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(神戸市垂水区五色山)
神戸市のJR垂水駅から雨の中、西へ15分ほど住宅街を歩くと、ぱっと視界が開けて斜面にねそべる巨大な古墳があらわれた。後円部、前方部のへりにひれ付き朝顔形埴輪や円筒埴輪が据え付けられ、上部に葺き石できれいに化粧をほどこされている。後円部にのぼると、右手に巨大な明石海峡大橋、その先に淡路島がけぶって見えた。大橋のしたにはひっきりなしにタンカ
全長194㍍の前方後円墳、三段築造で、4世紀後半のものであろうと推定されている。後円部西側に寄り添うように、小壷古墳が築かれている。直径70㍍、高さ8.5㍍の円墳。きさきの墓であろうか、従者のものか。
『日本書紀』神功皇后の段に
播磨にいたりて山陵を赤石にたつ。よりて船をあみて淡路嶋にわたして、その嶋の石をはこびてつくるとある。
この古墳が五色塚古墳であるというのだ。上二段に貼られた黒い人頭大の石は、分析の結果、淡路島東海岸で産出するものであることが明らかになっている。
昭和40年代から10年かかりで復元工事にあたったそうだ。その際、主体部の石室、石棺の調査は控えたらしい。そのためくわしい年代や被葬者像はあきらかではない。だが、目の前の海峡、淡路島の葺き石、そして200㍍の古墳を築造できる人物像はかぎられる。それは、播磨の海の王者であろうか。
垂水駅から海側の森に古風なやしろが見えた。時間もあったので参拝することにした。海神社である。古名はあま神社、わたつみ神社またはたるみ神社、現在はかい神社でとおっているという。立派な式内社であった。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三柱。いずれも海に住む神々だ。
その神社の由来によると、神功皇后が三韓征伐をおえて帰還の折、嵐にあって綿津見三神を祭ったところ
五色塚古墳とは関係ないかもしれないが、「神功皇后」がいずれもからんでいるのはどうしてなのか。明石海峡が古代から、九州から大和へぬける重要な航路であり、海に生きる人々の信仰も厚いところ、古墳をつくった人々がそんな伝承をつたえてきたのであろうか。
*写真上は後円部から前方部をのぞむ、右手には明石大橋が望める、中は後円部、右は海神社、手前が海側
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古墳
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前方部すそから後円部をのぞむ、利仁神社の一部がみえる=将軍塚古墳
(埼玉県東松山市下野本)
東松山市には古墳があちこちに点在している。その中でも最大のものが将軍塚古墳である。国道407を北上、都幾川をわたって市街地にはいる手前を右折、5,600㍍いくと左手にみえる。全長115㍍、前方部高さ8㍍、後円部高さ13㍍、巨木が繁り、森をつくる。調査がまだなので、築造時期や被葬者など不明だ。ただいえることは、この比企地方の勇者であったことは間違いないであろう。
前方部に日露戦役忠魂碑、後円部に利仁神社は鎮座する。利仁というのは藤原利仁(ふじわらのとしひと)、平安時代の貴族で武将でもあったらしい。生没不詳だが、延喜11(911)年、上野介を皮切りに上総、武蔵など板東諸国の国司を歴任したという。この間、群盗討伐など功績をあげ、鎮守府将軍まで登りつめたという。古墳の背後の無量寿寺は「利仁山」を冠している。利仁将軍がこの地を領していたとかここに住んでいたのではないかとも言われている。この境内からは空堀や土塁のあとが確認されている。中世の館跡のようだ。こういう因縁から将軍塚古墳と呼ばれるようになったという。利仁将軍の墓ではないのは確かだろうが、こういう伝承がこの古墳を大切に守り伝えてきたことは大事なことだと思う。この地域の人々に感謝しなければならない。
明治時代、利仁神社改造の際、中世の経筒や短刀、鏡など出土している。昭和35(1960)埼玉県指定史跡になっている。
昼下がりであった。参道で古墳を観察していると、ひょつこり顔を見せたのは子狐だった。20メーターほど先、こちらを一瞥すると、鉄格子をするりとぬけて、後円部のやぶに消えていった。利仁将軍のお使いでもあろうか。
