相模湾 海から見る風景

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シッタカ貝

シッタカ貝
今日の海は、大きな波が打ち寄せ、サファーも和賀江島の浅瀬で発生する高波を探している。

イメージ 3

先日までの潮が大きく引いたときの磯遊びの光景が今は懐かしくも感じられます。
潮溜まりでの逃げ遅れたタコ採り、シッタカ貝の採取などだれでもできる遊びです。

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    シッタカ貝は、三角錐の巻貝で、居酒屋では、突き出しとしてよく醤油煮にして出されることがあります。楊枝や串などで身を刺して食べます。この店に突き出しが楽しみでよく通ったことがあります。
 
このシッタカ貝は、当地方では以前ほど採れなくなったようです。
それではシッタカ貝をどうすれば手に入るのか。魚市場に聞いてみた。シッタカ貝はとるのに手間がかかるので、獲る漁師がいなくなったと言うのです。
 
ところがあるところにはあるのです。友人たちと飲むとき、店を冷かしながら歩くのが常ですが、そんな店の一つに、少品種だが粒ぞろいの物を扱う小さな魚屋があります。
その店頭にシッタカ貝がざる一杯に盛ってあった。これから飲みに向かう途中で、置忘れを心配して、帰りに寄ることにしたら、すでに店が閉まっていた。

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     それがつい先日、開店準備の時間に、箱にシッタとマジックペンの字が見えた。この写真の量で500g強1300円でした。
この魚屋は、居酒屋を併設し、酒の肴をそろえているのかもしれない。
房総物かと思ったら、三重県産でした。
 
  これが家庭で磯気分を味わうに最高の味を醸し出してくれる。塩茹でで楽しみました。
貝の薄い蓋と身の間に楊枝など先の尖ったもので身を突き、巻きながら引き出します。楊枝ではうまく刺さらないこともあり、より細く硬いもの方が良い。
 
    この身を巻きながらくるりと抜く作業が、まるで磯遊びの続きのような気がしてくる。
巻貝に付いた藻も、何ともいい雰囲気があっていっそう磯気分をかき立ててくれるのです。


    この貴重な、磯気分を味わえる世界に誘ってくれる魅惑の『どこでもドア』となったこの小さな魚屋、本当に間口が1間ほどのドアみたいな店でした。
 
 

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日本の味のルーツ紀州

日本の味のルーツ紀州
前回カツオ釣りに弓角を用いた漁法が5世紀から開発されていたことをご紹介しました。
この釣り方は、紀伊半島西部の遺跡から出土したものが、一番古いものと言われています。

 黒潮は、紀州から、房総沖に大きく蛇行しながら向かうことを知っていた紀州の漁民は、カツオを追って、遠く房総、東北まで行き戻りカツオとともに下りながら交易・移住を繰り返しながら漁業を続けている様子が分かっています。

 紀州の漁民の活動力には舌を巻きます。進取の精神、技術力、航海術、漁業そして忘れてはいけないのが味の開発と伝搬に果たした役割でした。
カツオの煮干しをつくるさいのゆで汁は,古くから堅魚煎汁(かつおいろり)とよばれて調味料としていた。このカツオのゆで汁の先に、鰹節が生まれています

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         気象庁黒潮の流れ
 
    紀州という土地に改めて注目したいと思います。
海の高速道路と言える「黒潮」に近く、リアス式海岸線の良港を備え、ヒト、モノ、カネが集まる条件を備えていた。

 弥生時代には、人々は積極的に平地を開拓し、水路を引いて、水田を作り、住居を築いて、本格的な村作りを行いました。4世紀から6世紀の古墳時代には、有力な豪族により古墳が多数築かれました。河川や海を介して遠方の地域と密接なつながりをもっていた勢力の存在をうかがい知ることができます。

 紀ノ川南岸の岩橋丘陵には、総数が700基にも及び、全国的にみても屈指の規模を誇る岩橋千塚古墳群が形成され、特色のある横穴式石室が多く築かれています。(和歌山市の歴史より)
 
紀ノ川沿いに紀伊は都が近かったこともあり古来より航海術、船造り、漁業が発達していた。山がちの半島では人々は農業などに従事することが難しく、漁民は遠くまで漁場を求めて出かけて行くことを余儀なくされていた。伊豆半島、三浦半島や房総半島にもこうして紀伊の人々がやって来るようになっていた。
 
イメージ 2
       和歌山県遺跡地図

 「日本の味のルーツは和歌山にあり」とは和歌山県のホームページにあるキャッチフレーズだが、南高梅を第一に挙げている。
驚くことに、味覚の「塩、味噌、醤油、砂糖、酢」という五つの基本調味料のうち、味噌、醤油の発祥地だと言うのです。味噌、醤油を導き出した源泉は、このカツオのゆで汁であり、その先に、鰹節が生まれています。

