奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

古代遺跡

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                                                                                         (長野県下諏訪町大樋橋)
 
 尊皇攘夷を旗印に水戸藩を脱藩した天狗党、信州和田峠から下諏訪の宿への途中、諏訪高島藩と松本藩の連合軍に待ったをかけられ合戦となったのがこの地である。
 下諏訪町の教育委員会は次のような案内板をたてている。
 「史跡浪人塚」和田嶺砥石沢合戦跡。元和元年(1864)11月20日、水戸浪士一行千余人、勤王の志をとげようと和田峠を越えてきた、それを高島松本藩が防いだ激戦の地跡で塚に討ち死にした浪士を葬り桜を植えて墓碑が建てられている。
 浪人ということばから寒々しい感じを抱いたものだが、この地を訪ねて感動した。国道142号と旧中山道が交差する山陰にひっそりたたずむ石碑は古びているが、周囲の緑はきれいに手入れされていた。碑面には6名の名がしるされている。横田巳之助、岡本久次郎、不動院全海、鈴木富之介、鈴木金藏、大久保茂兵衛の6名だ。文字は骨太で雄大、彫りも深く、こころに訴える墨痕だ。裏には元和元年甲子十一月二十日討死、とある。
 討ち死にしたものは、この6名ばかりではない。十数名いたという。名前のわかったものだけしるされたようだ。斬り合いの後、よくも名前が残ったものだなともおもう。天狗党はいくさが終えると、すぐ下諏訪の宿へのりこむ。次の日、京へ向かって出立つしている。いくさの犠牲者は、数日後地元の高島藩が検分の後、葬ったらしい。
 この合戦は天狗党の勝利におわった。意気込みの差がでたのかもしれない。地元高島藩は天狗党が迫ってきているという知らせを受けても、穏便にやり過ごそうとしたらしい。水戸同様に国学がさかんな土地柄、天狗党に同情者が多かったという。ところが幕府の方から阻止しろというお達しで、泣く泣く出兵させられたという。はじめから勢いが違っていた。地元軍は天狗党に追い込まれ、のちのちまでその惨めさは語り物であったという。
 天狗党の旅は元和元年3月27日筑波山挙兵にはじまり、常陸国北部での転戦、11月1日久慈郡大子町から徳川慶喜へ尊皇攘夷を訴えるため京都へ向かったものである。その20日が和田嶺合戦となる。その後、信濃路、美濃路をへて、12月11日力尽き金沢藩に投降、次の年2月4日福井・敦賀にて武田耕雲齋ら幹部350余名が処刑された。天狗党の死出の旅はここで終焉をむかえたが、水戸藩の陰惨な抗争はさらに数年つづいた。
 
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                                                                                      (比企郡鳩山町赤沼)
 
 緑の里山、田んぼが広がるのどかな田園、それが現在の鳩山町だ。
 県指定史跡石田国分寺瓦窯跡にある案内板には次のように書いてある。
「鳩山町は東日本有数の古代窯業地です。7世紀後半から10世紀前半にかけて大量の須恵器(陶器の母体)が焼かれ、その製品は武蔵国やその周辺に流通しました。また須恵器とともに瓦も焼かれました。とくに白鳳期(7世紀後半〜8世紀初頭)と国分寺建立期(8世紀中頃)の2時期には大量の瓦が焼かれました」
 石田瓦窯跡で大量の瓦が焼かれたというのだが、その窯跡は現在は見ることは出来ない。隣接するその前の時代の赤沼古代窯跡は保存施設でおおわれて、中をのぞくことができる。その周辺ではまだ発掘がつづけられ調査中だ。
 赤沼瓦窯跡は昭和25年に調査され、後に県指定史跡となっている。当時はここで国分寺の瓦を焼いていたと思われていたが、出土品が白鳳期のものであった。瓦と須恵器を一度に焼いたという。軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦など、勝呂廃寺(坂戸市)小用廃寺(鳩山町)で使われている。
 その後の石田瓦窯跡は埋め戻されて確認することはできないが、平成5年の調査によると、須恵器窯、工房跡、土坑、地下式窯などが明らかになっている。この窯跡はロストル式平窯といって、当時は最新のもののようだ。三重県伊賀市の御墓山窯跡が同じような形式であったという。このことから、この地方の陶工が関東に技術を伝えたのではないかと考えられている。円面硯、陶製仏殿、須恵器、甕、などなどさまざまなものが出土している。
 鳩山地方の窯跡群が拡大発展していく基礎がここでつくられたらしい。その後、鳩山町内だけで60の窯跡、比企郡内で250基の窯が活動していたらしい。須恵器、瓦の一大コンビナートともいえそうだ。子玉(児玉)男(男衾)高(高麗)など刻印がみつかっており、注文によって生産していたらしい。
 鳩山町から東京・国分寺、およそ40㌔。重たい瓦をどうやって運んだのであろうか、気になるところだ。専門家によると、運んだあとが後の鎌倉街道だという。古墳を造るとき利用された修羅みたいなものを馬や牛に引かせたか。人が10枚位を背にして歩いて運んだか。
 舟運はどうだろうか。越辺川、入間川、荒川、多摩川とつないでいくと、距離的には長くなるが利便性、効率がいいように思えるのだが。当時は意外に舟が重要に活用されていた。例えば、埼玉古墳群では古墳の材料に房州石を使っている。舟をつかって運んだことに違いないのである。三重県あたりから来た陶工はどうやって鳩山に来たのであろうか、これも気になるところだ。
 笛吹峠の南に「須江」という地名がある。須恵器の須恵がかわったものであろう。地名が歴史の象徴としていまに伝えられているということに感動をおぼえた小さな旅であった。
 
