石垣島西端の観音崎灯台近くに唐人墓があります・・・



唐人墓には中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
  1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(アモイ)
  港から米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途上、
  辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの
  暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
  船は、石垣島沖に座礁し、380人が島に上陸した。
  石垣の人々は、仮小屋を建て、彼らに住まいを提供した。
  しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島し、
  島に砲撃を加え、上陸してきびしい捜索を行った。

  中国人労働者は山中に逃亡したが、百名以上が銃殺され、
  逮捕され、自殺者、病没者が続出した。島民は深く同情し、
  密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう
  配慮した。そして事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、
  翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、
  生存者172人を福州に送還した。


これらの犠牲者の霊を慰めるために・・・

現地の人があちこちに墓を作り・・・

1971年にここに集められてこの墓がたてられました・・・

中国風の極彩色の装飾の陰に・・・

悲しい歴史がありました・・・

転載元転載元: ▼り▲ぶ▼ろ▲ぐ▼2011▲

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唐人墓

   
唐人墓
唐人墓(とうじんばか)は、沖縄県石垣市観音崎にある墓地咸豊2年(1852年)のロバート・バウン号事件で犠牲になった中国人苦力の慰霊のため、1971年昭和46年)に建立された。



中国人の死因

 咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの奴隷貿易船、ロバート・バウン号内で、400人の中国人を裸にし、辮髪を切り落とし、CやPの焼き鏝を胸に押し当て、売り物にならない病気持ちは海に突き落として鮫に喰わせたところ、奴隷にされたことを知った中国人は暴動を起こした[1]
 苦力は米国人船長と船員を殺して船を操縦したが、2月19日石垣島の崎枝村沖合で座礁し、380人の中国人苦力が上陸した[2]。事情を知らない八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設けた後、監視しやすい富崎に移して収容した。

 その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して逃走した苦力を射殺・捕縛して、白人に抵抗した見せしめにその場で百人近くを吊るし[3]3月23日に出航した。
 また、4月4日にはアメリカ船1隻が来航し、兵士100人以上が上陸・探索を行ない、4月12日に引上げた。捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されたが、収容所の衛生は悪く、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上った。これを弔った三百唐人墓とよばれる古い石積みの墓が近年まで付近に点在しており、陶製の墓碑八重山博物館に収蔵されている。

所在地

墓所内
沖縄県石垣市新川1625-9

交通アクセス

  • 石垣空港から路線バスで15分、「唐人墓」下車すぐ

周辺




【沖縄が危ない】石垣島に存在する「おもてなし」の歴史と中国の厚顔無恥 (1/2ページ)
2014.08.15
★(4)

 現在の困難な日中関係を考えるうえで、中国人にぜひ知ってもらいたい中国と石垣市の関わりがある。その1つが「唐人墓」と呼ばれる中国風の墓の存在だ。

 1852年、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人奴隷約400人を乗せた米国の奴隷貿易船、ロバート・バウン号が石垣島沖で座礁した。中国人らは虐待に耐えかねて船長らを殺害し、石垣島に逃げ込んだのだ。

 報告を受けた米・英国船が石垣島沖に現れ、兵士らが上陸し中国人を捜索した。中国人128人が兵士に殺害されたり、病死、自殺したりした。

 石垣島の人々は中国人を匿い、食糧を与えた。死亡者には墓を建立し、丁重に埋葬した。最終的に、生存者172人が琉球政府の船で福建省に護送された。

 中国風の豪華な建築物である唐人墓は128人の霊を慰めるため、石垣市が点在していた墓を集め、1972年に建立した。現在は観光名所になり、市民は「日中友好のシンボル」と呼ぶ。

 しかし、現在の中国政府から謝意が示されたことは一度もない。建立に協力したのは台湾関係者だ。

 もう1つ、エピソードがある。

 1919年、中国人31人を乗せ、福建省を出港した漁船が嵐で尖閣諸島・魚釣島に漂着した。当時、島にあったかつお節工場の労働者たちが中国人を救助し、石垣島に送った。石垣島の人たちも彼らを手厚く保護し、全員を帰国させた。


ロバート・バウン号事件とその歴史的意義

1事件の世界史的背景
   欧米資本主義列強の世界市場へくみ入れられる以前の東アジアには,近代的な「国際法」(万国公
法)にもとづくヨーロッパ世界の国際関係とは異なる特殊な国際関係が形成されていた。それは第
一に,清国と朝鮮・琉球・越南などの諸国との冊封・朝貢関係であり,第二に,幕藩制の日本(薩
摩藩)と琉球の支配・従属関係である。

 文化圏としての東アジア世界を形成する枠組みとなっていたといえる。換言すれば,琉球は清国を
中心とする国際秩序=冊封体制と幕藩制日本(薩摩藩)を−つに結びつける結節点,つまり東アジ
ア世界の「扇の要」(キーストン)としての位置を占めていたということになる。

 1840-42年のアヘン戦争は,東アジア世界の国際秩序に対するイギリス資本主義の挑戦であった。
清英南京条約につづく清仏黄浦条約,清米望厘条約の締結によって,東アジアの国際秩序は激しく
動揺せざるをえなかった。東アジア世界のキーストンとしての琉球へも,欧米資本主義列強の艦船
が陸続として押しよせ,修好・貿易・布教を要求しはじめた。
 琉球及びその他の東アジア諸国は,日ましに強まる欧米列強の圧力の前になす術を知
らず,ひたすら従来の冊封体制の国際秩序維持機能に頼らざるをえなかったが,宗主国としての清
国自体の威信低下にともなって,冊封体制の機能も麻庫しはじめたのである。

