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(埼玉県行田市)
さきたま古墳群の鉄砲山古墳が調査され、出土品が史跡の博物館で展示されていると報道され、見学にいってきた。同古墳は全長109メートルのッ前方後円墳で6世紀後半に築造されたものと推定されている。
写真中央、古墳くびれあたりに調査のあとがうかがえる。埴輪片や甕が見つかったらしい。石室まえの前庭部からでた径50㌢ほどの甕が興味をひく。葬送儀礼で使われたもののようだ。調査した駒澤大の酒井清治教授は次のようにのべている。
「大阪の陶邑古窯群で焼かれたもの。大きなわりに肉厚が7㍉と薄い、陸路で運ぶのは困難、海路で運んだのではないか。東海道沖から東京湾にはいり、荒川を遡り運ばれたものではないか」
荒川というより利根川ではないか。当時は利根川は東京湾にそそいでいた。江戸時代初期に現在のように銚子で太平洋に流れを変えた。荒川も利根川も近世に江戸の洪水対策でなんども河川改修をくりかえしできた。
しかし、関西から関東まで、海路はるばる鉄砲山古墳まで運ばれた甕、なぜだとともに感動をおぼえる。
さきたま古墳群の北を流れる利根川、その北には毛国が控えていた。保渡田
大和と武蔵、信濃の関係を解き明かしてみたいものだ。
※ 石室まえの前庭部で粉々に割られた状態で出土、復元された甕
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ふもとの鳥居をくぐり急坂をしばらく登っていくと社が見えてくる。雨間近のどんよりした午前、だれも登る人はいない。怖いくらいの山だ。かさかさ動くものがいる。熊かなとどきどきしたが、猿であった。やしろを守ったいるのであろうか。山頂の本丸跡(写真左)は標高460㍍、好天ならば眺望はすばらしいときく。
天正18年(1590)六月、後北条氏照が支配する八王子城は前田利家、上杉景勝連合軍によって落城。ついで小田原城も落ちて豊臣秀吉の天下となる。
この八王子城での戦いは壮絶なものがあったらしい。城に籠もる数百の兵士、前田・上杉の数万の戦闘、勝敗は目に見えていたようなもの。本丸跡近くの松木曲輪で防戦していたのが中山勘解由家範、その戦いぶりをみて前田利家は助命しようとしたという。それを聞き入れず、長男とともに自刃したという。その前、次男三男は脱出させている。氏照は当時、小田原城にいて後に自刃している。家範の墓は出身地の埼玉県飯能市、能仁寺にある。
徳川家康は勘解由家範の戦いぶりを聞き、そのむすこ二人を捜索させ召し抱えるのである。中山照守、中山信吉である。
照守は馬術の名手、その後の黒田直邦は上州沼田城や上総久留里城を治め、墓は飯能市の多峯主山にある。
信吉は家康の信任厚く、幼い水戸藩主頼房を守り、初代水戸藩附家老として初期の水戸藩の基礎を固めたとされる。頼房の次の藩主、光圀を選んだというのも、信吉の慧眼を示すものといえようか。飯能市の智観寺に葬られている。信吉は高萩市あたりを所領していたことから、高萩市と飯能市は、現在友好都市として交流をつづけている。
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八王子城は天正15年(1587)ころ築造がはじまり、天正18年(1590)落城の短い命運をたどった山城であった。本丸跡よりも、むしろ城山川沿いの居館のあった御主殿跡あたりの様相が興味をひく(写真下)。庭園や各種建物跡などが調査によって少しずつ明らかになりつつあるようだ。現在調査中である。出土品の中でも、ベネチア製のレースガラス器など珍品があったそうだ。鎌倉幕府は中国貿易で莫大な財を蓄えたとも言う。シルクロードを通ってもたらされたものであろうか。
侍たちが詰めたという曲輪跡、虎口、大手門や古道、落城の際婦女子の血で染まったという御主殿の滝など当時の面影をたどることもできる。国指定史跡、これからも注目していきたい。
ちなみに、筆者は茨城県出身で飯能市在住である。
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三昧塚古墳出土の馬型飾りの付いた金銅冠
昨年、水戸市の茨城県立歴史館で特別展『三昧塚古墳とその時代』が開かれた。三昧塚古墳はわたしにとって古墳巡りの原点のようなもの。早速かけつけた。
ホールに置かれた石棺はおどろいた。かってに古墳に埋め戻されたものと思っていたからだ。明治大にあったとは。筑波石で、正確には接触変質粘板岩というそうだ。これを9枚使っている。縄かけ突起もめずらしい。筑波山のどこから運んだか。
昭和30年(1955)調査され、平成28年(2016)、60年たったわけだ。当時は全長85㍍、前方後円墳、馬型飾りの付いた金銅冠を出土したことで大きな話題となった。6世紀初めの築造だろうとされていた。60年たってどうなったか、興味を持ってここへ来たのだった。
