相模湾 海から見る風景

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横須賀東部の古墳跡を巡る
                                
  昨日、横須賀市観光ボランティアガイドの会主催のガイドツアー「横須賀東部の古墳跡をめくり、地政史を推測する」に参加した。やや健脚コースと言われていたが、13km以上とよく歩いたツアーだった。
なにしろ、横須賀市に土地勘のない者にとっては、歩いてみなければ、分からないことばかり、目を見張るようなことの連続であった。
 
そもそもは、安房口神社の存在を知ってから、周辺に古墳群がたくさんあることが分かり、歩いてみたと思っていたところに、このガイドツアーの存在を知った。
渡りに船の好企画、健脚コースに少し不安があったが、参加をお願いした。
  
コースのうち、古墳を中心に一部紹介したい。説明は、配布資料に寄る。
 
イメージ 1
 
大津古墳群
 東京湾側の京急大津駅前の森が古墳だった。
2007年の発掘調査の結果、古墳群は最高所海抜75mの丘陵頂部から北東方向へ緩やかに延びた急峻な細い尾根上に点在帆立貝形前方後円墳の一号墳と円墳の二号墳・三号墳の三基で構成されている。
 
安房□神社
 この神社は、このブログ海上安全安房口神社でも紹介したように、原始信仰の形を残した神社で、今回のガイドツアー参加のきっかけを作ったところ。裏側の住宅地から登る。
 洲崎神社と安房口神社を結ぶとほぼ真北を指す。それぞれの地点の磁北との西偏差を考慮した方向を向いている。当然ここに石を置いた意味があるだろう。一つは、対岸の最高所標高75mという点、目印山建てになった点であるが、そのほかに重要な意味があるとすれば、この真北が関わっているのではないか。
 
イメージ 5
 ○祭神は天太玉命(あめのふとたまのみこと)
・磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて、社殿、拝殿を持たない。三浦半島では最古の社ではないかといわれる。ご神体の石は安房国洲崎神社から安房大神太玉命の御霊代として東国鎮護のためにこの場所に飛んで来たといわれる。言い伝えによると、日本武尊が東征のとき、勝利祈願したと伝えられ、源頼朝、北条義時なども武運を祈って参拝したと言われる
 
大塚台古墳群
 ここからは、大規模開発の住宅団地を抜けた小学校校地の隣接地にあった。
復元古墳と公園内にパネルでの説明展示コーナーがあった。
 
イメージ 2
○大塚台古墳群は、大正13年(1924)に赤星直忠博士によって発見された。その後、発掘調査が行われ前方後円墳3基と円墳3基が確認された。復元されている前方後円墳は1号墳で、全長31.3ml、後円部径18.8mで古墳時代後期としては三浦半島最大のものである。後円部からは、土坑状の棺の床部分が確認されている。棺は木製であったため残っていなかったが、棺の床部分を中心に直刀2点、刀子1点、鉄鏃(鉄製のヤジリ)15点以上、ガラス製小玉40点以上などが出土した。
 
吉井貝塚・怒田城址
 
イメージ 3
○吉井貝塚がある台地は、縄文時代の貝塚と集落跡、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡、怒田城址が、ひとつの台地にいくつかの時代の性格の異なる遺跡が残されている複合遺跡である。 
・遺跡の中心となる縄文時代の貝塚は、第1貝塚と第2貝塚に分かれて存在し、おのおのの貝塚は上下に堆積する2つの貝層からなっている。またここから、縄文時代早期から中期にかけての土器、骨角製漁労具や装身具など豊富に出土している。 
・対岸約800mの位置にある「茅山貝塚」とは、時期において一致するところもあり遺跡相互の比較研究をする上で重要な位置を占めている。 
・平安時代末期・衣笠城を居城とする三浦氏は、この台地に山城を築いて怒田城とした。当時は、丘がずっと前方まで張り出しており、今の平地は全部海水が入り込んでいて、わずかに北側が後部の山岳と連なっているのみという、海を利用した山城としては理想的な地形であった。
 
