西海岸戸田の港から北へタクシーで15分ほどの井田松江古墳群は、煌めきの丘という観光スポットの真下にある。駿河湾を一望、運がよければ富士山まで手に取るように望むことができる。
23基の円墳が確認されて、17基が現存している。直径10㍍ほどの群集墳、6〜7世紀後半の築造と推定されている。
18号墳は13㍍の円墳、奥行き8㍍の石室を見学することができる。遺骨のほかに、水晶切り子玉、金環、刀子、鉄鏃、須恵器、銅釧を出土。注目したいのは金銅装圭頭太刀柄頭、鉄製銀象眼円頭太刀柄頭、精巧な細工を施したものだ。被葬者の権威、シンボルでもあろう。これらは戸田港の造船郷土資料博物館で見学できる。
7号墳からは馬具が出土したという。残念ながら、保管していた高校が火災にあい、焼失してしまったという。井田の集落は三角形の扇状地のよう、わずかな田畑をみることができる。当時、馬をどのように飼っていたのか、不思議なようだ。
値嘉島は山に海に豊かな島で、その白水郎(海人)は、馬・牛に富めり。遣唐使はこの島の港を出て、進路を西にとる。この島の白水郎は容貌、隼人に似て恒に騎射を好み、その言葉、俗の人に異なれり。
これは『肥前国風土記』の一部である。伊豆半島にも馬を操ることができる海人がいたのではないかと、想像される。航海に長けた海人集団の墓ではなかったかという説もあるそうだ。古墳群から見えるが、明神池は海跡湖といって、昔は海につながっていた潟だったそうだ。舟の出入りできる港の役割を持っていたというのだ。被葬者がどんな人物であったか、興味はつきない。
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観音塚古墳から北東へ1㌔歩くと剣崎長瀞西古墳がある。直径30㍍の円墳。帆立貝型古墳ではないかといういう説もある。昭和7年、付近の住民が墳頂を開墾しようとして発掘したところ、出土品がざくざく出てきて驚いたようだ。短甲、鏡、石製模造品、鉄鉾、鉄鏃など。これらは当時の帝室博物館(現東京国立博物館)に一括納入された。筆者もつい先日この短甲を拝見してきた。四散しないで一括というのは貴重だと思う。
この古墳の西側、現在は草原が広がっている。ここが剣崎長瀞西遺跡である。平成8年調査され、貴重な発見があった。集落や群集墳と同時に、方墳3基、方形積石塚5基が明らかになった。なかでも方墳10号墳から朝鮮半島で製作されたと思われる金製垂飾付耳飾(写真右)、及び軟質土器、土坑から馬具を装着した馬が埋葬されたまま出土した。最古級の轡がつけられていたという。
市内の谷ツ古墳からは金のくつ、飾履がでている。軟質土器もでた。この土器は朝鮮半島にルーツを求めることができるという。
被葬者がどういう人物であったか、はたしてこの地方の豪族上毛野氏か、それとも関係する氏族か。ヤマト政権との関係はどうだったか。疑問はふくれるばかりである。
*剣崎長瀞西古墳(写真下)
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(群馬県高崎市八幡町)
深緑の桜が古墳をおおっている。表面に葺き石と思われる小石が散見される。草刈りもされていて、付近の住民がたえずみまもリ続けているのかな。
全長105㍍の前方後円墳、高さ14㍍に4段築成。墳丘に登ると、榛名山、赤城山が一望。石室を見学できる。羨道から石室まで16㍍、50トン前後の巨石が組み込まれている。烏川や碓氷川の上流から掘り出された溶結凝灰岩、角閃石安山岩を修羅で渓流を運んだようだ=写真下。100㍍の前方後円墳をどれくらいの人員、期間を要したであろうか。
副葬品は黄金の耳飾りや画文帯環状乳神鏡、仏教伝来を忍ぶように承台付銅鋺、そして轡など多彩な馬具。特殊な杏葉。石室には7名の遺体が葬られていたという。
タタキ技法を使った土器も見つかった。韓式土器の一種で、朝鮮半島南部でも同様の土器が確認されている。土器といい、馬具といい、被葬者の性格を示すものであることは間違いない。
観音塚古墳の南西に平塚古墳(全長105㍍)、その東に八幡二子塚古墳(全長66㍍)、5〜6世紀に築かれたようだ。この地域の有力者の古墳群とも言えるであろう。
近くの観音塚古墳資料館もおすすめだ。ここで大型の懐中電灯を貸してくれる。石室見学用です。
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(埼玉県坂戸市)
埼玉県で2例目の蛇行剣が見つかったということで、坂戸市へ行ってきた。上の写真でわかるとおり、中央部がくの字形にまがっている。これが蛇行剣といえるか、ちょっと疑問が湧いた。
坂戸市入西の農家にあった円墳、入西石塚古墳から出土したという。昭和31年ころ、当主が古墳をこわし、土を転用しようとしたときさまざまな副葬品がでてきたそうだ。数年後、厳重にくるみ別の穴に埋めたという。平成27年、市の調査により、保存措置がなされ、その過程で蛇行剣が明らかになった。
副葬品は次のように多い。大刀、蛇行剣、鉾、鉄鏃、冑、板錣(いたしころ)、短甲、頸甲、珠文鏡、乳文鏡など。
考古学者の北山峰生氏はつぎのように述べている。
蛇行剣とともに小型の銅鏡が出土するケースが多い。5世紀ころ、銅製品を入手できるのはその地域の有力者。4世紀から5世紀にかけて、銅剣から実用的な鉄刀に変わる時期、剣は儀礼的な宗教的シンボルになってくる。蛇行剣の用途はまだ謎めいているが、さらに出土するようになれば、新たな機能がわかるようになるかも知れない。
入西石塚古墳からも、蛇行剣と銅鏡がセットででてきてる。北山氏の説では、やはり蛇行剣なのか。疑問をていした筆者がまちがいか。ここで東松山市の岩鼻古墳で出土した蛇行剣も、比較の意味で見てみよう。こちらはきれいに蛇行して一目でわかる=写真下。
入西石塚古墳の出土品は7月に坂戸市文化会館で公開された。
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(静岡県沼津市東熊堂)
JR沼津駅から車で北へ10分ほどのところに高尾山古墳がある。全長62㍍の前方後方墳である。道路工事がきっかけになり調査、出土品などの貴重さから、保存への取り組みがなされつつあるようだ。現状は写真のような状態である。いずれ古墳公園のような形になれば幸いである。
副葬品から古墳時代初期のもののようだ。古墳築造は西暦230年、埋葬は250年ころと考えられている。調査によると後方部の舟形木棺周辺から破砕鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡=写真下)1面、勾玉、鉄槍、槍鉋、鉄鏃など出土。畿内で王権が成立する前後にここ駿河湾地域に大きな地方権力があった。それをかたるものがこの高尾山古墳ではないか。
この古墳が長い間どうして破壊されずに現在まで存在しえたか。それは、前方部に熊野神社、後方部に高尾山穂見神社が鎮座していたからだ。両社がいつまつられたかは不明。昔の人は神社を破壊しようなんて考える人はいなかったに違いない。
伊豆半島のつけねあたり、『和名抄』には、茨城という地名がある、そして大北横穴群から「若舎人」と刻んだ石櫃が見つかっている。常陸国防人に若舎人部広足がいる。
伊豆半島と茨城がどうつながっているのか、知りたいものだ。
なお、これらの古墳からの出土品は沼津市文化財センターで見学できる。
*写真㊤手前南側が前方部、奥が北側後方部にあたる。現在は工事中のようだ
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