奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

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                                           (長野市松代町大室)

 大室古墳群は奇妙山の麓に積石塚古墳500基、次の五つの支群に分かれている。北山支群(22基)大室谷支群(241基)霞城支群(16基)北谷支群(208基)金井山支群(18基)。北山支群はいずれも盛り土墳で、ここに唯一の前方後円墳(18号墳、全長50㍍)は注目。古墳の多い大室谷支群一帯が史跡指定され、ここに大室古墳館も置かれている。
 積石塚古墳は『三国志』魏書高句麗伝に「積石為封」とあるように、高句麗の伝統的な墓制、韓国・ソウルの石村洞古墳群もその流れをくむ古墳群である。
 積石塚古墳の合掌形石室は板石、天井石を屋根状に組み合わせてつくる。大室谷に11基、北谷に6基、古墳群全体で26例確認されている。
 大室谷支群の241号墳は古墳館の下、裾部に築かれた合掌形石室の古墳。14㍍の円墳だった。6世紀前半の築造。古墳群初期のものだという。上に登るように、古墳は築かれていったらしい。
 韓国にも同じような古墳が明らかになっている。百済の故地・公州で5基。それが武寧王陵の近くである。その古墳の性格が忍ばれる。
 『続日本紀』によると、この地信濃には後部牛養、上部豊人という人の名があったという。後部や上部は高句麗の古い名前だそうだ。彼らは古代の馬の養育、生産にかかわっていたと考えられている。古墳群も彼らの墳墓ではないかと思われる。
*写真上は積石塚古墳群全景、下は241号墳合掌形石室のようす
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イメージ 1(長野県千曲市森)

 ふもとの科野の里歴史公園から登ってほぼ20分、ふうふう言いながら古墳にたどり着いた。
 墳頂部にごらんのように埴輪を並べた前方後円墳。全長は100㍍、4世紀の築造と推定されている。眼下に杏の里の田園風景がひろがる。ふもとの古墳館に石室の復元、出土品の展示がある。竪穴式石室は長さ8㍍、幅2㍍、深さ2.3㍍、日本でも最大クラスだという。内部はべんがらで赤く彩られ、神秘的だ。信濃国唯一の三角縁神獣鏡破片、ひすいの勾玉、埴輪が出土したが、一部盗掘にあっているようだ。因縁の三角縁神獣鏡がなぜここにあったのか、いまはなぞのままだ。
 小生にとって興味をひくのは古墳の裾から出土したという大甕である。直径1㍍、大阪府堺市で焼かれたものだという。どうやって運んできたのであろうか。堺市には日本最古の大庭寺窯址が知られている。5世紀になってからこの付近の丘陵に陶邑窯址群が築かれる。
 ここには日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵)をふくむ百舌鳥古墳群が築かれている。大山古墳は全長486㍍、その巨大さは言葉に表せない。仁徳天皇が被葬者だとする説をとなえる学者はいまは見当たらない。5〜6世紀の築造か。ここに大王を中心に大きな権力があったであろう事は推定できる。大甕はなんらかの意図をもってここでもって製造され、信濃国の首長に贈られたのではないか。信濃には古代の牧が知られている。馬を増やして大王に贈るように依頼したのではないかと考えられる。大甕も馬の背にのせられ信濃の山にたどりついたか。
 甕には呪力が宿るという。土地の境にすえて、魔の進入を防ぐという。また土地に埋めて安泰を願ったともいう。古墳造成の成功を、この大甕に祈ったのではないだろうか。はるばる難波の地から信濃国へ運ばれたこの大甕はなにをかたるのであろうか。
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イメージ 1 (静岡県田方郡函南町)


 JR東海道本線函南駅から3㌔ほど南に,国指定史跡「柏谷の百穴」がある。古墳時代、6〜8世紀まで、300基の横穴が築かれている。崩れないように調査後モルタルで堅めたという。ちょっと不自然である。
 調査によると、横口式石槨状プランを持つものや側壁に龕状堀込がみられ、仏教とのかかわりをうかがわせるものも見られるようだ。その一部の横穴から亀甲片が発見されている。被葬者に亀卜をなりわいとする占部集団がいたのではないかと推定されている。伊豆の占部は文献にもでてくる。
 旧伊豆長岡町の大北横穴群からは「若舎人」と刻まれた石櫃がみつかっている。
 常陸鹿島には占部集団がいたと常陸国風土記が記している。霞ヶ浦、旧玉造町には若舎人部広足という防人がいたと万葉集にある。
 伊豆半島のつけねにあたるこの函南に、ちょっと気をそそられてよってみた。あいにくの雨の中の遺跡巡りであった。


