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(埼玉県行田市)
さきたま古墳群の鉄砲山古墳が調査され、出土品が史跡の博物館で展示されていると報道され、見学にいってきた。同古墳は全長109メートルのッ前方後円墳で6世紀後半に築造されたものと推定されている。
写真中央、古墳くびれあたりに調査のあとがうかがえる。埴輪片や甕が見つかったらしい。石室まえの前庭部からでた径50㌢ほどの甕が興味をひく。葬送儀礼で使われたもののようだ。調査した駒澤大の酒井清治教授は次のようにのべている。
「大阪の陶邑古窯群で焼かれたもの。大きなわりに肉厚が7㍉と薄い、陸路で運ぶのは困難、海路で運んだのではないか。東海道沖から東京湾にはいり、荒川を遡り運ばれたものではないか」
荒川というより利根川ではないか。当時は利根川は東京湾にそそいでいた。江戸時代初期に現在のように銚子で太平洋に流れを変えた。荒川も利根川も近世に江戸の洪水対策でなんども河川改修をくりかえしできた。
しかし、関西から関東まで、海路はるばる鉄砲山古墳まで運ばれた甕、なぜだとともに感動をおぼえる。
さきたま古墳群の北を流れる利根川、その北には毛国が控えていた。保渡田
大和と武蔵、信濃の関係を解き明かしてみたいものだ。
※ 石室まえの前庭部で粉々に割られた状態で出土、復元された甕
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古墳
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三昧塚古墳出土の馬型飾りの付いた金銅冠
昨年、水戸市の茨城県立歴史館で特別展『三昧塚古墳とその時代』が開かれた。三昧塚古墳はわたしにとって古墳巡りの原点のようなもの。早速かけつけた。
ホールに置かれた石棺はおどろいた。かってに古墳に埋め戻されたものと思っていたからだ。明治大にあったとは。筑波石で、正確には接触変質粘板岩というそうだ。これを9枚使っている。縄かけ突起もめずらしい。筑波山のどこから運んだか。
昭和30年(1955)調査され、平成28年(2016)、60年たったわけだ。当時は全長85㍍、前方後円墳、馬型飾りの付いた金銅冠を出土したことで大きな話題となった。6世紀初めの築造だろうとされていた。60年たってどうなったか、興味を持ってここへ来たのだった。
展示をみて、案内板から解説をみても、時代がみえない。三度ほど子細にみたがどこにも何世紀に造られたか触れていない。
入り口にいた歴史館の中年職員にたずねた。いつごろ造られたかどこに書いてありますか。
はじめうさんくさい顔をしていたが、6世紀初めの築造と5世紀後半の築造、この2説がありうやむやになっている、というような説明であった。
それなら2説説明すればいい。うやむやでは「時代」とならないではないか、とわたしは思った。
発掘した明大名誉教授・大塚初重氏は、図録のなかで5世紀後半説を次のように書いている。
馬型飾りの付いた金銅冠は熊本県江田船山古墳出土の大刀に彫られた銀象眼の馬と共通テーマ、馬の文化は遠くユーラシア大陸から朝鮮半島経由で伝えられたが、その馬に関する遺跡、考古学上の知見も増えて5世紀まで遡る例が認められる。短甲や冑も古市古墳群の出土例からも5世紀に遡ることも考えられる。
ちなみに、復元された三昧塚古墳(茨城県小美玉市沖洲)の案内板には5世紀後半の築造であろうと書かれている。
「時代」を語ることはむずかしいが、・・・展として表現する場合、うやむやではなく、わかる範囲で説明がほしいものである。
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(長野市松代町大室)
大室古墳群は奇妙山の麓に積石塚古墳500基、次の五つの支群に分かれている。北山支群(22基)大室谷支群(241基)霞城支群(16基)北谷支群(208基)金井山支群(18基)。北山支群はいずれも盛り土墳で、ここに唯一の前方後円墳(18号墳、全長50㍍)は注目。古墳の多い大室谷支群一帯が史跡指定され、ここに大室古墳館も置かれている。