 資本主義の原料供給地,商品販売市場,あるいは労働力供給源として,アジア・アフリカ・中南
米に植民地を求めて進出してきた欧米列強は,1848年のカリフォルニア金鉱山の発見を契機に,さら
に大童の労働力をアジアに求め,とりわけ海外渡航禁止令を無視して清国から大量の苦力(クー
リー,中国人労働者)をアメリカその他へ向け「輸出」するにいたった。
 同年,フランスの二月革命直後,奴隷完全解放が決議されたことに象徴され
るように,黒人奴隷貿易の禁止,奴隷制度廃止の潮流は,世界の趨勢となりつつあったにもかかわ
らず,否,それ故にかえって,プランテーションに代表される資本主義企業は,黒人奴隷に代る労
働力を探し求めざるをえず,ここに紗いてインドや中国の苦力の存在がクローズアップされるにい
たったのである。

かくて,治外法権に守られた欧米人の手によって,中国沿岸の開港都市からアメリカ大陸やキュー
バ・西インド諸島へ向けて大量の苦力が送り出された。いわゆる「苦力貿易」の全面展開である。
「苦力貿易」は「もう一つの奴隷貿易」と称され,たように,誘拐同然の手法で駆り集められた苦力
たちは,「猪仔」(豚)として取り扱われ,悲惨な境遇に投げこまれた。

 第一と第二の「国際」関係は,琉球を媒介として−つに結びつけられ,共通の政治・経済(交易)。
19世紀の50年代,「苦力貿易」が最盛期を迎えたころには,琉球列島は中国沿岸の開港都市から目
的地のハワイやアメリカ大陸へ向う「苦力貿易」船の海上ルートに位置していた。多数の「苦力貿
易」船が頻繁に琉球近海を往来した。アメリカ船ロパート・パウン号(theRobertBowne)もその
なかの一隻である。

 1852年4月,琉球列島のなかの石垣島へ「漂着」したパウン号は,「苦力貿易」の実態を暴露するこ
とになったばかりでなく,琉球・日本(薩摩)・清国・アメリカ・イギリスを含む当時の東アジアに
おける国際関係の現実をも照射し,冊封体制がどの程度機能しえたかを示すテスト・ケースを提供
した。

 ロパート・パウン号事件については,関係国に次のような記録が残されている。

①「歴代宝案」第二集,巻192〜196
②「球陽j巻22
③「中山世譜」巻13
④「毛姓家譜」(上里家)・「馬姓家譜」(小録家)
(以上,いづれも「那覇市史」資料篇1の7所収)
⑤『八重山嶋江異国船来着唐人暎人等下卸置候付一巻帳」(『琉球評定所記録」1498)
⑥「八重山嶋江暎船より卸置候唐人等一件付渡海之御使者日記」(「琉球評定所記録」1499,1500)
⑦「篝弁夷務始末」威豊朝,巻七
⑧B,P・RCorespondenceRespectingEmi・grationFromChina,1852-1853,No.(1686)LXm
⑨TheAmericanDiplomatic&PublicPaper,TheUnitedStatesandChina,Seriesl,Vol、17.CoolieTradeTheChinaEmigration

ロパート・パウン号事件をとりあげた研究著書・論文には,次のようなものがある。
①可児弘明箸「近代中国の苦力と「猪花」」(岩波書店,1979)
②宮田俊彦『琉球・清国交易史』(第一書房,昭和59年)
③平和彦「アメリカ苦力貿易船ロパート・パウン号の八重山漂着事件」(『南島~その歴史と文化一」所収,昭和51年)
④陳哲雄「八重山「唐人墓」についての史的研究」(「南島史論」所収,1972年)
⑤P.C、Campbell,"ChineseCoolieEmigration,,(1923)
⑥RobertLIrick."Ch'ingPolicyTowardtheCoolieTradel847-1899',(ChineseMaterialsCenter,1982)
以上の諸資料・文献をふまえながら,ロパート・パウン号事件を当時の琉球・中国関係を含む東アジアの国際秩序のなかに位置づけ,その原因と経過,歴史的意義について再検討してみたい。


2事件の原因と経過
①1852年3月21日(威豊2年2月1日),アメリカの「苦力貿易船」ロパート・パウン号は,400余名
  の苦力を乗せて厘門を出航し,アメリカのカリフルニア(サンフランシスコ)へ向った。

②出航後まもなく、パウン号の船長や船員(イギリス人)たちは,苦力を裸にして固いブラシで身
  体をこすり冷水をかけ,弁髪を切断した外,病気で死にかかっていた苦力二人を海へ突き落したた
  め,苦力たちは遂に不満を爆発させ,船長・副船長ら5名を殺害,パウン号を奪取し,船員たちを
  強制して進路を台湾へ向けさせた。

③同年4月8日,パウン号は八重山群島石垣島の崎枝村沖合いで座礁したため,苦力380名,アメリ
  カ人一名が石垣島へ上陸,琉球の地方官たちに保護された。翌日,パウン号は離礁したが,船員た
  ちは石垣島へ上陸した苦力とアメリカ人を放置したまま,船中に留まっていた20余名の苦力のみを
  乗せて匝門へ引き返した。

④琉球の地方官たちは,とりあえず崎枝村に仮宿舎を急造して残留の苦力たちを収容したが,まも
  なく宮崎村近辺に新築した宿舎へ移動させ,衣食を提供した外,医者を呼びよせて病人を治療させ
  た。この間,二名の苦力が病没し,手厚く埋葬された。

