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良弁僧正物語 

良弁僧正物語
―相模国の出雲族良弁の目指したもの―

    今回から、東大寺初代管長良弁僧正とその一族の話をしばらく続けます。
1回は、全体のあらすじを最初に出しておきます。なるべくこのあらすじの中に納まるように進めるつもりですが、進行過程で構想が変わる可能性もあります。その点あらかじめご了承ください。
 
1.あらすじ
    東大寺初代管長良弁僧正は相模国漆部氏、出雲国賑給帳に漆部直一族が多数登載されています。そこで良弁僧正一族の本拠を出雲国との仮説を立て検討した結果、出雲を本願と定めることに妥当性があるとしました。良弁僧正の目指してきたものも見えてきました。
聖武天皇の悲願を形にするため、総国分寺としての東大寺・廬舎那仏建立に尽力しました。
遠い昔、ヤマト王権に国譲りを迫られた過去を持つ出雲の人たちにとって、天皇の国分寺を通じて、仏教による鎮護国家建設の詔勅は信仰の強制ともいえたでしょう。

   ところが、出雲族の良弁一族は、国譲り以後厳しく貧しい状況に追い込まれていた出雲国を脱出して、東国相模国の地で、開発開墾に励み成功をおさめた後、過去の恩讐を越えて、良弁は、聖武天皇に総国分寺としての機能を持つ東大寺造立を進言し、成し遂げたのです。
    良弁は当初反体制ともいえる役行者を追慕し修験道を修めながらも大仏鋳造のための金銀を求め山野を跋渉し、律令国家の頂点聖武天皇を中心とした体制の象徴として東大寺を位置付けたのです。
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   また良弁の神仏習合は、高僧・義淵の下で、深く仏教学を極めた良弁僧正ならではの帰結だったのでしょう。
日本を一つにするという東大寺の役割に、神仏習合という息吹を注ぎ込むことによってその後の日本文化の方向性を与えたのです。同時にこれは国譲りをした出雲と大和王権の融合をも目指したものといえるのです。出雲族としての悔しさを乗り越えた自分がいることを出雲族へのメッセージとして込められていたのでしょう。

   そして弟、漆部直伊波は、商布の売買によって蓄積した私冨を基に、在地と中央とを結ぶ遠距離交易を行っていた。彼は、大量の私冨を東大寺大仏造立の費用の一部に献上し、それによって外従五位下という貴族の最末端の位階を与えられた。このことを契機に、彼は中央の官僚機構の中に入り込むことに成功し、様々なポストを歴任していった。

    伊波の性格は、きっと他者に説得的に働きかけ、リーダーシップを発揮して人をまとめることが得意とみられ、海運業、役人向き、良弁との二人三脚は見事な効果を発揮したのでしょう。

    鎌倉に由井の長者と呼ばれる染谷太郎太夫時忠という謎の人物がいますが、実はこの人物が、宿禰になった漆部直伊波そのものだったのです。良弁の弟の東国での姿だったのです。
この一族も他の豪族同様平安時代には没落していきますが、一族のその後も追ってみます。

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大昔の話の中から今も残る地名などが出てくるあたり
歴史や文化が残る鎌倉ならではですね。

2019/2/26(火) 午後 8:22 相模の釣師

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相模の釣師さん 最初に聞いたときは信じられずに、どうせ絵空事思っていました。由比の長者伝説が択あるから余計そう考えましたが、実在の人物であることは間違いないです。
鎌倉は、頼朝が幕府を作る前から、集落のにぎやかなところだったのでしょう。

2019/2/26(火) 午後 9:05 sagami_wan

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良弁の出自の話はよく知りませんが、彼は低い僧位からのスタートでも62歳で寺務を統括する別当になっていますね。大仏建立にかかる費用面の采配に力を尽くしたのでしょう。以前、盧遮那仏の金メッキ記事を書いた時に史料読みしましたが、金不足で悩んでいた朝廷に東北から金900両が献上されたのは749年です。行基は同年に亡くなっていますから行基が金の採集に関わったというのは伝説でしょう。良弁の朝廷への金探索の働きかけは60歳以前からあったのではないかと思います。また大仏開眼供養が行われたのちの聖武天皇は病に伏せる事が多くなったようで、良弁は看病禅師としての役割でも娘の考謙天皇に評価されたように思います。彼の弟弟子には玄掘道鏡もいて良弁の推挙で看病禅師で実績を上げるが、政治権力に野心を持った二人は結局失脚してしまう。その点、良弁は実務に誠実で政治に深入りしなかった事が名を残す結果となったように思えますね。象徴的です。

2019/2/28(木) 午前 5:00 形名

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形名さん 今回は、行基や道鏡については触れませんでした。行基については、民衆の人気が非常に高く、朝廷は廬舎那仏の造営の中心に招いたが行基は応じなかったようです。そこで、行基の人気にあやかりたい朝廷はやむなく名前を借りるような形になったのです。それを行基が許したのも、良弁と行基の信頼関係があったらばこそのこととみています。
良弁と宇佐神宮との関係は、神宮寺弥勒寺の初代別当となる法蓮との強い関係がまずあって、金鉱探索の宇佐神宮への良弁の祈請、平城京配置を参考にした宇佐神宮現社殿伽藍配置など多岐にわたり深く関わりました、それが良弁の弟子道鏡の野心を打ち砕くことにもつながったわけです。
良弁が、行基、道鏡と違うのは、弟伊波の存在です。海運業を手広く行いながら莫大な私財を廬舎那仏造営に寄進する、並外れた経営能力のある優秀な弟と二人三脚で東大寺の運営にあたることができたのです。今でいう民活によって、東大寺を運営していたのです。
道教はこんな弟も経営能力も持たない結果、野心の果て欲望を暴走させます。行基に経営能力を求めるべくもありません。
偉大な事業を完遂させた良弁は、爽やかに去っていく印象

2019/2/28(木) 午前 8:33 sagami_wan


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