これは、和歌山県でなくとも、味のルーツは和歌山県と言いたくなります。
味覚の拡がりは、長い歴史の積み重ねの中で、味へのこだわり、探求心や黒潮に挑戦した人々の血がそうさせたのかもしれません。
 
魏志倭人伝の中で描かれる倭人と呼ばれる人たちの生活風俗は、臭いの強いものを避け、淡泊で礼儀正しい。清潔好き、質素ながら小ざっぱりした身なりの人々といった印象とは少し違う、色鮮やかな暮らしが見えてくるような気がします。

追加 6/29

イメージ 3

上の図は628日の海況です。太い点線が、黒潮の本流です。100km幅で、毎時24ノット(47.4km)の海流が、本州沿岸を南から北に移動します。
当然本流の周辺の海流も同じ方向に早さは違いますが流れます。三浦半島と大島との間の本線航路も早い流れがあります。


黒潮本流と本州の間も黒潮の影響受けて、海流が生じています。

カツオが相模湾に入る水温に到達していないことは明らかでしょう。伊豆大島の南がカツオの適水温の北限なのでしょう。
紀州の漁撈民は、こういう海水温や黒潮の流れを把握して、適水温の海域を巡っていたと思われます。

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5世紀の弓角による古代のカツオ釣り
佐島で上がったカツオが魚屋の店頭に並んでいた。愈々カツオのシーズンが到来する。カツオを釣る方法は、遊漁船ではコマセ釣りがあるが、職漁船では、カタクチイワシを撒き、1本釣り用の疑似餌で釣ります。
漁師は曳き釣りという弓角を曳く方法も良く行います。私たちもよくやりました。
下の写真は、その時に釣ったカツオと弓角です。この弓角をボートで曳くとカツオが追っかけてきます。
この弓角でのカツオ釣りの起源と思える説話が、残っていますので紹介します。。
 
イメージ 1これは、『高橋氏文』と呼ばれる文書です。高橋朝臣(膳臣後裔)が、遠祖・磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)以来と称する、天皇の伴御のことに奉仕した由来について述べたものです。
景行天皇が、その子日本武尊の東国平定の地巡った際の話です。
 
「上総国安房の浮島宮へご到着された。このとき、磐鹿六命も天皇の一行に従っていた。
 天皇は葛飾野へ行幸して、狩りをされた。そのとき、大后の八坂媛は仮の宮にいらっしゃり、磐鹿六命もまた、留まって大后にお仕えしていた。
(中略)
帰るとき、船の艫のほうを振り返って見ると、魚がたくさん追いかけてきた。そこで、磐鹿六命が「角弭つのはず」の弓を泳ぐ魚たちのなかに入れると、魚がにかかってきて、たちまちたくさんの魚を獲ることができた。そこで、その魚を名づけて、“頑魚(かたうお)”と呼んだ。これを今の言葉で“カツオ”という。[今、角を釣り針の柄にしてカツオを釣るのは、これに由来する]
磐鹿六命は、無邪志国造の上祖大多毛比(おおたもひ)、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖天上腹らを喚び寄せ、さまざまに料理し盛りつけた。
磐鹿六命は、狩りからお戻りになった天皇にカツオを献上したところ、「天皇の食事に関わる職掌に清め慎んで従事せよ」と、膳臣という氏姓を賜わったとしている。」
 
ゆはず【弭】とは
弓の両端で弦をかけるところをいう。
弓の先端部に装着し、弦を結びつけるためにつくられたものと考イメージ 2えられています。シカの角を用い、中心部の海綿質部分をくり抜いてソケットとし、外面は溝や段を設けて紐を結びつけやすくしてあります。
 
[今、角を釣り針の柄にしてカツオを釣るのは、これに由来する]とあるので、骨で作った角を柄にして釣針をつけた、現在の弓角を指していると思います。
この説話の時の釣り方は、文言通り「弓の先端の角弭を海中に入れた」のかもしれません。
 
しかし私は、もう少し、進化させて弦を外して、釣り糸宜しくそイメージ 3の先に角弭をつけ、弓のしなりを竿のように使い、海中に放り込んだのではないかと考えます。多分釣針を仕込んでいたのでしょう。そうでないと大きなカツオを船上まで引き上げるのは難しいのです。
まず、この説話の時代設定を考えてみましょう。
それは、磐鹿六命ムツカリが、武蔵国造・知々夫国造らを呼寄せ調理した記述が出てきます。ヤマト王権の東国経営は、房総各国、武蔵国に及んでいた時期だったのでしょう。
 