⑤厘門へ帰還したパウン号から事件発生の通報をうけたアメリカ・イギリスの厘門駐在領事たちは,
  苦力捕縛のためにイギリス船二隻を石垣島へ派遣した。同年5月4日にコンテスト号(Contest)が,
  同年5月6日にはリリー号(Lily)が相ついで石垣島近海へ到来し,苦力たちの宿舎を威嚇砲撃した
    後,武装兵200余名を上陸させ,苦力捕獲作戦を展開した。上陸・捕獲作戦は−週間もの間,ほとん
  ど毎日続けられ,上陸した200余名のイギリス兵たちは苦力23名を捕獲し,アメリカ人一名を救出し
  た。
   この間に,苦力3名が銃殺され,2名は縊死し,14名は服従を申し出た。

⑥同年5月11日,イギリス船二隻が退去した後,山野に逃亡していた苦力たちは宿舎へもどり,琉
  球の地方官らの看護をうけたが,同年5月22日,またしても苦力捜捕のためにアメリカ船一隻〈サ
  ラトガ号)が石垣島近海へ到来した。翌日,太刀・槍・銃砲などで武装した100余名のアメリカ人たち
  は,上陸して山野を捜索し,苦力50名を捕獲,さらに同年5月28日にも同様の作戦を展開して苦力
  7名を捕獲し,翌日退去した。捕獲を免れた苦力たちは,再び宿舎へもどり,琉球の地方官らに介
  抱された。

⑦イギリス船リリー号で厘門へ連行された苦力21名のうち,18名は広州に送られたが,広州駐在の
  アメリカ代理公使パーカー(P,Parker)は,予備審査によって苦力の「海賊的行為」を有罪と認定
  し,同年6月14日,その旨を両広総督の徐広緒へ通知するとともに,清国側の正式裁判へ委ねるべ
  く18名の苦力を引き渡した。同年7月9日,徐広緒は18名の苦力のうち1名だけを有罪と認定し,
  他の17名に無罪を宣告して放免した旨,パーカーへ通知したが,パーカーは徐広繕の判決を不当と
  して納得せず,17名の苦力の取扱いをめぐって,パーカーと徐広緒の間に二か月にわたる交渉が続
  けられた。
   同年8月19日,パーカーはアメリカ国務長官ウェブスター(DanielWebster)へ書簡を
  送り,清国へ圧力を加えるためアメリカ海軍を急派すべしと主張したが,アメリカ政府のとりあげ
  るところとはならなかった。

⑧石垣島駐在の地方官吏から再三にわたって事件の報告をうけた琉球王府は,残留苦力を福州へ護
  送するために三隻の船を用意したが,アメリカ・イギリスとの間に事端を生ずることを恐れて暫く
  護送計画の実行を中止し,とりあえず清国側への事件報告と苦力護送についての指示を仰ぐために,
  同年11月11日,請諭使として馬克承らを福州へ派遣した。
   翌年(1853年)の5月26日,福州琉球館在住の鄭維新(池宮城里之子親雲上)が福建当局
  の杏文を持参して福州を出発,同年6月23日那覇へ到着した。

⑨福建当局から琉球へ送られた杏文の内容は,「わが方(清国側)から厘門駐在のアメリカ・イギリ
  ス領事らに照会したところ,『すでに捕獲・連行されてきた苦力のうち,ある者は裁判にかけられ,
  ある者は無罪放免され,事件はすでに決着済みであるから,いまなお石垣島に残留している苦力の
  罪は不問に付す』との返答を寄せてきたので,アメリカ・イギリスに遠慮することなく,すみやか
  に福州へ護送するように」との趣旨であった。
   かくて,琉球王府は毛成憲(上里親雲上)らに苦力護送の任務を与え,護送船二隻を石垣島へ向わせた。

⑩1853年10月30日,毛成憲らは石垣島へ到着,翌日,一年七か月にわたって石垣島に滞留していた
  172名の苦力を海船二隻に分乗させて石垣島を出航,福州へ向った。同年11月6日,苦力護送船は
  断江省定海県の沖合いで,突然,海賊船八隻の襲撃を受け,武器・銀両・貨物をすべて掠奪される
  などのハプニングに遭遇したが,11月8日,ようやく福州へ到着した。毛成憲らは11月14日,福州
  海防官へ苦力を送り届け,ひとまずその任務を果した。かくて,ロパート・パウン号事件は,琉球
  にとって,ひとまず解決したわけである。


3事件の歴史的意義

①ロパート・パウン号事件は,欧米資本主義列強の苦力貿易の実態を暴露した。事件の直接的原因
  がパウン号船長プレイスン(LBryson)らの苦力虐待にあったことは,広州駐在のアメリカ代理公
  使パーカーでさえ認めており,「きわめて遺憾なことに,プレイスン船長が苦力を虐待したという伝
  聞は,現在では直接的に証明されている」(1852年5月17日付の米極東艦隊司令あて書簡)と言明せ
  ざるをえなかった。
   広州駐在のイギリス領事パウリング(BowringSirJohn)も,1852年ごろの厘
  門における「猪仔館」(出港前の苦力収容所,パラクーン)の状況について,次のように述べている。
  −「幾百人もの苦力が猪仔館に集められ,まる裸にされ,各人の予定された目的地に応じて胸に
  C〔キューバ〕,P〔ペルー〕,S〔サンドウィッチ島〕などの文字を書きこまれ押印されていた」
  (1852年8月3日付のマームズベリー英国外務大臣あて書簡)と。

