相模湾 海から見る風景

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良弁僧正物語

良弁僧正物語
――弟伊波の寄進、海運業の展開――
 
7.伊波事績 寄進
伊波は、良弁の少し年の離れた弟にあたる。良弁が東大寺創建時の苦労をしているとき、弟伊波は、共同歩調をとったと思われます。国家的な事業で、多くの資金を使い、犠牲者もたくさん出ていました。伊波が負う部分は相当あったでしょう。
良弁が大仏造営を進言した天平15(743)5年後に商布二万反を廬舎那仏に寄進し、初めて公に名前が出ました。出世の階段を昇り始めたのです。良弁は伊波を中央役人に推挙したでしょう。東大寺の役人と共同歩調をとっていたでしょう。聖武天皇から東大寺の経営も任された良弁にとっては、必要不可欠の機能を伊波は担っていたのです。

 他者に説得的に働きかけ、リーダーシップを発揮して人をまとめたりすることの得意な伊波は、海運業、役人向き、良弁との二人三脚は見事な効果を発揮しました。
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畿内以外では類例のない出世
そして中央交易圈の中心地に拠点を置き、瀬戸内海水運も視野に入れた活動によって得た財力を使い、中央官僚機構に入りこむことに成功している。その後は、良弁の親近者としての立場も生かし、右兵衛佐をはじめとする京官や尾張守などの地方官を務め、その間には藤原仲麻呂の乱追討の功績で外位から内位への転換も果たした(「続日本紀』天平宝字八年(七六四)十月七日条)。
 
 内位への転換や国守への就任など、地方出身者として類例のない厚遇を得ているのは、彼の財力や良弁との関係によるものと推測される。つまり彼の珍しいほどの立身は、逆にいえば当時の畿外出身者の中央における限定的な立場(通常は兵衛・舎人程度に止まる)を示していると見ることができるでしょう。(平安中期における地域有力者の存在形態)(渡辺滋)漆部直伊波の類例のない厚遇
 
7-2.漆部伊波と難波
難波での活躍の様子を大阪市史から見てみましょう。
「漆部伊波という難波に関係の深い中級官人は相模国の地方豪族の出身で、商布の売買によって蓄積した私冨を基に、在地と中央とを結ぶ遠距離交易を行っていた。彼は、大量の私冨を東大寺大仏造立の費用の一部に献上し、それによって外従五位下という貴族の最末端の位階を与えられた。このことを契機に、彼は中央の官僚機構の中に入り込むことに成功し、様々なポストを歴任していった。しかし、彼は中央の下級貴族化してからも、在地との関係を保ち、中央では平城京の東西市の交易に関係を持ち、在地と中央を結ぶ遠距離交易を行い続けたとみてよかろう。

 漆部直伊波は、難波の堀江の南岸に面して土地を持っていたのである。この地は、東大寺から買得した可能性が高いが、彼の難波における活動の拠点であったと思われる。
ここを拠点として彼が営んだ活動は、一体どのようなものであったであろうか。
 この地の周辺一帯は、難波における水上交通の中心である難波堀江に面していた。このため、この辺りには、宮司や寺院・貴族の荘が続き、倉庫が立ち並び、難波における交易の一つの中心となっていたとみられる。そのような地城に、漆部伊波が、東大寺との関係を利用して土地を人手したのである。しかも彼はこの土地を入手したころには、すでに平城京の東西市に廛を出し、東西市を中心とする流通経済に関与する一方、一貫して遠距離交易活動にも従事していたと思われるのである。
 
以上のような諸点からすると、漆部伊波は、この地を交易活動の拠点としていた可能性は極めて高いといえよう。相模と中央を結ぶ遠距離交易を行っていた彼は、平城京の東西市に拠点を確保するとともに、難波にも拠点を確保し、難波を中心とする流通経済にもかかわっていったのである。難波を中心とする流通経済は、瀬戸内海を介して、西国に展開する流通経済とも連なっている。
 こうして彼は、東国−平城京−難波−西国を結ぶ広範囲な交易活動を行っていたのであり、難波に確保した土地は、このような彼の遠距離交易活動に、不可欠の拠点てあったと思われる。以上大阪市史1 奈良時代の難波 902-903
 