また、景行天皇が葛飾の野での狩りを行う意味は、毛野地域には未だヤマト王権の支配が及んでいず、葛飾は、地政学的に北端が毛野国に面しており、毛野より流れる太日川(江戸川)が中央を貫く特別な位置関係にあります。
イメージ 4軍略上最重要な位置にありました。
天皇の葛飾の野の狩りは、前線の兵站基地視察だった可能性さえあるのです。
以上のことを総合的考えるとこの説話の時代設定は、5世紀以後と考えられます。
 
さてその時代のカツオ釣りの状況を三浦半島の考古学出土品から見てみましょう。
 




考古学の出土品から
 
三浦半島の考古学に関しては、横須賀自然・人文博物館稲村氏からの教示によります。
イメージ 5この説話の時代に進化した角製の組み合わせ式釣り針が、鴨居八幡社貝塚で出土しています。
また棒状土錘(弥生時代末期〜古墳時代前期)も鴨居上の台遺跡から出土しています。
どちらも紀伊半島の西岸から瀬戸内東部にかけて特徴的に見られる道具です。
このことから、当時すでに紀伊半島沿岸の漁猟民たちが、カツオなどを追って三浦半島までやってきた可能性が高いことになります。












紀州と三浦半島の交流
紀州の漁民は、外洋性回遊魚カツオを追って、黒潮に乗り三浦半島にやってきていた。カツオ漁の漁法は、45世紀頃には、紀州から三浦半島に伝えられていた。
洞窟遺跡には、大型鉢形土器を使い、鰹節の起源になるような製法によって、生節や、カツヲ出汁を作っていた。長期に滞在し、三浦半島近辺の住民と物々交換、交易をおこなっていたとみられます。かつお出汁を使っていたとは驚きですね。
 
カツオを巡って、東京湾と紀伊半島沿岸は繋がっていました。古代・大和と紀伊の文化交流を考えれば、大和と三浦半島の航路があったことは十分に想像できます。
紀州の漁民たちは、運搬の任務を担っていたともいわれます。漁撈民が輸送にかかわっていた。渡来系集団は、大量輸送を始めていたようです。
輸送集団・ピストン輸送の登場は、その後の律令体制がスムーズに移行する要因にもなったといいます。
 
カツオの弓角による漁法
南紀の漁猟民の活動は、東西の文化を繋いだのでしょう。あるいは、王権の東国平定にも大きな役割を果たしたでしょう。
南紀の漁猟民は、黒潮に乗って東国までカツオを採り、交易をおこなってきたのです。
イメージ 6生節やかつおだしの製造を通じ日本の食文化の変革をもたらしたのです。天皇の食を職掌したムツカリらと強い関係があったことも想像に難くありません。海人族恐るべしです。
さて、その5世紀のムツカリのカツオ釣りを振り返ると、時代的には、合理的で革新的な大量採捕の漁業が開発され始めていたと言えます。
にもかかわらず、何故あのように神がかり的な説話的になっているのでしょうか、そこには神がかり的に描く意図があったと思われます。5世紀よりもっと前の時代からムツカリ一族の存在の主張でしょう。それを挿話として入れた可能性があります。
そしてその説話には、弓角、竿の出現を予想する弓のしなり、釣り糸など後代の釣道具の進化を予言する仕掛けが入っているのです。カツオ釣りの道具などの開発や、カツオなど水産業を育ててたのは、私たち一族だと主張する説話でもあったのです。
 
実際に大きな役割を果たしたと思います。5世紀の段階でカツオ漁を通じた東西の文化交流、交易、かつお出汁の普及など個人の努力とはとても思えません。
ムツカリ一族の日本の食生活・味覚の面で果たした役割は大きかったと思います。

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作法と言っても何も鎌倉の商店に入る場合の所作を指しているのではありません。
商店には、客が買いやすい、また和めるような雰囲気造りや客対応を心掛けているものでしょう。居心地の良い店を作ることを目指している店は多いと思います。
 
鎌倉時代以来この地に住む一族の人が、自分の店を閉じるときに、鎌倉の商人の生きざまを語ったことがありました。その時、「鎌倉の商店の中には、自殺願望の人の話に耳を傾け、自殺を思いとどまらせたケースがある」と聞いたのです。鎌倉は観光名所として有名だが、自殺のスポットではないのに何故と思いました。
ゆっくり客の話を聞いてあげる雰囲気、店のたたずまい。商店の側も最初から、自殺を防ごうと思って対応をしているわけではないでしょう。
客接待の作法とは、一つには間合いと言いかえても良いと思います。
そこにはどんな間合い、目に見えない作法があるのか。少し探ってみたいとおもいます。
 