②事件の直接的原因が苦力虐待にあることを自認しながらも,中国駐在のイギリス・アメリカ領事
  たちは,緊密な協力のもとに苦力捕獲作戦を展開し,公然と東アジアの国際秩序を侵犯した。のみ
  ならず,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーの如きは,中国地方当局がパウン号事件関連の苦力 
  の無罪を宣言して放免したことに抗議し,不平等条約(望厘条約)を拠りどころにして,アメリカ
  の法律による裁判を執擁に要求した。この事実のなか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東ア
  ジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)を
  ストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されている
  といえるのではなかろうか。

③イギリス・アメリカが多数の兵員を石垣島へ上陸させて苦力捕獲作戦を展開したことは,東アジ
  アの伝統的な国際秩序に対する重大な侵犯であり,パウン号事件から20年後の台湾事件における日本
  軍の台湾侵略の前例ともみなされるべき事態であったが,清国・日本(薩摩藩)はもちろん,当
  の琉球側もイギリス・アメリカの明らさまの国際秩序侵犯行為に,なんら抗議しなかったし,また
  抗議する能力をもちあわせていなかった。このことは,すでに伝統的な東アジア世界の国際秩序維
  持機能が失われつつあったことを物語っているといえよう。

④琉球側はイギリス・アメリカの武力を恐れて,苦力捕獲作戦を黙認せざるをえず,あるいはまた
  慣例通りに残留苦力を福州へ護送する計画を一時中止せざるをえなかったけれども,可能な限り伝
  統的な国際秩序に従って事を処理し,朝貢国としての義務を尽そうと努力した。石垣島に一年七か
  月にわたって残留した苦力たちに対しても,琉球側は「該難人,実に天朝の民に係るも,今は遠く
  海島に在り,郷を離れて日久しく,誠に憐むくきに属す」(歴代宝案,第二集,巻194)という観点
  から手厚い保護を加えた。
   この事実は,東アジアの冊封体制のなかで培養された琉球の国際意識=
  「国際連帯」の観点を具体的に例示するものであり,今日に継承・発展させられるべき貴重な「遺
  産」であるといえよう。

   もっとも,次の点にも注目しておかなければならない。つまり,琉球王府は,残留苦力の取扱い
  をめぐる薩摩藩との交渉の過程で,イギリス・アメリカとの摩擦及び財政負担の増大を避けるため
  に,イギリス・アメリカ艦船が苦力捜捕のために再来する場合には,残留苦力を−人残らず引渡す
  という方針を策定していたこと,これである(琉球評定所記録)。日本(薩摩藩)とともに琉球もま
  た,自国の安全・利害を優先させることによって,伝統的な東アジア世界の国際秩序の崩壊に,自ら
  加担しようとしていたことに注目しておきたい。

  琉球王府の方針は,イギリス・アメリカ艦船が再来しなかったために,現実化することはなかった
とはいえ,無視することのできない重要な意味を内包しているといえよう。

⑤ロパート・パウン号の苦力たちが琉球から清国へ護送された後,最終的にどのように取り扱われ
  たのかはよくわからない。しかし,両広総督の徐広繕が広州駐在のアメリカ公使パーカーの執勘な
  干渉を却けて,苦力18名のうち17名に無罪を宣告したことは注目すべきである。この事実は,徐広
  緒のような地方当局者でさえ,欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し,ある種の「民
  族主義」的な感情をもつにいたったことを示しているのではなかろうか。このような「民族主義」
  的感`情は,「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され,ロパート・パウン号事件の真相
  が知れわたることによって,より一層増幅され,高揚させられた。
   たとえば,広州駐在のイギリス領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣
  マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦
  力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告して
  いる。

   また,同年11月21日から24日にかけて展開された厘門民衆の苦力貿易反対運動は,「民族主義」的
  感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆暴動の拡大を恐れ,英
  艦サラマンダー(Salamander)の陸戦隊を厘門へ上陸させ,中国人4名を銃殺,5名以上を負傷さ



より

苦力

   
1900年頃の中国人の苦力(江蘇省
雪の中で大陸横断鉄道建設のために働く中国人の苦力

  苦力(クーリー)とは、19世紀から20世紀初頭にかけての、中国人インド人を中心とするアジア外国人移民の、手に職を持たない単純労働者である。

歴史

 奴隷制度が廃止された後、ヨーロッパ諸国の多くの植民地やアメリカで労働力が不足した。イギリスの植民地であったインド亜大陸の貧民層や、アヘン戦争後には、広東福建両省を中心に、汕頭市アモイマカオなどから労働力としてのクーリーが世界各地に送られた。当初はインド人労働者を指した呼び名であったが、後に中国人労働者に「苦力」という漢字をあてた。

 アメリカには大陸横断鉄道建設の労働者などとして使われ、中国からカリフォルニアに10万人以上が送られた。オーストラリアやマレーシア、マダガスカルなどにも、各々10万人程度が移住したとされる。
正式な海外渡航は北京条約締結以後になるが、それまでにも事実上、中国からの苦力輸出は行われていた。その背景には中国での人口増加、太平天国以後の動乱があると考えられている。

 苦力は劣悪な環境で扱われたため、航海中や作業中に死亡することが多く、現地でも最下層の生活を送った。
 また日中戦争時には満州や日本の占領地でも苦力が使役されたが、共産中国が成立すると事実上鎖国政策が採られ、苦力貿易は終結した。