 
*写真の施設の中に赤沼瓦窯跡が保存されている。その向こう側に石田瓦窯跡がつらなって築かれている
 
 
 「若舎人」を称するひとが霞ヶ浦周辺以外にいたのであろうか。
 最近の木簡データベースによると、伊豆半島西側の駿河国にいたことがわかった。駿河郡柏原郷に若舎人部伊加麻呂、若舎人部人麻呂、この二人が荒堅魚を調、つまり税としてかつおの生干し状のものを都(奈良)へ送ったという木簡が出土している。二人の住んでいたのは田子の浦あたりではないかという。
 常陸と駿河の若舎人と卜部や鹿島、人物や地名がどうつながっているのか、交流があったのかどうか、まだわからないことばかりだが、それは海が解決してくれるのではないかと思う。
 若舎人部広足作として万葉集にもう一句掲載されている。
 
  難波津に御船下すゑ八十楫貫き今はこぎぬと妹に告げこそ
 
 防人として、難波(大阪)から九州へまさに向かおうとしている時の様子を描いたものであろう。切迫した状況が目にみえるようだ。
『姓氏家系大辞典』(太田亮著)によると、  若舎人部広足の出自を「百済国の人、利加志豊王の後なり」としている。
 後の常陸国国府は霞ヶ浦の奥、石岡市におかれる。初代の国司は百済王遠宝、そののち、百済王敬福など百済系のひとびとが国司に任じられている。石岡周辺に「百済」という地名まである。広足が百済系のひとであった可能性は大きいのではないかと思う。
 行方市(旧玉造町沖洲)の三昧塚古墳は霞ヶ浦の渚に接するように築かれている。昭和31年(1956)調査された。全長85メートルの前方後円墳である。6世紀初頭の築造だろうという。そのとき出土した馬型飾りのついた金銅冠は常陸国の古代史に大きな衝撃をあたえた。(写真下)冠は前に蝶ネクタイ状の飾り、左右に浮き彫りをほどこした山形の頂に8頭の馬型、樹状飾りがあしらわれ、全体にきらびやかな歩揺がついていた。騎馬民族を象徴するような馬、樹木信仰、歩揺は、遠く草原を駆けたスキタイや匈奴などの文化を伝えるものだと言われている。朝鮮半島イメージ 1の新羅や百済の文化と共通するものでもある。このような金銅冠がなぜ霞ヶ浦のほとりから現れたのか。それは若舎人部広足が教えてくれるものだと考えている。
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 ずいぶん昔の話だが、水戸に住んでいた頃、霞ヶ浦のほとりに万葉歌碑が建てられたということを聞き、訪ねていったことがある。旧玉造町(茨城県行方市)の郷土史愛好会の人たちが出資したようだ。それは、次のようなうたである。(写真上)
 
  防人に発たむさわきに家の妹が業るべき事を言わず来ぬかも
 
 常陸国茨城郡出身の若舎人部広足のうただとされている。現在の旧玉造町の生まれだというのだ。このあたり、中世になると行方郡若舎人郷といったという。なまって、わかつねとも表現された。中世文書には、若舎人宗重正という名前もみえる。
 