私たちの暮らす社会はストレスが多く、ひとときの解放を求めて異空間を探すには、鎌倉は格好の場所でしょう。非日常の空間で、日頃憧れたイメージをかたどった何かを求めているのでしょう。
鎌倉という土地柄、そこに癒しとか、悠久の歴史の中に身を置きたい願いから始まる何かがあるのでしょう。古寂びた店のたたずまいなどは、まさにぬくもりを感じさせます。

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そういったロケーションとか、道具だてが鎌倉にはあるのです。加えて商店主の対応の作法があれば、客との間で、独特の雰囲気を醸し出し、それがまさに間合いとなって現出するのでしょう。
どんな客対応をしているのでしょうか。鎌倉は、個人商店が多く対面販売が主となります。
個人商店の対面販売ならではのゆっくりと客の話を聞く様子がうかがえます。
この雰囲気が、結果として自殺を思いとどまらせることにつながったのでしょう。
 
そもそも「癒しを求める旅」というからには、そこにはまさに病気の治療という動機があったのです。癒されて再び、日常に戻っていくという本来の目的がここでは果たされていたのでしょう。
 
自殺を防いだ店ではないが、若い女性が深刻な表情で話しをしに来る場面を見かけたことのある商店主の話を一つ紹介しましょう。
「お客さまが話をしたがっている、何かを求めているからやってくるのではないか。来ればいつも話を聞いています」という。
地方から来る人と話しをするのが好きだと言う女主人もいます。
商売をしながらそんなことにも対応しなければならないとは、観光地鎌倉での客商売とはいえ大変なことなのです。
 
こうしてみてくると、客の接待に特別のものは見当たりません。
客としてより人として迎えている様子があります。人との対話を大事にする姿勢があるようです。
「癒しを求める旅」に出てきた人たちに、気軽に話しかける商人の姿は、今は失いかけた人の気持ちをほっこりさせる何かが残っているのでしょう。それこそが商人の作法なのだと理解しました。
これは鎌倉のみならず、きっと各地の観光地の古い商店によく見かける光景なのでしょう。遠方から来た人を優しく迎え入れる心に起因することなのでしょう。日本人の持っている特性なのか、もてなしの心と言えるものなのか。今後考えてみたいものです。

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昭和の定食屋

昭和の定食屋
 
昔懐かしい定食屋は、コンビニ弁当などに追われ目にすることが少なくなりました。
先日、旧友たちと鎌倉を散歩していて、昼時何処で、食事するかで悩んだ。
鎌倉は行列して食事を待たねばならず、ゆっくり食事をするところが少ないのです。
結局歩き回るだけで、思いついたのが、鎌倉東急ストアわきの鄙びた丸七商店街入口定食屋「郷さと」、同時に二人が行ってみようと閃いたのです。

   カウンターが10人くらいの席があった。既に5人客が入っていた。60代の女性と息子が経営する店。昔ながらの定食屋であったが、11時半から開店するのだと言う。
サバの塩焼き定食を注文する。この種の店の鯖は脂がのって旨い。腹の脂の旨さは、大根おろしで食べるのが最良だろう。仲間は鰈の煮つけやカツヲのタタキなどをそれぞれ注文した。

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私たちが学生の頃は、こういう店が学校の周りにたくさんあって、魚フライ定食70円だった。ハイライトという喫茶店はたばこのハイライトが70円から命名。70円でコーヒーが飲めた。そんな話を思い出させるに十分なレトロな定食屋である。

以前は、銀ムツ定食の札があった。一度入りたいと思ったが、食事をしたばかりで、二の足を踏んでしまったことがある。
銀ムツの話題を女将に振ると、「メロですよね。以前扱っていたが、高くなって、値段を上げられないから出さなくなりました」と言うのです。脂があって蕩けるようなおいしさはクロムツの比ではないと懐かしむように言います。
 
数年前までは店頭で銀ムツと表示されていたが、法が改正され、銀ムツという表示では販売することができなくなり、店頭ではメロという名前で売られています。
だから女将がメロと言ったのが今は正しい表示なのです。正直な店なのです。少し高くして提供してくれればいいと思うのですが、どこまでも昭和の定食屋は頑固で嘘のないことを信条としているのでしょう。

この日のお客は、中年女性の二人連れと、鎌倉観光の中年夫婦、工事業者と多彩だが、皆昭和の定食屋の味を知っている人たちばかり、勿論私たちはその真っ只中にいます。
 
ここだけ昭和で時が止まっているような遠い日を懐かしむ気分に浸った昭和定食屋さんでした。

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