関連項目



転載元転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

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3月27日(日) 曇り。
 
M夫氏は6時から釣りに行ったもようだが全くアタリなかったとのこと。昨日、スーパーで高いエビをエサとして買ったのに・・・。今回はバックに入る大きさにまで折りたためる釣り竿を用意してきている。
私は出発前日に釣具屋まで買いに行った。石垣島なら餌を付けて放り込めばすぐに釣れるだろうと思っていたのだ。
チョット考え方が甘かったなア。
 
K夫氏は夜中から若干の体調不良とのこと。がっくりしていた。
 
天気が悪いので今日は「石垣やいま村」へ行くことにした。
途中の唐人墓に寄った。1852年中国アモイから労働者を乗せてカリフォルニアへ向けて航行中のアメリカの苦力貿易船ロバート・バウン号内であまりの待遇の悪さ、人権無視に怒った中国人が反乱を起こし、奪った船を石垣島に着けた。その後多数の死亡者を出し、生存者は中国へ送還。その時の死亡者を祭る墓地を個人寄付によって建造したもの。ハデハデの記念墓だ。
 
イメージ イメージ
    ハデハデの唐人墓            ハデハデの唐人墓・拡大
 
その唐人墓の横にこぢんまりとした黒糖製造所があった。見学すると、美味しい黒糖として私たちが以前から注目して買っていたメーカーである物産センター石垣島であった。サトウキビを絞ってその汁を8時間煮詰める作業中で、兄ちゃんが灰汁を取っていた。約8時間煮詰めると量的には1割になるそうだ。皆喜んでアルミ皿に入った黒糖やペースト状の黒糖を購入した。
 
ここを出て石垣やいま村(840円)へ到着。数棟の古民家を移築し、展示活用している所で国の登録有形文化財だそうだ。園内には男性の職員が居て、説明や物品販売をしている。一番年上の男性は「長男」を意味する「フッチャ」、2番目は二男で「ナカチャ」、3番目は三男で「ガッチャ」という名札を下げている。
 
喜舎場邸で三板(サンバ)を見て、どのようにして鳴らすのだろうと話している所にフッチャが来て、鳴らし方を教えてくれた。その上で三線を持ち出して十九の春を弾きながら三板と合わせてくれた。歌が上手い。ついつい三板2000円を買ってしまった。

横の住宅(森田邸?)ではガッチャが家の間取りとその意味を説明をしてくれた。そこで雑談のように、さっき向こうの喜舎場邸で三板の鳴らし方を習った時、三線で唄ってくれたのが良かった。もっと唄って欲しかったなあ・・・。というと、私も三線は出来るのでやりましょうか、と気持ちよく反応してくれた。曲の説明のあと、演奏を始めたとき外国人の男女数人がやって来た。一緒に部屋に上がって即席の演奏会に聞き入った。彼らはハワイ出身で、今は島根県に住んでいるという。ハワイ出身のK妻さんと話が弾んだ。最後はみんなで三線に合わせて踊り回った。
 
イメージ イメージ
   石垣やいま村・入り口           石垣やいま村・展望台から
 
イメージ
             ガッチャによる即席演奏会: 嬉しかった
 
最後に1時から喜舎場邸で三線、太鼓演奏と唄と踊りの「家遊び(や〜あしび)」があった。30分も前から上がり込んで待っていると、フッチャとガッチャが来て相手をしてくれた。全員で三板を鳴らし、かけ声をかけて楽しんだ。最後には「石垣1の踊り子オバー」が泡盛の1升瓶を頭に乗せて踊り回る。見事なものだった。
堪能して園内のあんぱる食堂で昼食にした。
それにしてもフッチャとガッチャは好漢だ、この二人のおかげでやいま村の印象が非常に良いものになった。
私たち一行6人は大満足だった。
 
イメージ
         石垣一の踊り子オバーの妙技:頭上の一升瓶に注目
             左うしろがフッチャ(右)とガッチャ(左)
 
 
帰りにパナリ公園展望台へ行った。石垣港方面と竹富島、西表島が一望できる。いい眺めだと喜んでいると、豪雨になった。
 
イメージ
             パナリ公園展望台から御神崎方面を望む
 
市街地まで帰ってくると雨は降っていない。女性陣を公設市場のあるアーケード街で降ろしてホテルへ帰った。
 
あとは風呂に入って男3人でビール、泡盛。夕方には女性陣も帰ってきて夕食は敷地内の硫華で焼き肉。ロースとハラミなどをタラフク食べてビールに泡盛・・・
 
今日のホテルのイベントライブはポップス風琉球音楽だ。男性1人と女性2人。女性ボーカルはきれいな声だ。それにしても今日は昨日に増して寒い。バスタオルをかけての鑑賞だがそれだけの値打ちはある。最後まで聴いてさらにアンコール。
 
もう一度女性部屋で酒、さけ、サケ・・・で夜が更けていく。我ながらよく飲むなア。
本当は私はそれほど飲めるタチではないのだが、M夫氏が「ウワバミ」なのだ。お付き合いは大変なのです。私の肝臓は悲鳴をあげている。
 
「エエ加減にせ〜!!」
 
 
 
 
 