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保渡田八幡塚古墳から100メートルほど離れて、二子山古墳がある。これも前方後円墳で、全長108メートル、外堀を含めると212メートルにもなる。三段築造で、葺き石が貼られていたいたようだが、現在は青芝でおおわれ、八幡塚古墳とは対照的な優美なうつくしさを見せている。後円部の竪穴式石槨に舟形石棺が安置されていたという。
舟形石棺は九州や瀬戸内、畿内、北陸の豪族たちがよく利用したものだそうだ。ここのものは、高崎郊外でとれた凝灰岩製だそうだ。
八幡塚古墳も二子山古墳も盗掘にあい、主たる出土品はなかったが、ガラス玉や鉄製農具、金銅製馬具や須恵器などから、豪華な副葬品が想像されるという。
近くの谷ツ古墳(高崎市箕郷)調査がこの地域の性格、雰囲気を伝えているのではないかとおもう。未盗掘のこの古墳から金の靴(飾履)が発掘されているのである。一辺20メートルほどの積石塚古墳だそうだ。積石塚は国内では長野県に集中して分布、もとは朝鮮半島から伝わってきたという。ソウル近郊の石村洞古墳がしられている。百済草創の4世紀前後の古墳だ。
豪華な金の靴を履いたひとはだれか? この地を支配したのは上毛野氏とされる。有力氏族として朝鮮半島諸国と交渉をもったと文献にもある。この古墳群も同氏のものか、関係する人々のものではないかと思う。
金の靴は国内では20例ほどみつかっている。奈良・藤ノ木古墳、熊本・江田船山古墳など。関東では千葉県の金鈴塚古墳から出土している。
八幡塚古墳の北西に薬師塚古墳がある。全長105メートルの前方後円墳、墳頂に舟形石棺が飾られて、見学できる。西光寺という寺の境内である。5世紀後半から6世紀初頭にかけ、二子山、八幡塚、薬師塚の順に築造されたのではないかと、推測されている。
*優美な緑の曲線が古墳の雄大さやのびやかさを感じさせる =二子山古墳
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(群馬県高崎市井出町)
四隅に盾持ち人の埴輪がたてられ、外からの侵入者ににらみをきかせている。保渡田八幡塚古墳である。全長96メートル、外堀を含めると190メートルにもなる。前方部を南に向け丸い川原石を古墳全体に貼り付け三段築造、後円部に2カ所の埋葬施設が確認されている。円筒埴輪6000本、人物埴輪50体が要所に配され、墓域を守る。後円部地下に舟形石棺が安置され、公開されている。すべて、現代技術で復元されたものである。
それにしても、こういう建造物が古墳時代に存在したことは、やはり驚きである。このような技術があれば、2,3階の建物がすぐできそうである。当時は古墳建造のみに用立てられた。今考えるだけでも、もったいない。
夕日を浴びた古墳は、さながら古代の軍艦、死出の旅路をすすむかのようだ。
榛名の山並みを背に、復元された保渡田八幡塚古墳
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明治大学博物館は昨年(2010)10月から12月にかけ「王の埴輪ー玉里舟塚古墳の埴輪群」展を開催した。この舟塚古墳は、「茨城県史料 考古資料編古墳時代」によると、行方郡玉里村(現小見玉市)にある全長88メートルの前方後円墳とある。明治大学などにより、1965年から5次の調査がかさねられ、最終的には全長72メートルに訂正された。後円部の埋葬施設が筑波石で二重になった箱式石棺で注目された。石棺の一部が欠け、盗掘にあっていたが、造りだしの部分から後円部にかけ大量の埴輪が出土した。今回の特別展は、その埴輪に焦点をあてている。
馬型埴輪を復元したら、鞍の右側に両足をのせる板がついていた。西部劇で婦人が横座りで馬にのるシーンをおぼえている。そんな機能をもった鞍のようだ。この時代、女性も馬に乗ったしるしかもしれない。このような馬で、霞ケ浦湖畔を散歩したり、筑波山へ遠出したりした光景を思い浮かべると、なんだか楽しくなる。被葬者一族は騎馬を得意としたのであろう。
ここで思い起こすのは、旧玉造町沖洲の三昧塚古墳から出土した馬型飾りのついた金銅冠である。馬をシンボルとして冠にいただくなど、騎馬とともにいき、この地を拓いたあかしがこれではないかと思う。6世紀のいずれかに、このふたりの勇者は会っていたのではないか。
王冠をかぶった埴輪も出土している。舟塚古墳の被葬者を、この地の王と認めて、「王の埴輪」としたのではないか。この霞ケ浦の一地域に、王国があったとすればおもしろい。常世の国と称される常陸国、わがふるさとはユートピア。
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