奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

古寺/古社

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 伊豆長岡温泉近くの茨城神社。伊豆箱根鉄道の原木で降りて歩いて20分、現在は荒木神社だ。伊豆国田方郡の式内社、天津日子根命をまつる。和名抄によると、この地は茨城郷といったという。いばらき、ばらき、あらきと変化したか。境内には巨木がそびえ、古社の雰囲気だ。
 このあたり、初めて訪ねたのは1978年、近くの大北横穴群から「若舎人」と刻まれた石櫃が発見されたという報道を読んだからだ。
 常陸国(茨城県)にも防人・若舎人部広足がいて、万葉集に次の二首残していた。
難波津に御船下すゑ八十楫貫きぬ今はこぎぬと妹に告げこそ
防人に発たむさわきに家の妹が業るべき事を言わず来ぬかも
 原典はすべて漢字である。当時、それだけでも、地域のエリートであったか。
 舎人とは天皇につかえた役職、若舎人とは皇子につかえたものだったという。
 太田亮『姓氏家系大辞典』によると、若舎人部広足は「百済国人和加志豊王の後」とある。『大日本人名辞書』によると、「利加志豊王」とある。和か利か、出典がわからず確認とれず。
 さらに、奈良の都で発見された木簡に「若舎人部伊加麻呂」「若舎人部人麻呂」とあった。伊豆半島のつけね、駿河国から税として荒堅魚をおくったものに付けられていたという。荒堅魚とは半生のかつおのことだ。都ではたいへん好まれたようだ。
 駿河国、伊豆国、常陸国、いずれも海につながっている。なにか交流があったのであろうか。興味をそそることである。 
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                                    (山形県鶴岡市)

 つれあいの希望につきあい、出羽三山ツアー1泊2日に7月はじめに行ってきました。
 まず訪ねたのが湯殿山神社。巨大な鳥居(約15M)をくぐり、本殿へ。入り口ではだしになり、神官にお祓いしてもらいご神体を参拝。5Mほどかな、釣り鐘形のご神体からは湯気がたちのぼっている。背後に回ると温泉が足にここちいい。足湯できよめて終了。ここで見聞したことは言ってはならぬ、カメラも御法度のこと。冬には10Mもの積雪、ちなみにここは標高1504Mだそうだ。
 次の日はまず月山。8合目の弥陀ヶ原、ここに中の宮がある。主峰は1984M,ここ8合目は1400M、天空の湿原として、高山植物が楽しめる。ここを散策、雲海の向こうにまだらに雪をのせた鳥海山が浮かんでいた。奥の細道の芭蕉もここまで登って来たようだ。
 月山をおりて、羽黒山へ。はじめに五重塔。高さ30M,三間五層素木造り、南北朝の頃、文中年間(1372頃)庄内の領主武藤政氏の再建と伝える。杉木立のなかに白木の姿が気持ちをいやしてくれるようだ。
 さらに上の羽黒山三神合祭殿のなかで、神官の導きによって参拝。この建物はすごく立派なものだ。高さ28M、茅の厚さ2M、国内最大、重要文化財。ここを参れば、三山めぐったことになるそうだ。神様をおがんだのか、仏様を拝したのか、ちょっとまよう、神仏習合の名残をとどめた本殿でもある。(写真㊤)
 40数年前、冬の鶴岡を訪ねたとき、雪の五重塔を拝観した。いずれのときにか、月山の塔と思い込んでいた愚かな自分がいた。今回その訂正をふくめ、初夏の山形をほんのわずかながら楽しめる旅になった。イメージ 2
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(さいたま市緑区二丁目)
 女体というなまめかしい名前に引き寄せられて訪ねた。祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめ)である。このあたり見沼に縁のある神様で、祭がおもしろそうだ。
 江戸時代は御船祭として隔年9月8日、神社からみこしを船で「四本竹」の地、見沼の中程へいって御神酒をささげたという。どういう船であったか、御座船をあつらえたか、どう飾ったか、興味をひく。つい先日、鹿島神宮のお船祭りを目にしただけに想像は一層つのる。この見沼は江戸中期に埋め立てられ、田んぼに変身した、見沼田んぼだ。祭礼ができなくなると、神社のふもとに用水をひき、中央に柄鏡式というか、前方後円墳形に神事するところを設け磐船祭として再開したそうだ。享保14年(1729)のことだ。現在は祭祀遺跡公園(写真下)として、市民のいこいの場になっている。
 祭礼は現在、5月4日に竜神祭として、竜神の張りぼてに近くの女性が巫女役で神楽を奏し祭神をなぐさめるという。竜神は奇稲田姫命のおつかいであったかな。伝統の祭で、大事に伝えていってほしい。