転載元転載元: denyaのあそび

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石垣島   

石垣島座標面積 海岸線長 最高標高 最高峰 所在海域 所属諸島 所属国・地域
衛星画像
北緯24度20分04秒
東経124度09分22秒
座標: 北緯24度20分04秒 東経124度09分22秒
222.25 km²
139.22 km
525.5 m
於茂登岳
太平洋東シナ海
八重山諸島
日本の旗 日本沖縄県石垣市
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石垣島の位置

 石垣島(いしがきじま)は、沖縄県石垣市に属するで、沖縄県内では沖縄本島西表島に次いで3番目に広い島である。日本全体では、本土と沖縄本島を含め、熊本県上天草市天草市に属する天草上島に次いで 21番目の面積を持つ[1]人口は約4万5千人。




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概要

 石垣島は八重山諸島政治経済教育交通などの中心地で、県庁所在地である那覇市との距離は南西に410km以上離れており、その距離は東京から岐阜間に相当する。逆に台湾とは概ね270kmしか離れておらず、地理的には日本のほとんどの地域よりも台湾に近い場所に位置している。白保竿根田原洞穴遺跡から日本最古と見られる約2万年前の人骨が見つかっている。

地理

地勢

 概形としてはほぼ正方形に近く、北東部に細長く平久保半島が突き出ている。面積は222.25km²[2]、島の中央やや北にある標高 525.5 m於茂登岳は沖縄県の最高峰であり、この山以北は山がちとなっている。南部は隆起サンゴ礁の平地が多く、人口もこちらに集中する。南部に向かう宮良川の他には、あまり大きな川はない。

気候

石垣島雨温図説明
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気温(°C
総降水量(mm)
出典:気象庁(1981年 - 2010年の平均値)
[表示]インペリアル換算
亜熱帯海洋性気候に属する[3][4]。また気象庁平年値(1981-2010年)に基づくと、ケッペンの気候区分上は熱帯雨林気候 (Af) に相当する。



自然

 古くから開発が進んでおり、森林の面積は多くない。しかし隣接する西表島とは共通するも多く、イリオモテヤマネコこそいないものの、貴重な種が多いことに変わりはない。若干の差が見られるものもあり、たとえばヤエヤマスミレは、種としてはこの両島のみに分布する固有種であるが、亜種である西表島のものに対して石垣のものは変種のイシガキスミレとされている。なお、西表が未だに多くを森林に覆われているのに対して、開発が進んだ石垣島では数を減らしている生物も多く、たとえばコナカハグロトンボは石垣個体群のみを沖縄県が絶滅危惧種に指定している。北部の米原のヤエヤマヤシ群落は天然記念物に指定されている。

 宮良川河口のマングローブは、国内最大の面積をもつ。西部の名蔵アンパルは2005年にラムサール条約に基づいて保護すべき貴重な湿地に登録された。

 2007年8月1日、石垣島の面積の約3割にあたる約 7,000 ha が西表国立公園へ編入されるとともに、名称が西表石垣国立公園に変更された。これにより、かつて新空港問題で有名となった白保地区等が海中公園地区とされ、海中公園の面積は国内最大となった。これは、国立公園としては、1964年富士箱根伊豆国立公園以来43年ぶりの大規模な拡張である[5][6]

 海岸ではサンゴ礁の発達がよく、特に南西側は西表にまで広がる、いわゆる石西礁湖に面する。東南側の白保のさんご礁は開発がらみで有名になっているが、北部の川平湾も、流れが急で多様なサンゴがみられることで有名である。
白保のサンゴ礁
川平湾
平久保崎

生物


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 この地域に固有の動植物(固有種)は多い。その多くは西表島と共通である。それらのうち、「石垣」の名を冠する代表的な生物としては以下のようなものがある。


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なお、他にイシガキダイイシガキフグといった生物も存在するが、これらは石垣島とは無関係である。


名所・旧跡・観光スポット・施設

転載元転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

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 中印国境紛争(ちゅういんこっきょうふんそう、英語:Sino-Indian Border Conflict、簡体字:中印边境战争)とは、中華人民共和国インド国境問題により、1962年に中華人民共和国がインドに侵攻し生じた紛争のこと。中印戦争(Sino-Indian War)とも。
 

経緯

 かつての中華民国と長年イギリス植民地であったインドは、途中にネパールブータンを挟んで長く国境を接していた。ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであったものの、事実上独立ダライラマ政権統治下にあったチベットに中華民国の実効支配が及ばなかったこともあり、両国間の国境紛争は、1914年シムラ会談の決裂以来、沙汰止みになっていた。
 その後、国共内戦を経て1949年建国され、中華民国に代わり中国大陸を支配し、1950年にはチベットを侵攻するなどの強硬姿勢を示した中華人民共和国とインドは、両国の国境の解釈をめぐって対立した。中国共産党は、ロシアその他の列強領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方を持っており、そのため中国国内が安定し、周恩来ネルー平和五原則の締結により、インドが中国に対し警戒感を有していない機会を捉えようとしていたとの見方がある。
 こうした状況下で1959年9月にインドと中華人民共和国の両軍による武力衝突が起き、1962年11月には大規模な衝突に発展した。この時期は、キューバ危機が起きており、世界の関心が薄れた中での中国共産党による計算し尽くされた行動であったとの見方もある。軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定する例は、中ソ国境紛争など他にも見られ、その前段階としての軍事的威圧は中国に軍事的優位を得るまでの猶予を与えたものとみなされる事も多い。
 
 

現在

 2005年に、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、「両国が領有を主張する範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外」とする合意がなされ、両国にとって戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は現状を維持している。なお現在アクサイチンは中華人民共和国が実効支配している。日本学校教育地図帳では、両国主張の境界線をともに引いた上で、地域は所属未定とする手法がとられている。
 