積石塚古墳は『三国志』魏書高句麗伝に「積石為封」とあるように、高句麗の伝統的な墓制、韓国・ソウルの石村洞古墳群もその流れをくむ古墳群である。
積石塚古墳の合掌形石室は板石、天井石を屋根状に組み合わせてつくる。大室谷に11基、北谷に6基、古墳群全体で26例確認されている。
大室谷支群の241号墳は古墳館の下、裾部に築かれた合掌形石室の古墳。14㍍の円墳だった。6世紀前半の築造。古墳群初期のものだという。上に登るように、古墳は築かれていったらしい。
韓国にも同じような古墳が明らかになっている。百済の故地・公州で5基。それが武寧王陵の近くである。その古墳の性格が忍ばれる。
『続日本紀』によると、この地信濃には後部牛養、上部豊人という人の名があったという。後部や上部は高句麗の古い名前だそうだ。彼らは古代の馬の養育、生産にかかわっていたと考えられている。古墳群も彼らの墳墓ではないかと思われる。
*写真上は積石塚古墳群全景、下は241号墳合掌形石室のようす
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ふもとの科野の里歴史公園から登ってほぼ20分、ふうふう言いながら古墳にたどり着いた。
墳頂部にごらんのように埴輪を並べた前方後円墳。全長は100㍍、4世紀の築造と推定されている。眼下に杏の里の田園風景がひろがる。ふもとの古墳館に石室の復元、出土品の展示がある。竪穴式石室は長さ8㍍、幅2㍍、深さ2.3㍍、日本でも最大クラスだという。内部はべんがらで赤く彩られ、神秘的だ。信濃国唯一の三角縁神獣鏡破片、ひすいの勾玉、埴輪が出土したが、一部盗掘にあっているようだ。因縁の三角縁神獣鏡がなぜここにあったのか、いまはなぞのままだ。
小生にとって興味をひくのは古墳の裾から出土したという大甕である。直径1㍍、大阪府堺市で焼かれたものだという。どうやって運んできたのであろうか。堺市には日本最古の大庭寺窯址が知られている。5世紀になってからこの付近の丘陵に陶邑窯址群が築かれる。
ここには日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵)をふくむ百舌鳥古墳群が築かれている。大山古墳は全長486㍍、その巨大さは言葉に表せない。仁徳天皇が被葬者だとする説をとなえる学者はいまは見当たらない。5〜6世紀の築造か。ここに大王を中心に大きな権力があったであろう事は推定できる。大甕はなんらかの意図をもってここでもって製造され、信濃国の首長に贈られたのではないか。信濃には古代の牧が知られている。馬を増やして大王に贈るように依頼したのではないかと考えられる。大甕も馬の背にのせられ信濃の山にたどりついたか。
甕には呪力が宿るという。土地の境にすえて、魔の進入を防ぐという。また土地に埋めて安泰を願ったともいう。古墳造成の成功を、この大甕に祈ったのではないだろうか。はるばる難波の地から信濃国へ運ばれたこの大甕はなにをかたるのであろうか。
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JR東海道本線函南駅から3㌔ほど南に,国指定史跡「柏谷の百穴」がある。古墳時代、6〜8世紀まで、300基の横穴が築かれている。崩れないように調査後モルタルで堅めたという。ちょっと不自然である。
調査によると、横口式石槨状プランを持つものや側壁に龕状堀込がみられ、仏教とのかかわりをうかがわせるものも見られるようだ。その一部の横穴から亀甲片が発見されている。被葬者に亀卜をなりわいとする占部集団がいたのではないかと推定されている。伊豆の占部は文献にもでてくる。
旧伊豆長岡町の大北横穴群からは「若舎人」と刻まれた石櫃がみつかっている。
常陸鹿島には占部集団がいたと常陸国風土記が記している。霞ヶ浦、旧玉造町には若舎人部広足という防人がいたと万葉集にある。
伊豆半島のつけねにあたるこの函南に、ちょっと気をそそられてよってみた。あいにくの雨の中の遺跡巡りであった。
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