蓼原古墳跡
 
 ここは、次の八幡神社も同じだが、久里浜の駅付近、現在でも海から僅かな距離。標高も3m程度の地、古墳時代には、波打ち際、低地の古墳といえる。そこから見事な埴輪が出土している。古久里浜湾の入り江の岬に当たる場所でどんな世界が繰り広げられていたのか想像が広がった。
 
イメージ 6
    ○昭和53年の神明小学校建設に伴う事前調査で古墳が     見つかった。この古墳は帆立貝形前方後円墳で墳丘
     全長28m、後円部径約22mであるが、江戸時代以前に
     洪水により墳丘は流失している。
・古墳からの出土埴輪のうち琴を弾く埴輪「弾琴人物埴輪」は、極めて:貴意な埴輪である。 古墳は調査後シートをかぶせ埋めてある。
 
八幡神社古墳跡・八幡神社
 現地はこの時代、海岸線から100メートルほどの距離にあり、市教委では埋葬人物は舟を使い漁業や交易をしていたと推測。墓は、胸から足先にかけて徐々に幅が狭くなっており、舟をイメージできるという。
これまでに5世紀前半とみられる三つの古墳が発見されている。
 古代の横須賀では、平作川に沿って海が内陸に深く入り込んで「古久里浜湾」をつくっていた。浅い海底に形成された砂地は耕作には適さず、墓地として活用される道が残ったとの説がある。
 
イメージ 4
○八幡神社遺跡は、標高3mほどの砂堆上に立地する遺跡で南北長約500m、東西幅が最大約170mほとの広がりをもっている。
この遺跡から4基の古墳が出土している。 ・八幡神社地点周辺は、広く古墳時代と中世の2つの時代に利用されていた。
 
 この企画、ボランティアさんが、最近の発掘成果をまとめてコースにしたもので、定年退職後にまったくの素人が勉強したものだと聞いて、思わず素晴らしい企画をありがとうございますと申しあげた。
よく歩いたが、同時に貴重な情報をたくさん手に入れた一日だった。

閉じる コメント(9)

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古墳もですが、歴史の幅が豊富でボランティアさんも遣り甲斐があるんでしょうね!

それにしてもよく歩かれましたね〜(笑)

2014/9/29(月) 午後 9:43 bevel_t 返信する

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古墳の規模は海浜部の小さなものですが、この地方の古代を知ることが出来ました。
周辺の寺院での紹介は、ガイドさんの折角ここを通るのだから紹介しておきたいという熱意を感じました。貴重な情報をたくさん得ることが出来ました。

山の上り下りがありましたが、参加者は、おしゃべりしながらついてゆくのですからタフな人たちでした。

2014/9/30(火) 午前 6:00 sagami_wan 返信する

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安房□神社は忌部と水銀関連のやしろでしたね。千葉県南部がなぜ安房の国かと昔から考えていて、そうか阿波国から忌部が着たからかと気づいた次第です。

2014/9/30(火) 午後 6:56 [ Kawakatu ] 返信する

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kawakatuさん ナイス! ありがとうございます。阿波忌部氏は、安房の国や三浦半島の開発に関わったようです。
安房口神社の周辺は、5世紀からの古墳群が取り囲み、多くの人が定住し、水田稲作、漁業の盛んな土地だったことを実感しました。

2014/9/30(火) 午後 9:17 sagami_wan 返信する

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pok**hino*324さん ナイス!ありがとうございます。

2014/9/30(火) 午後 9:19 sagami_wan 返信する

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静岡の韮山反射炉ほどの遺跡でも世界遺産が調査。ここはいかが?

2014/10/2(木) 午後 7:15 [ - ] 返信する

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kawa**tuさん ナイス!ありがとうございます。
ここの遺跡が世界遺産についてどう取り組んでいるのかは分かりません。

小規模な古墳が多いのですが、海浜の砂堆上にある5世紀前葉の古墳は、貴重な遺産と言えます。

2014/10/2(木) 午後 9:02 sagami_wan 返信する

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鯨さん ナイス!ありがとうございます。

2014/10/3(金) 午後 2:11 sagami_wan 返信する

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mamataroさん ナイス!ありがとうございます。

2014/10/15(水) 午後 10:32 sagami_wan 返信する

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