 2010年9月2日、インド東部のオリッサ州政府は、同国中央政府国防関係者の談話として、同国が開発した中距離弾道ミサイル「アグニ2」(核弾頭の搭載が可能)の改良型実験に成功したことを発表した。
 「アグニ2」の射程は2000キロメートルで、改良型の「アグニ2+」は2500キロメートル。これまでにインド国防部関係者は「アグニ2」や短距離弾道ミサイルを、中国との国境地帯に配備するとしている[10]。また、インド政府関係者は2010年3月に発表した国防計画に絡み、「2012年までに、中距離弾道弾による防御システムを完成。対象は中国とパキスタン」と発言した。
 
中印国境紛争
冷戦
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/India_China_Locator.png/250px-India_China_Locator.png
中国とインド
時場所結果発端領土の
変化
1962年10月20日 ~ 11月21日
アクサイチン, 東北辺境地区英語版
中国の勝利、一方的停戦
中国側主張: インド側の兵士がマクマホンラインの北側に侵入
インド側主張: 中国軍がインド領である東北辺境地区英語版に侵攻
チベットを巡るインドとの対立
 
 
 
 
 
 
 

中国(中華人民共和国)の領土問題・国境問題の一覧の概要

 
領土問題とは国家間である地域の領有についての争いです。
領土問題が発生すると通常は当事国同士で解決を図りますが、解決が困難な場合には国際司法裁判所へ付託することが出来ます。

中国は、日本、台湾、韓国、モンゴル、ロシア(旧ソ連)、インド、ミャンマー、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイなど多くの国々とも領土問題を抱えています。