                                        
  (笠間市泉)

 桜の愛宕山を訪ねたのは30数年前だった。山頂から下界を眺めると常磐線の電車が箱庭を走るようで印象に残っている。
 久しぶりでのぼった天狗の山、愛宕神社の不思議に感じ入った次第である。
 案内によると、祭神は火之迦具土命、平城天皇大同元年(806)徳一大師によって開山創建されたと伝える。
 徳一という人は筑波山中禅寺(つくば市)西光院(石岡市)佐竹寺(常陸太田市)など常陸国内で多くの足跡を残し、会津・恵日寺で没したとされる。境内には徳一を顕彰する宝塔が残されている。ところが、徳一研究者によると、茨城県内関係寺院38あるそうだが、この愛宕神社はそれに含まれていない。それでも宝塔が建てられているのはどういうことか、今後の課題だ。
 その時代、神も仏も一緒にまつられていた。神仏習合の時代は江戸時代までつづく。そのころ、旧密蔵院が支配していたが、明治になって、愛宕神社が成立する。拝殿にはこわい天狗の面が参拝者をむかえる。
 本殿の背後、急な石段をのぼると飯綱神社、その後ろにご神体が入るという六角堂が鎮座する。手力男命を祀る飯綱神社、その霊が六角殿に入っているというのだ。
 岩倉の上にたつ六角殿、なんとも異様だ。江戸時代にはあったそうだが、いつ造られたか不明だそうだ。青銅製の菊のご紋の扉、六頭の象が屋根を支え、その上に鳳凰があたりを睥睨している。周囲をとりまく十三の天狗の石の祠、12月の悪態まつりには天狗に扮した住民がここを舞台に乱舞するという。
 この天狗については、幕末の国学者・平田篤胤が『仙境異聞』(岩波文庫)で紹介している。天狗の修行を治めた少年の聞き書きである。江戸・浅草まで飛んでいったなんてはなしもある、ドキュメントでもある。
 この飯綱神社が式内社・夷針神社だと主張していることだ。いはり、いしみとも読む。『新編常陸国誌』は愛宕山が本物だとするが、茨城町大戸にある神社がこちらが式内社だともいう。夷針がどんな神かも不明、いずれ探ってみようと思う。
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                                                         (宮城県気仙沼市唐桑)

 みさき神社と思っていたが、おさき神社であった。宮城県の唐桑半島先端に鎮座。地図で神社のマークがあったので、祠でもあるのかと軽い気持ちで、朝の散歩がてらでかけたら、とんでもない大きな社でおどろいた。それもそのはず、陸奥国桃生郡六座のひとつ、延喜式の名神大社、計仙麻大嶋神社であった。
 祭神は計仙大嶋神と御崎(尾崎)神の二神。この大嶋神は半島東にある児置島(神降石)に降臨した大海津見大神。尾崎神は、古記録によると、日向の外浦(宮崎県南郷町)鎮座の御崎神社を飫肥城主の後裔、出雲の守某が神慮により神璽をこの地に将来したのがはじまりという。花園天皇のとき、唐桑城主阿部休信がこの地に社殿を造ったというのである。
 明治になってヤマトタケルをまつり日高見神社としたが、昭和46年御崎神社と改称した。
 九州宮崎と陸奥宮城の縁は興味をひく。やっぱり、広大な海が関係するのであろうか。
 本殿背後に大きなタブノキが群生、神域を守っている。

 地震があると、この半島はぐわぐわと地鳴りがするそうだ。岩盤がすれる音だという。おどろかにように、宿の女性から忠告された。
 大震災からしばらくたつが、みなとまち気仙沼市には広い空き地が広がっていた。地盤かさ上げや高い岩壁が予定されているようだ。仮設住宅も目に付いた。早く復興集合住宅に移れればいいなと思う。

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