名島三郎の がたがた自転車 (ボーン・シェイク)

中年ですが自転車がテーマです boneshake はがたがた自転車、の意らしいです

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●地蔵慶護・北海道 身近な歴史紀行
 恵庭市の案内板
 案内板と、クラークらが休息した、元の駅逓所があった箇所
 作図は、地蔵氏の本を参考にした

地蔵慶護・北海道 身近な歴史紀行(1999、北海道新聞社)を読んでいたら、島松の駅逓所の探訪記事があった。面白い発見があった。

1つ目。
現在の「旧島松駅逓所」は、北広島側にあり、それ以前は、島松川(が、現在も両市の境界である)を(札幌方面から見て)越えた、恵庭市側にあったそうだ。地蔵さんの解説によると、こちらの駅逓所は、明治6(1873)年、漁川の漁場主であった山田文右衛門の代人山口安五郎によって開かれたそうだ。明治17年に中山氏に引き継がれるまで、それは一貫していたようだとある(古文書による調査)。先ごろまで、郵便局が置かれていたのは、この駅逓所のあったところである。

現在のところ(「旧島松駅逓所」)は、中山久蔵宅で、明治17年8月の話だそうだ(記録が残されている)。彼が駅逓所の業務を、前任者から、引き継いで請け負ったということらしい。

画像は、明治17年8月以前の、恵庭市側の、さらに古い駅逓所が置かれていた所。
また、恵庭市の説明版があった。当時の絵付で詳しい。

2つ目。
とすると、クラークが、例の "Boys, be ambitious, like this old man!" と、馬上の垂訓をした場所は、どこかということになる?

現在、件のクラーク記念碑は、1950年の建立のようだが、北広島側である、現在の「旧島松駅逓所」の一角である、島松川近くに立っている。Was this TRUE ?

戦後の建立というのも興味深い。北大のクラーク像もそうだが、戦前のかつては藪の中にあって見えなかった、丁寧には扱われなかったとも言われている。米英は敵であったのだ。

クラークが、この日、札幌農学校の生徒たちとこの「旧島松駅逓所」で昼食をとり、この近くで最後の野外授業をしたのは、明治10(1877)年4月16日であった。

時間的に見て、「旧島松駅逓所」というのは、恵庭側にあった駅逓所(上掲の手書きマップでは「小休所」とあるところ)でなければならない。

なぜ、北広島側である、現「旧島松駅逓所」の脇に建立されたのかは、この別れに参加していた学生の話を聞いて、現駅逓所のある、島松川の手前で、のたまったというためであるとする、根拠が示されているものもある(地蔵さんは触れられていない)。

札幌を出発直前ということですね。この全員が島松まで送ったわけではないだろう:
「クラーク博士帰国に際し見送りの教職員学生一同(開拓使旧本陣前)」
   http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B039930000000.html

佐藤昌介、宮部金吾ほかが出席した、昭和9年の仮標設置。おそらくこの時の佐藤らの記憶が、戦後の碑建立の前提となっていると思われる。第一期生の佐藤・宮部では、やはり記憶が正しいというべきか。二人は実際に明治10年4月に出席したのだろうか?

「島松クラーク別離地記念仮標設置スナップ写真 3」(昭和9年)
   http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/mago.cgi?magoid=0B047340000000007

同所には、島松川右岸のシャチ(恵庭側)とそちらを望む建物やダートの道。荷駄を移した写真(2)もある(「島松クラーク別離地記念仮標設置スナップ写真 2」http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/image/l/0B047340000000002.jpg )。荷駄の左手に映っている白い標識が、このとき立てられたものとしたら、島松川の橋のすぐ袂、ではないだろうか。
また、手前の柵のある箇所は、すこしくぼ地になっており、どうやら水が張られているようだから、中山氏宅の水田だろう(現在もその跡が残されている)。

明治14年明治天皇御巡幸のときに、昼食・休憩所となったのが、現「旧島松駅逓所」である。その記念碑もあるようなので、そちらの威光に引かれて、クラーク記念碑が建立されたともいえようか。むろん、クラークが垂訓した元の場所には碑を建立するスペースも確保できなかったのかもしれない。

個人的には、BBAのご発声の場所は、やはり当時の駅逓所が置かれていた恵庭側であったと思っている。

どちらであろうと、どうでもいいこと?! そう、どうでもいいことですね。

3つ目。
旧道の旧道があったらしいということだ。地蔵さんの本(上掲190頁)によりながら、作成した地図では、「札幌越新道」と緑色の破線で示したところだ。現国道36号線と、旧国道36号線との間の山の中にあったようだ。明治4年の刻みのある山の神の碑もそこにあるそうだ。

昨日見に行ったところでは、草や樹木もあるので、どれがどれだか分からなかったし、入り口と思われる箇所もわからなかった。地蔵氏の本には、遠景だが、雪が積もって道らしき格好をしたものがある(186頁)。

漠然とこれがそれかと思っていた箇所を、文献で読み直して、再訪した次第。

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かなり前に読みました。たしか、松浦武四郎が通ったとかいう道ですよね。碑のかけらが転がっていて、近所の石屋さんに聞いたけど分からなかったとかいう。そういえばあそこの橋の近くに石切り場があったような気がします。こういうのをちょっとでも知ってると、サイクリングの幅が広がって、グンと楽しくなりますね。

2007/6/24(日) 午後 6:43 ぽんつく

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どうもコメントありがとうございます。今日はモエレでママチャリ大会にご参加とか、お疲れ様でした。
すでに地蔵さんのこの本も読んでおられるのですね。僕は最近古本屋さんで見かけて、そんな本がるのかと気づいた次第です。道が直線で自然風景もいいのですけれどね。もうちょっときっかけがほしくなりますね。よくサイクリングの要諦を押さえておられて、感心しています。

2007/6/24(日) 午後 10:40 [ 名島 ]

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仮標設置写真2は、島松シャチがはっきりと映っていますね。今よりも樹木がなさそうです。
この写真の荷駄の横の白い標識が、昭和9年の仮標(クラークの)であるとことは、分かりませんね。ちょっと気づいた次第で、上では断定的に書きましたので、誤解されるといけませんね。お詫びとともに。

2007/6/24(日) 午後 10:44 [ 名島 ]

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