 しばらくして、伊豆長岡市(現伊豆の国市)の大北横穴から「若舎人」と漢字が刻まれた石櫃が見つかったと報じられた。(写真右)昭和53年7月のことだ。その11月、見学にいった。霞ヶ浦と伊豆半島、なにか関係があるのかな、といった疑問からだ。
 この「若舎人」については、地元の歴史家・原秀三郎氏の論考が示唆に富んでいる。
 天皇に近侍するのが大舎人、皇子などに近侍するのは若舎人と称していたという。都で勤めを終えて帰郷、いつしか名称化されたのではないか。舎人の制度が5世紀から7世紀にかけて組織化されていった。『続日本紀』には、日下部直益人を伊豆国造に任じたとある。「国造本紀」では、物部、中臣連などに関係する氏族ではないか。(『地域と王権の古代史学』)
 物部や中臣は常陸国にもかかわりの深い氏族だ。
 伊豆の国市には国史跡の大北横穴群、大師山横穴群など6カ所の横穴群が知られている。そこから25の火葬骨を埋納した石櫃が出土している。
 大北横穴群から東に4㌔ほど離れたところに柏谷百穴(田方郡函南町)がある。ここからは亀甲片が出土している。
「この横穴の被葬者が亀卜を業とする占部集団に属する人であったと推定できる。『三代実録』には伊豆国出身の卜部平麿が神祇官の卜部となったのは、幼少のときから「亀卜之道」を習得してたからだという記載があり、また『延喜式』や『令集解』にも、伊豆の占(卜)部がみえる」(辰巳和弘著『日本の古代遺跡1静岡』)
 そして、常陸国の鹿島にも卜部がいた。『常陸国風土記』香島郡の記述に、天の大神、すなわち鹿島神宮の周辺には卜氏、卜部がおおく住んでいたという。彼らがこの神宮を支えていたのではないか。というのも、卜占は大事な神事として、近年まで伝えられてきたからだ。物忌みの娘の選定も、卜占できめたという。2匹の亀を用意、おのおのに娘の名をしるす。それを焼いて名前の のこったものを物忌みとしたという。鹿島神宮宝物館には卜占につかった亀の甲が展示してある。(写真下)
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     (東京大学総合
    研究博物館)
 
 
 火星人が霞ヶ浦に飛来か〜。三角頭のこの土偶はそんな雰囲気をただよわせている。緊迫感はない。おちょぼぐちの表情はユーモラスでもある。友好的な宇宙人か。だいぶ昔、星形の宇宙人が地球を襲った映画があった。ゴジラが世の中をかき回した時代だ。いろんなことを連想させる土偶である。(茨城県稲敷市、福田遺跡、写真左上)
 右の土偶は、いわゆるミミズク型土偶と呼ばれるものだ。まるで、縄文時代のキティーちゃんではないか。丸い目、口もと、人気アニメにでてきそうだ。ほんと、かわいいね。(同遺跡)このような土偶をだれがつくっていたか、それが知りたいね。一説では女性が主に制作していたという。あそこなら貝がいっぱいとれるよとか、井戸端会議をしながら、ほらこんなもんできたよとか、その情景をおもってみるだけでも楽しいね。
 注口土器はなんともモダンな、それでいてすっきりしたデザインだ。これが2000年前のイメージ 3ものとは思えない。民芸品なら高値がつく優品だ。いや、マーケットでは値がつかないかもしれない。(同、写真左)
 双口土器は上部、下部が切断されているようで、全容は想像するしかない。縄文文様、土器独特の曲線があくまで力つよく、われわれに迫ってくる。美浦村・陸平遺跡のシンボルだ。(茨城県美浦村、陸平遺跡、写真下)
 いずれの土器も、縄文時代後期の霞ヶ浦周イメージ 4辺の遺跡から出土したものである。
 
 陸平(おかだいら)遺跡は、東京・大森貝塚を調査したES・モースの弟子、東大学生の佐々木忠二郎、飯島魁によって1879(明治12)年、国内でははじめて学術調査された遺跡だ。美浦村の霞ヶ浦湖畔の台地に、8000年から2500年前の住居や貝塚があきらかになっている。縄文人のふるさとといっていい。最近整備もすすみ、文化財センターもできて出土品を見学できるようになった。1998(平成10)年、国指定史跡。
 福田貝塚は稲敷市福田にある。案内板などはない。ここからはすばらしい土偶や土器がでていることはわかっているが、地元ではあまりわかっていない。やみで流通しているのか。県外に分散してしまっているからだ。ここの福田古墳群はむかしから知られていた。台地のへりに30㍍ほどの小型前方後円墳、円墳が藪のなかに点在する。南には水田がひろがり、利根川をこえると下総の台地だ。ここも古墳や玉造遺跡が集積するところ。
 稲敷市椎塚にある椎塚貝塚も、東大グループが先鞭をつけている。この博物館にも加曾利式土器が展示してあった。
 
 近くまできたついでに寄った東京大学総合研究博物館(東京都文京区本郷)、ふるさとの遺物に会えて感動ひとしお、同時に複雑な心境でもあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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