奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

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                                                                   (千葉県成田市)
 
 上下70㌢、左右1〜1.5㍍、一枚300㌔、合わせて2.7㌧あるそうだ。成田市のニュウタウンにあった瓢塚古墳群、40号墳から出土した箱式石棺。古墳は20㍍弱の方墳。公津が原古墳群の一部、ニュウタウン開発前は120基の古墳があったそうだ。
 公津ヶ原古墳群の瓢塚古墳群は成田市西中学の近く、校門あたりをうろうろ、生徒がいたので古墳はどこかきいてみた。ハテナといった顔であった。すると、近くにいた男性先生がきて、あそこですと指さしてくれた。道をはさんで隣接しているのだが、大通りからお店があったのでみえなかった。住宅に囲まれ芝生の小山が目に入った。よく手入れされた古墳が4基ほど築かれている。3号墳は65㍍の前方後円墳、40号墳もこの近くにあったはずだ。このニュウタウンには、いくつかの古墳が公園のように、まちに溶け込むように保存されている。
 この石棺は筑波石、正確には絹雲母片岩というそうだ。下総台地の古墳はだいたいこの筑波石を利用、遠くは江戸川河口の市川市の古墳まで運ばれている。
 どうして筑波石が広範囲に使われたのか、まえから疑問におもっていたので、今回調べてみた。
 この地を拓いたのは印波国造、筑波には筑波国造、その間に茨城国造、この3氏は壬生氏であった。同族、親戚同士ともいっていい。それをつなぐのが霞ヶ浦、香取の海だ。
 公津が原古墳群は下総台地のへりにあった。すぐ下は香取の海、霞ヶ浦につながっていた。舟運が利用しやすかった。3氏のネットワークを利用して、下総台地の古墳造成業者に売り込みをかけたに違いない。この重たい石をどんな舟に積んで運んだか。霞ヶ浦の底にそんな舟が眠ってはいないか、故郷を訪ねるたび思うことだ。

                   *上の写真は千葉県立房総のむら風土記の丘資料館
                    ㊦いまでも筑波山麓には巨石がごろごろしたところがある

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