展示をみて、案内板から解説をみても、時代がみえない。三度ほど子細にみたがどこにも何世紀に造られたか触れていない。
入り口にいた歴史館の中年職員にたずねた。いつごろ造られたかどこに書いてありますか。
はじめうさんくさい顔をしていたが、6世紀初めの築造と5世紀後半の築造、この2説がありうやむやになっている、というような説明であった。
それなら2説説明すればいい。うやむやでは「時代」とならないではないか、とわたしは思った。
発掘した明大名誉教授・大塚初重氏は、図録のなかで5世紀後半説を次のように書いている。
馬型飾りの付いた金銅冠は熊本県江田船山古墳出土の大刀に彫られた銀象眼の馬と共通テーマ、馬の文化は遠くユーラシア大陸から朝鮮半島経由で伝えられたが、その馬に関する遺跡、考古学上の知見も増えて5世紀まで遡る例が認められる。短甲や冑も古市古墳群の出土例からも5世紀に遡ることも考えられる。
ちなみに、復元された三昧塚古墳(茨城県小美玉市沖洲)の案内板には5世紀後半の築造であろうと書かれている。
「時代」を語ることはむずかしいが、・・・展として表現する場合、うやむやではなく、わかる範囲で説明がほしいものである。
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(山形県鶴岡市)
つれあいの希望につきあい、出羽三山ツアー1泊2日に7月はじめに行ってきました。
まず訪ねたのが湯殿山神社。巨大な鳥居(約15M)をくぐり、本殿へ。入り口ではだしになり、神官にお祓いしてもらいご神体を参拝。5Mほどかな、釣り鐘形のご神体からは湯気がたちのぼっている。背後に回ると温泉が足にここちいい。足湯できよめて終了。ここで見聞したことは言ってはならぬ、カメラも御法度のこと。冬には10Mもの積雪、ちなみにここは標高1504Mだそうだ。
次の日はまず月山。8合目の弥陀ヶ原、ここに中の宮がある。主峰は1984M,ここ8合目は1400M、天空の湿原として、高山植物が楽しめる。ここを散策、雲海の向こうにまだらに雪をのせた鳥海山が浮かんでいた。奥の細道の芭蕉もここまで登って来たようだ。
月山をおりて、羽黒山へ。はじめに五重塔。高さ30M,三間五層素木造り、南北朝の頃、文中年間(1372頃)庄内の領主武藤政氏の再建と伝える。杉木立のなかに白木の姿が気持ちをいやしてくれるようだ。
さらに上の羽黒山三神合祭殿のなかで、神官の導きによって参拝。この建物はすごく立派なものだ。高さ28M、茅の厚さ2M、国内最大、重要文化財。ここを参れば、三山めぐったことになるそうだ。神様をおがんだのか、仏様を拝したのか、ちょっとまよう、神仏習合の名残をとどめた本殿でもある。(写真㊤)
40数年前、冬の鶴岡を訪ねたとき、雪の五重塔を拝観した。いずれのときにか、月山の塔と思い込んでいた愚かな自分がいた。今回その訂正をふくめ、初夏の山形をほんのわずかながら楽しめる旅になった。
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(さいたま市緑区二丁目)
女体というなまめかしい名前に引き寄せられて訪ねた。祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめ)である。このあたり見沼に縁のある神様で、祭がおもしろそうだ。
江戸時代は御船祭として隔年9月8日、神社からみこしを船で「四本竹」の地、見沼の中程へいって御神酒をささげたという。どういう船であったか、御座船をあつらえたか、どう飾ったか、興味をひく。つい先日、鹿島神宮のお船祭りを目にしただけに想像は一層つのる。この見沼は江戸中期に埋め立てられ、田んぼに変身した、見沼田んぼだ。祭礼ができなくなると、神社のふもとに用水をひき、中央に柄鏡式というか、前方後円墳形に神事するところを設け磐船祭として再開したそうだ。享保14年(1729)のことだ。現在は祭祀遺跡公園(写真下)として、市民のいこいの場になっている。
祭礼は現在、5月4日に竜神祭として、竜神の張りぼてに近くの女性が巫女役で神楽を奏し祭神をなぐさめるという。竜神は奇稲田姫命のおつかいであったかな。伝統の祭で、大事に伝えていってほしい。
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氷川神社(須佐之男命)氷川女体神社(奇稲田姫命)、その中間に位置する中山神社(氷川両神の子、簸王子をまつる)、この三社を一体と考えられてきたという。女体神社の額に一宮とあるのはそのためだそうだ。筑波山も男神、女神をまつるが、氷川神社はご丁寧に子の神までもうけてあるのはおどろきだ。家族のつながりを示すものであろうか。
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