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良弁僧正物語 後書


良弁僧正物語 後書
先に、「良弁僧正物語」をまとめたが、その最中にYahooブログの終了告知があり、慌ただしく過ぎてしまいました。
そこで、少し書き加えたいことなどを後書としてまとめました。
 
1漆部氏の系譜について
漆部氏一族は伊勢津彦命の系譜とするものがあります。大化の改新による律令制の成立以後、相武国と磯長(師長)国が合併して相模国が成立した。漆部氏の本貫地が、相武国とした場合、同国造の後裔氏族は、「壬生氏または漆部氏。姓はともに直。」となっています。
漆部直伊波は「相模宿禰」の姓を賜るとともに、相模国の国造に任命されました。相模国に本貫があることから賜ったものであり、律令下の国造は、地方の神祇祭祀を統括することを主な任務とする役職でした。律令以前の土着豪族と同列には扱えません。
上記の「または」には、そんな意味込められているのでしょう。
 
そこで研究者の見解を紹介します。
「大住・高倉両郡の郡司家は壬生直(みぶのあたい)氏であることから、相武国造家は壬生直氏と想定されている。
律令制以前の国造は、ヤマト王権から与えられた官職で、この国造も壬生氏であったと推定はされています。相模国分寺の創建を考える時、造営体制は、設置場所などの関係から概ね旧相武国=壬生氏が中心となって行っていたことが分かった。」としているのです。
 
次に、漆部氏一族の相模での本貫地がどこなのか。その点を特定しないと、何処の国造なのか決められないのです。相武国か磯長国なのか、どちらの可能性もあります。
漆部氏の本貫地についての秦野市史の見解を紹介します。
「『東大寺縁起絵詞』に良弁の出身地を大住郡漆窪と記されている。漆部氏出身の漆部伊波と良弁は、秦野市北矢名周辺一帯の出身者と推定される。」としています。
 
本「良弁僧正物語」でも、この説を参考にしました。「漆窪」近隣遺跡の中から、最も先進性のある秦野草山遺跡を本貫候補地としたのです。

イメージ 3
      ネットから借用し編集

近年の研究では、別の視点で検討している研究者もいます。
漆部氏一族が隆盛を極めた奈良時代創建の寺院に着目し、漆部氏の本貫地を推定しようする手法です。
たとえば、「各寺院の造営氏族は各郡衙の評督層(郡司層)であろう。足下郡の千代廃寺は中央官人で相模国造を賜った漆部直伊波の本貫地の人たちであろう。余綾郡の吹切遺跡も同じかもしれない。」
あるいは、「千代廃寺の建立主体者を後期古墳に求めたが足柄平野になく、結果として大磯町釜口古墳にたどりついた。」
 
2.良弁がどんな人物だったのか、
その経歴をもう一度振り返ると「幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだ。さらに慈訓について学び、華厳宗の奥義を受ける。東山 (奈良県生駒市)に隠棲し、自ら彫刻した執金剛神像を安置して、日々鍛錬して修行にはげみ、金鐘行者の異名をえたところ、聖武天皇の耳にとまり、羂索院を賜り、これがのちに改名されて金鐘寺となった。」Wikipedia
伝戒師鑑真(がんじん)一行が東大寺に詣(もう)でたときはこれを迎え、聖武上皇の死去にあたっては生前の看病の功により、また仏教界の領袖(りょうしゅう)とし鑑真とともに大僧都(だいそうず)となり、その後760年に仏教界の粛正のために、僧尼位(三色十三階制)の整備に中心的役割を果たした。763年(天平宝字79月に僧正(そうじょう)の極官に補せられた。

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 仏教界に領袖が二人もいる事になり、両雄並び立たずの言葉通りだったのか、鑑真は東大寺を去り、貴族の屋敷跡を用意され、私寺唐招提寺を開いたのです。

しかし「東大寺大僧都良弁によって東大寺を追われた鑑真」とする見方は、一面的過ぎるでしょう。
軋轢があったことが想像されますが、その原因を作ったのは朝廷なのです。

朝廷は、鑑真を利用しようとした節があります。
「朝廷は鑑真の受戒を受けた者にだけ僧の身分を与える事にしました。
免税狙いの僧侶を減らす政策に鑑真を利用したのです。当然優秀な僧を育成したい鑑真と対立します。鑑真は政治の中枢に身を置けなくなったのです。」
 
エピソード1
鑑真廬舎那仏を認めず
和上は良弁に奈良の大仏に案内されて、良弁から、・・・唐中に頗(すこぶる)る此(かく)の如き大像ありや? ときかれ、和上は通訳を介して、・・・更に無し。と答えている。(新美術情報2017鑑真和上)
「更に無し」とは、文言通りだろう、廬舎那仏を批判する意図はなく、「自分にとって大事なことは、日本に最も欠けている律学専修の道場をつくること」と思っていたのでしょう。
 
エピソード2
鑑真経典借用を良弁に申出る
渡日翌年に書かれた東大寺の良弁に経典の借用を申し出た鑑真奉請経巻状がある。
良弁は、借り入れの申し出を受け入れ、経典を貸与したとあります。

イメージ 2
 
似たシーンが、「空海の風景」に
経典の貸借と言えば、司馬遼太郎の「空海の風景」の中で、空海と最澄の間で密教経典の貸借が書かれている。
「空海を、「喰えないひと」、「あざとい一面がみられる」、などと評している。」司馬遼太郎の描く空海と比べ、良弁の態度はいささかの駆け引きもなく、鑑真の経典借用に応じている。
 
鑑真は、良弁の小細工しない、実直な人柄、政治に関らないところに、自分に共通するものを感じたのだろう。それが経典の借用に及んでいたと考えたほうが良いと思う。
 
3.弟漆部直伊波のこと
良弁が、行基、道鏡と違うのは、弟伊波の存在です。海運業務を手広く行いながら莫大な私財を廬舎那仏造営に寄進する、並外れた経営能力のある優秀な弟と二人三脚で東大寺の運営にあたることができたのです。今でいう民活によって、東大寺を運営していたのです。
東大寺の財政は、4000町歩の荘園などからの収入など江戸時代の大名並みの規模です。
聖武天皇は、その財政運営を僧侶の良弁に任じたのです、優秀な経営能力のある人材を求めていました。
道鏡はこんな弟もマネージメント能力も持たない結果、野心の果て欲望を暴走させます。行基に経営能力を求めるべくもありません。
偉大な事業を完遂させた良弁は、戦う僧侶である一方、教義に忠実な僧として爽やかに去っていく印象です。
 またそれを支えた弟伊波の近代的な商人を思わせる縦横無尽に駆け巡るダイナミックな姿、両者の絶妙な協力体制も見事でした。
10世紀の混乱期を乗り越えた末裔たちの姿も見えてきたように思います。
 

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