奥武蔵 古代史ノート

武蔵国や常陸国・霞ヶ浦周辺の古墳や史蹟めぐり

古墳

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                              (甲府市中道町)

 ほぼ10年ぶりか、墳頂に立つと、八ヶ岳から南アルプス、まだ雪をいただく山々がぐるり展望できる。
 全長169㍍の前方後円墳、三段築成、竪穴式石室を持ち、4世紀後半に築造されたようだ。鏡5面、石釧、勾玉、鉄剣、鉄鏃など多彩な出土品。
 隣接する丸山塚古墳は直径72㍍の大円墳、高さ11㍍、二段築成、5世紀はじめのもの。鏡や武器が出土した。
 この二ツの古墳は山梨県考古博物館のシンボルである。
 今回注目したいのは、この古墳の背後の山、曽根丘陵だ。
 中腹にある大丸山古墳は前期の前方後円墳、鍋弦塚、方形周溝墓群など遺跡の宝庫と言っていい。次回訪ねてみたいものだ。

湯村山ふもとの2古墳

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加牟那塚古墳
   (甲府市千塚3丁目)
 
 直径45㍍の円墳。金塚とも言われていた。周囲を河原石で保護されているが,環濠もあったらしい。南東に石室が開口、のぞくとかなりの巨石が使われている。奥行き17㍍ほど。5世紀末築造されたようだ。千塚とあるように、古墳群を形成していたらしいが、現在は周辺住宅がせまっている。

                                                万寿森古墳  (甲府市湯村3丁目)
 加牟那塚古墳から1㌔、湯村山のふもとに築かれている。直径25㍍の円墳。高さ7㍍、南に開口する石室は奥行き13㍍。案内板には6世紀中頃の築造ではないかとある。
  
 この2基の古墳も大切だが、湯村山の古墳も注目したい。この中腹には積石塚古墳が確認されている。小雨降る朝、登ってみた。しばらく歩くと看板があった。「熊出没中」とあった。うへ、、、いそいで下山。
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山王塚古墳再訪

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                                      (川越市大東地区)
 ほぼ10年ぶりかな、山王塚古墳。当時は畑の中だったが、今や大型店や住宅で囲まれて、町の中だ。この間、いくどかの周辺調査で注目を集め、川越市博物館で特別展が開かれた。
 上円部直径37㍍、下方部一変70㍍、周溝をめぐらしていた。レーダー探査によると、14㍍の横穴式石室があったという。7世紀中頃の築造と推定されている。
 調査によって、フラスコ形須恵器などが出土している。
 石室が明らかになっていないので、被葬者の解明はまだ先のことになりそうだ。入間川の水運や武蔵国内の交通が、古墳の位置にどのようにかかわっているか、興味をひく。

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                                          (茨城県ひたちなか市)
  
 久しぶり茨城の海、大洗海岸から北茨城へ車を走らせていたところ、阿字ヶ浦海岸を右に、酒列磯前神社を過ぎてすぐ、川子塚(かごつか)古墳が目にとびこんできた。
 前方部を海に向けた前方後円墳、かなり形はくずれてしまっているが、どことなく古墳時代の雰囲気が漂ってくる。全長85㍍、後円部径四〇㍍、前方部幅40㍍、高さは八㍍。。均整の整った墳型である。内部は未調査だが、葺き石や埴輪が確認されていて、5世紀後半の築造と推定されている。
 すぐ近くに酒列磯前神社の森、海岸線にそって三つ塚古墳群が分布していた。この古墳群は主に円墳、川子塚古墳はその盟主であったか。
 大洗町の海を望める高台に大円墳径95㍍の車塚古墳、4世紀の築造。隣接するように築かれた日下ケ塚古墳(常陸鏡塚)は前方後円墳、全長105㍍。車塚と同時代か。那珂川をすこしのぼると虎塚古墳がひかえている。古代常陸国枢要の地にある川子塚古墳である。
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                                                                   (千葉県成田市)
 
 上下70㌢、左右1〜1.5㍍、一枚300㌔、合わせて2.7㌧あるそうだ。成田市のニュウタウンにあった瓢塚古墳群、40号墳から出土した箱式石棺。古墳は20㍍弱の方墳。公津が原古墳群の一部、ニュウタウン開発前は120基の古墳があったそうだ。
 公津ヶ原古墳群の瓢塚古墳群は成田市西中学の近く、校門あたりをうろうろ、生徒がいたので古墳はどこかきいてみた。ハテナといった顔であった。すると、近くにいた男性先生がきて、あそこですと指さしてくれた。道をはさんで隣接しているのだが、大通りからお店があったのでみえなかった。住宅に囲まれ芝生の小山が目に入った。よく手入れされた古墳が4基ほど築かれている。3号墳は65㍍の前方後円墳、40号墳もこの近くにあったはずだ。このニュウタウンには、いくつかの古墳が公園のように、まちに溶け込むように保存されている。
 この石棺は筑波石、正確には絹雲母片岩というそうだ。下総台地の古墳はだいたいこの筑波石を利用、遠くは江戸川河口の市川市の古墳まで運ばれている。
 どうして筑波石が広範囲に使われたのか、まえから疑問におもっていたので、今回調べてみた。
 この地を拓いたのは印波国造、筑波には筑波国造、その間に茨城国造、この3氏は壬生氏であった。同族、親戚同士ともいっていい。それをつなぐのが霞ヶ浦、香取の海だ。
 公津が原古墳群は下総台地のへりにあった。すぐ下は香取の海、霞ヶ浦につながっていた。舟運が利用しやすかった。3氏のネットワークを利用して、下総台地の古墳造成業者に売り込みをかけたに違いない。この重たい石をどんな舟に積んで運んだか。霞ヶ浦の底にそんな舟が眠ってはいないか、故郷を訪ねるたび思うことだ。

                   *上の写真は千葉県立房総のむら風土記の丘資料館
                    ㊦いまでも筑波山麓には巨石がごろごろしたところがある

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