中国の領土問題には古くからその地域の所属がハッキリしていない場合や、近年になり領土拡大や資源の確保の為から中国が領土を主張した地域もあります。

名称 概要
中国(中華人民共和国)の領土問題・国境問題の一覧
台湾中華人民共和国(中国)の東部にある島で美麗島(フォルモサ)などとも呼ばれています。
中国共産党との内戦に敗れた国民党が台湾の台北に政府機能を移転し、現在も中華民国政府として実効支配しています。
中華民国政府が実効支配している地域は台湾本島のほかに、付属島嶼、澎湖諸島、馬祖列島、烏坵島、金門島、東沙諸島と南沙諸島の一部となっています。
国際法上はサンフランシスコ条約により日本が放棄したままとなっており、アメリカ合衆国の暫定占領地域となっています。
なお、中華人民共和国(中国)は台湾を自国領土としており、中華民国は中華人民共和国(中国)の実行支配地域を自国領土としています。
尖閣諸島
魚釣島
日本、中国、台湾の間で領土問題となっています。現在は日本の領土で日本が領土として実効支配しています。
日本の行政区分では沖縄県石垣市に、台湾は宜蘭県に属すとしています。
1895年1月14日に日本で閣議決定されてから現在に至るまで日本固有の領土でしたが、1970年6月に台湾が、1970年12月に中国が領有権を主張してきました。
尖閣諸島には日本の右翼団体「日本青年社」が灯台を作り後に日本国に移管されたりしています。
また2010年9月7日には尖閣諸島周辺で操業中の中国漁船が、海上保安庁の巡視船に意図的に衝突をし公務執行妨害で逮捕される事件も発生しています。
外蒙古
モンゴル国とトゥヴァ共和国
現在のモンゴル国とロシア連邦のトゥヴァ共和国にほぼ当たる地域で、ゴビ砂漠の北側を指す地名です。
19世紀ごろまで外蒙古のモンゴル国とトゥヴァ共和国は清朝の支配下にありましたが、1911年の辛亥革命が起こった際に独立しました。 しかし中華民国(台湾)は現在も外蒙古の地域が自国領土と主張しています。
また、近年になり中華人民共和国(中国)も自国領土と主張しています。
江東六十四屯アムール川(黒竜江)の東側にあった64箇所の中国人居留地域です。
清朝とロシア帝国間で結ばれたアイグン条約では>江東六十四屯の地域はロシア領でありがなら、中国人が多かったため清国の管理下におかれました。 その後、義和団事件が起こった際にロシアが進行し占領しました。
現在は江沢民主席とエリツィン大統領時代に条約が結ばれ、中華人民共和国(中国)はこの地の主権を放棄することとなりました。 しかし、中華民国(台湾)は現在も江東六十四屯の地域が自国領土と主張しています。
パミール高原
葱嶺
中華人民共和国(中国)とタジキスタンの間にある標高約5000mの高原です。
かつては清朝が支配していたという理由から、中華民国(台湾)は現在もパミール高原が自国領土と主張しています。
また、近年になり中華人民共和国(中国)も自国領土と主張しています。
ワハーン回廊
ワハーン渓谷
ワハン回廊
アフガニスタンにある回廊地帯で、東西200km、南北15kmの標高4000〜5000mの高原です。
西側がアフガニスタン、東側が中華人民共和国(中国)、南がパキスタンとなっています。
1960年代に中華人民共和国(中国)が領有を放棄しました。 しかし、かつては清朝が支配していたという理由から、中華民国(台湾)は現在もワハーン回廊が自国領土と主張しています。
インドのアルナーチャル・プラデーシュ州中国語では阿鲁纳恰尔邦と表記します。
インド北東部にある地域で、南はインドのアッサム州、北は中華人民共和国(中国)、東はミャンマー、西はブータンと接しています。
アルナーチャル・プラデーシュ州は中華人民共和国(中国)も領有を主張しており、中国の行政区域では西蔵自治区ロカ地区の錯那県、隆子県、墨脱県、察隅県とされています。
ミャンマー北部
江心坡(こうしんは)
現在のミャンマー北部にある地域で、中国の雲南省に属していました。
1960年に中華人民共和国(中国)がビルマの領土として承認し、領有権を放棄しました。 現在のミャンマーの行政区分ではカチン洲の一部となっています。
しかし、かつては清朝が支配していたという理由から、中華民国(台湾)は現在も江心坡が自国領土と主張しています。
南沙諸島(スプラトリー諸島)東シナ海に浮かぶ100余りの島々で、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、中華民国(台湾)、中華人民共和国(中国)が領有権を主張しています。
現在は中華民国(台湾)、中華人民共和国(中国)、フィリピン、ベトナム、マレーシアが各島を実行支配しています。
西沙諸島(パラセル諸島)南シナ海に浮かぶサンゴ礁から構成された島々です。
以前は西半分をベトナム共和国(南ベトナム)が、東半分を中華人民共和国(中国)が支配していましたが、 ベトナム戦争中に中華人民共和国(中国)がベトナム共和国の支配する西半分に進行し占領しました。
現在は中華人民共和国(中国)が滑走路や港などを整備し実効支配していますが、ベトナムと中華民国(台湾)も領有権を主張しています。
中沙諸島東シナ海に位置しており、西沙諸島の東南約100kmの位置にあります。 主にサンゴ礁から構成されており、海洋法条約の島には該当しないとも言われています。
現在は中華人民共和国(中国)、中華民国(台湾)、フィリピンが領有権を主張しています。
東沙諸島南シナ海に位置しており、東沙島、北衛灘、南衛灘などからなっています。
現在は中華民国(台湾)が実効支配していますが、中華人民共和国(中国)が領有権を主張しています。
中華民国(台湾)の行政区域では高雄市旗津区、中華人民共和国(中国)の行政区域では広東省陸豊市となっています。
カシミール地方インド、パキスタン、中華人民共和国(中国)の国境付近で、 標高8000mを超えるヒマラヤ山脈やカラコルム山脈に囲まれています。
インド、パキスタン、中華人民共和国(中国)が領有権を主張し、インドとパキスタンは過去に何度か軍事衝突(カシミール紛争)を起こしています。
なお、インドの実行支配地域はジャンムー・カシミール州、パキスタンの実行支配地域はアーザード・カシミール、中国の事項支配地域にアクサイチンなどとなっています。
アクサイチンカシミール地方の一部で、約3万平方キロメートルの地域です。
インドと中華人民共和国(中国)が領有権を主張しており、現在は中華人民共和国(中国)が実効支配しています。
インド側ではラダックと呼ばれています。
中ソ国境紛争中華人民共和国(中国)とソビエト連邦間の国境問題による紛争です。
1969年3月2日と15日にアムール川(黒竜江)支流のウスリー川にあるダマンスキー島(珍宝島)の領有権をめぐって発生しました。
ダマンスキー島事件、珍宝島事件とも呼ばれています。
1991年の中ソ国境協定によりダマンスキー島(珍宝島)は中華人民共和国(中国)の領土となり、現在は黒龍江省虎林市となっています。
またそれ以外の国境未確定部分(アバガイト島、タラバーロフ島、大ウスリー島)についても、2004年に中露国境協定が結ばれたことにより確定しました。
アバガイト島は中露両国に分割、タラバーロフ島は中華人民共和国(中国)に、大ウスリー島は西半分を中華人民共和国(中国)、東半分をロシア連邦領としました。
中印国境紛争中華人民共和国(中国)とインドの国境問題による紛争です。
1959年に中華人民共和国(中国)がインドに進行し、カシミール地方の東部のアクサイチン、ラダック、ザンスカール、バルティスターン、アルナーチャル・プラデーシュ州などで先頭となりました。
現在はアクサイチンを中華人民共和国(中国)が実効支配しています。
中越国境紛争
両山戦役
中華人民共和国(中国)とベトナムの国境問題による紛争です。
1984年に中国軍がベトナム側に砲撃したのをはじめに、3度の大きな両軍の衝突が発生しました。
中国軍はベトナム領とされていた老山と者陰山に侵攻し占拠しました。 この占拠は1989年5月頃まで続き、中華人民共和国(中国)とベトナムの関係が回復したことで、中国軍が撤退しました。
可居礁黄海にある暗礁で、日本海軍の戦艦日向がこの暗礁と接触したことから日向礁とも呼ばれています。
暗礁であるため領土して認められていませんが 韓国政府は可居礁と名づけており、中国と韓国間で黄海の排他的経済水域の紛争の1つとなっています。
蘇岩礁英語名:ソコトラ岩 (Socotra Rock)、韓国名:離於島、波浪島

東シナ海にある暗礁で、中国と韓国間で東シナ海における排他的経済水域の紛争の1つとなっています。

暗礁であるため領土して認められていませんが韓国政府は済州特別自治道・西帰浦市に所属する島であると主張しています。
丁岩礁
韓国名:波浪礁

東シナ海にある暗礁で、中国と韓国間で東シナ海における排他的経済水域の紛争の1つとなっています。

中華人民共和国が1999年から2002年にかけて調査を行い発見しましたが、韓国海洋水産部が波浪礁と名づけ領有を主張しています。
 
 

転載元転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

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