奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

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イメージ 1      (東京都八王子市)

 ふもとの鳥居をくぐり急坂をしばらく登っていくと社が見えてくる。雨間近のどんよりした午前、だれも登る人はいない。怖いくらいの山だ。かさかさ動くものがいる。熊かなとどきどきしたが、猿であった。やしろを守ったいるのであろうか。山頂の本丸跡(写真左)は標高460㍍、好天ならば眺望はすばらしいときく。
 天正18年(1590)六月、後北条氏照が支配する八王子城は前田利家、上杉景勝連合軍によって落城。ついで小田原城も落ちて豊臣秀吉の天下となる。
 この八王子城での戦いは壮絶なものがあったらしい。城に籠もる数百の兵士、前田・上杉の数万の戦闘、勝敗は目に見えていたようなもの。本丸跡近くの松木曲輪で防戦していたのが中山勘解由家範、その戦いぶりをみて前田利家は助命しようとしたという。それを聞き入れず、長男とともに自刃したという。その前、次男三男は脱出させている。氏照は当時、小田原城にいて後に自刃している。家範の墓は出身地の埼玉県飯能市、能仁寺にある。
 徳川家康は勘解由家範の戦いぶりを聞き、そのむすこ二人を捜索させ召し抱えるのである。中山照守、中山信吉である。
 照守は馬術の名手、その後の黒田直邦は上州沼田城や上総久留里城を治め、墓は飯能市の多峯主山にある。
 信吉は家康の信任厚く、幼い水戸藩主頼房を守り、初代水戸藩附家老として初期の水戸藩の基礎を固めたとされる。頼房の次の藩主、光圀を選んだというのも、信吉の慧眼を示すものといえようか。飯能市の智観寺に葬られている。信吉は高萩市あたりを所領していたことから、高萩市と飯能市は、現在友好都市として交流をつづけている。
                           ◇
 八王子城は天正15年(1587)ころ築造がはじまり、天正18年(1590)落城の短い命運をたどった山城であった。本丸跡よりも、むしろ城山川沿いの居館のあった御主殿跡あたりの様相が興味をひく(写真下)。庭園や各種建物跡などが調査によって少しずつ明らかになりつつあるようだ。現在調査中である。出土品の中でも、ベネチア製のレースガラス器など珍品があったそうだ。鎌倉幕府は中国貿易で莫大な財を蓄えたとも言う。シルクロードを通ってもたらされたものであろうか。
 侍たちが詰めたという曲輪跡、虎口、大手門や古道、落城の際婦女子の血で染まったという御主殿の滝など当時の面影をたどることもできる。国指定史跡、これからも注目していきたい。
 ちなみに、筆者は茨城県出身で飯能市在住である。  イメージ 2

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