 
良弁はどんな人柄・性格
伊波の時代を超越した遠距離横断的商社活動を発想実行した類いまれな精神、起業家精神は、良弁のこれまでの歩みから見える性格と大きな違いがあるように思える。
良弁は、原理原則を極め、一つのことに没入する宗教者。とはいえ、修験道に励み、自然の中に身を置き、金鉱探索に山に分け入り、そこに人間や自然を越えた超越的な存在を求めていた。同時に金塊を探し廬舎那仏を造営することに没入した。

 そういう生活は、自然に対して謙虚になるものだろう、天気が荒れても「ごめんなさい」と謝れば許してくれるものでもない。広く科学知識を求め、それに従う精神が横溢していた。
ここに良弁の性格を考えるポイントがあると思う。
宗教の修行僧だが、比較的バランスの取れた性格だったように思う。
唐に留学することなく、仏教を極め、その仏教を国の中心に据え、国をまとめていった。神仏の争いを神仏習合という形に収斂させ、より強固な国家を目指した。

 良弁と伊波の性格は、一見正反対ともいえるが、新しいものを創造し、生み出すものの価値を高めること、新しい需要を切り開くことなど似たことをしていた兄弟なのだ。
ほかの宗教家と決定的に違うのは、伊波のような兄弟を持っていたということと言える。
 
 
7-3.相模の宿禰の意味律令国造
《神護景雲二年(七六八)二月戊寅【三】》○戊寅。従五位下勲六等漆部直伊波賜姓相摸宿禰。為相摸国国造。
相模の宿禰となった漆部直伊波は、相模国造になり、律令前の国造は、その土地の豪族が成りますが、律令以後の国造はこれとは異なり、「その国の祭祀を掌る」国造にその性格が変わりました。相模国式内社の中に漆部直一族とのゆかりの残るものがありますが、まさにこのことが由来と思われるのです。
 
 
甘縄神明神社 主祭神天照大御神、配祀神倉稲魂命伊邪那美命武甕槌命菅原道真
当社の略誌によれば、和銅3年(710年)に行基が草創し、豪族染谷時忠によって創建されたといわれる。
比比多神社(ひびたじんじゃ) 神奈川県伊勢原市上粕屋に鎮座する神社。『延喜式神名帳』記載の比比多神社の論社。別名「子易明神」(こやすみょうじん)。祭神:神吾田鹿葦津姫命(木花咲耶姫)
天平の頃、当国守護染谷太郎時忠が国の安土・子宝を願って勧請。安産の祈祷に霊験あらたかであったと伝わっている。

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比々多神社(ひびたじんじゃ)は神奈川県伊勢原市三ノ宮に鎮座する天平年中鎌倉鎮将の染屋太郎大夫時忠の霊を祀ったとの記述である。
主祭神 : 豊国主尊、天明玉命、雅日女尊、日本武尊
相殿神 : 大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)

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最後まで拝見させて頂きました。この時代の事は史実のみを簡素に習いましたけど、神話から仏教文化への移り変わりが解りにくいですよね。人物像が知れると東大寺が建立された背景が垣間見れた気がします。

2019/3/7(木) 午後 5:28 [ kawantyu ] 返信する

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kawantyuさん 最後まで読んでいただき恐縮です。良弁は、厳しくも誠実な人柄が、一番印象が強く、ここまで聖武天皇に信頼されれば、それをうまく利用しようとする野心が働くものです。その心の隙が生ずる部分を弟の伊波が、補う関係があったのでしょう。
良弁の神仏習合は、自然がキーになっているのでしょうね。

2019/3/7(木) 午後 9:30 sagami_wan 返信する

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