                         ※

 氷川神社(須佐之男命)氷川女体神社(奇稲田姫命)、その中間に位置する中山神社(氷川両神の子、簸王子をまつる)、この三社を一体と考えられてきたという。女体神社の額に一宮とあるのはそのためだそうだ。筑波山も男神、女神をまつるが、氷川神社はご丁寧に子の神までもうけてあるのはおどろきだ。家族のつながりを示すものであろうか。イメージ 2
  (笠間市泉)

 桜の愛宕山を訪ねたのは30数年前だった。山頂から下界を眺めると常磐線の電車が箱庭を走るようで印象に残っている。
 久しぶりでのぼった天狗の山、愛宕神社の不思議に感じ入った次第である。
 案内によると、祭神は火之迦具土命、平城天皇大同元年(806)徳一大師によって開山創建されたと伝える。
 徳一という人は筑波山中禅寺(つくば市)西光院(石岡市)佐竹寺(常陸太田市)など常陸国内で多くの足跡を残し、会津・恵日寺で没したとされる。境内には徳一を顕彰する宝塔が残されている。ところが、徳一研究者によると、茨城県内関係寺院38あるそうだが、この愛宕神社はそれに含まれていない。それでも宝塔が建てられているのはどういうことか、今後の課題だ。
 その時代、神も仏も一緒にまつられていた。神仏習合の時代は江戸時代までつづく。そのころ、旧密蔵院が支配していたが、明治になって、愛宕神社が成立する。拝殿にはこわい天狗の面が参拝者をむかえる。
 本殿の背後、急な石段をのぼると飯綱神社、その後ろにご神体が入るという六角堂が鎮座する。手力男命を祀る飯綱神社、その霊が六角殿に入っているというのだ。
 岩倉の上にたつ六角殿、なんとも異様だ。江戸時代にはあったそうだが、いつ造られたか不明だそうだ。青銅製の菊のご紋の扉、六頭の象が屋根を支え、その上に鳳凰があたりを睥睨している。周囲をとりまく十三の天狗の石の祠、12月の悪態まつりには天狗に扮した住民がここを舞台に乱舞するという。
 この天狗については、幕末の国学者・平田篤胤が『仙境異聞』(岩波文庫)で紹介している。天狗の修行を治めた少年の聞き書きである。江戸・浅草まで飛んでいったなんてはなしもある、ドキュメントでもある。
 この飯綱神社が式内社・夷針神社だと主張していることだ。いはり、いしみとも読む。『新編常陸国誌』は愛宕山が本物だとするが、茨城町大戸にある神社がこちらが式内社だともいう。夷針がどんな神かも不明、いずれ探ってみようと思う。
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                                                         (宮城県気仙沼市唐桑)

 みさき神社と思っていたが、おさき神社であった。宮城県の唐桑半島先端に鎮座。地図で神社のマークがあったので、祠でもあるのかと軽い気持ちで、朝の散歩がてらでかけたら、とんでもない大きな社でおどろいた。それもそのはず、陸奥国桃生郡六座のひとつ、延喜式の名神大社、計仙麻大嶋神社であった。
 祭神は計仙大嶋神と御崎(尾崎)神の二神。この大嶋神は半島東にある児置島(神降石)に降臨した大海津見大神。尾崎神は、古記録によると、日向の外浦(宮崎県南郷町)鎮座の御崎神社を飫肥城主の後裔、出雲の守某が神慮により神璽をこの地に将来したのがはじまりという。花園天皇のとき、唐桑城主阿部休信がこの地に社殿を造ったというのである。
 明治になってヤマトタケルをまつり日高見神社としたが、昭和46年御崎神社と改称した。
 九州宮崎と陸奥宮城の縁は興味をひく。やっぱり、広大な海が関係するのであろうか。
 本殿背後に大きなタブノキが群生、神域を守っている。

 地震があると、この半島はぐわぐわと地鳴りがするそうだ。岩盤がすれる音だという。おどろかにように、宿の女性から忠告された。
 大震災からしばらくたつが、みなとまち気仙沼市には広い空き地が広がっていた。地盤かさ上げや高い岩壁が予定されているようだ。仮設住宅も目に付いた。早く復興集合住宅に移れればいいなと思う。

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