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良弁僧正物語最終

良弁僧正物語最終⑥
――その後の良弁一族――
 
8.その後の漆部直一族
 奈良時代の鎌倉に「由井の長者」と呼ばれる染谷太郎太夫時忠という謎の人物がいます。実はこの人物が、宿禰になった漆部直伊波そのものだったのです。そう良弁僧正の弟の東国任地での姿だったのです。
「長者染谷太郎大夫時忠の愛児が3歳の時に鷲にさらわれ、探し求めても見つからなかった。父母の悲痛は大変なもので、散らばった骨片や肉の塊があると『これが我が子の骨か、あれが我が子の肉か』と思い、その場所に塔を立てて供養し冥福をいのった。」という逸話があります。

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仮にも良弁の父が、中央官人だとしたら、鷲にさらわれた伝承など生まれるだろうか。東六か国惣追捕使となれば、中央官人そのもの、考えられない話だろう。
これは、漆部伊波の中央官人としての活躍と良弁僧正の父という成功伝説を結び付けただけだろう。また良弁の出自の中で明確な父親像が浮かんで来るはずだ。
大出世した伊波の話を父親とした作り話とみてよいだろう。
「漆」の略字「(しつ)」を「染」と写し間違えた説は説得力がある。
 染谷太郎太夫時忠と漆部直伊波は、同一人物とみてよさそうだ。
この一族も他の豪族同様平安時代中期には没落していきますが、一族のその後も追ってみましょう。
平安時代の前期まで、漆部直一族の末裔が、続日本紀に名を遺すほどの繁栄を見ましたが、他の豪族と同様、10世紀には没落していきます。
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10世紀の古代集落の終焉の主たる要因は、在地領主層であった郡司層の没落によって、支配のくびきを離れた住民の自立しようとする欲望、有力農民の台頭などによる農民呼び込みであったといわれる。地域内での移住を繰り返していたと考えられている。(秦野市史)
 
鎌倉の神社宮司家で最も古い家系の小坂家は、永保年中(1081-1083)年以来の宮司家です。
小坂氏は、苗字のほかに古代の氏姓制度の部民の漆部(ヌリベ)氏を名乗り、伝えています。
相模国の漆部氏といえば、奈良時代に国造に任じられた相模宿禰がいます。漆部伊波の家系です。
当時の国造は、いわゆる「律令国造」と言われ、律令以前のその土地の豪族ではなく、神祇祭祀を掌ったと言われます。
同一国内の同じ漆部氏を名乗り、しかも同じ職業神職とあれば、真っ先に、「宿禰となった漆部伊波一族の命脈がこの八雲神社漆部家に残り、この宮司家を継承してきた」と思い浮かびます。漆部氏は、当初漆の職掌を表し、伊波に至って、祭祀を掌ったのです。
 
 
義光が、祭祀を掌る神職を関東まで伴ったとは、考えられません。後三年の役で、兄義家が苦戦と聞き、駆けつけた義光にはそんな余裕はありません。
  現地相模の神職だった八雲神社宮司の先祖漆部氏を、真っ先に指名した可能性が高いのです。そこで新たな神社を創建する余裕が、義光にあったのかということになります。
漆部氏小坂氏が、八雲神社の神主に就く永保年中平安時代の末期までの空白の百数十年は、まさに律令制度の崩壊し混乱期の真っ只中でした。
この間の漆部宿禰伊波は、相模国で神祇祭祀関係に深く従事していたことが明らかになっています。その後裔たちも神社に関わりながら漂泊していたと推定しました。
相模国の古社との強い関係が続いていたと見たほうが良いと思えます。
 
たとえば、鎌倉最古の神社・甘縄神明神社は、漆部直伊波(後の名を染屋太郎大夫時忠)により創建されています。屋敷跡が由比ヶ浜にあったそうです。
 また大住郡の式内社三宮比比多神社は、『新編相模国風土記稿』に記述されている、当社社頭の梵鐘(現存せず、戦時供出により失った)の銘文にあった、「天平年中鎌倉鎮将の染屋太郎大夫時忠の霊を祀った」との記述があります。
 
平安時代の鎌倉
五味文彦・馬場和雄編『中世都市鎌倉の実像と境界』の中の「中世都市鎌倉成立前史」で平安時代の鎌倉の様子を見てみましょう。
「平安時代末期の鎌倉は、意外に通説よりも多くの人の往来する場であったと考える。というのも、鎌倉中心部には、四つの都市神に周囲を守られるような集住形態が頼朝入部までに存在していた、とみられるからである。」
 
イメージ 3平安時代までの旧体制が崩壊していく中でも神社の神職の世襲は、比較的安定して続いていたようです。
そこで、大町八雲神社は、永保年中以前からこの地の鎮守として、出雲神族の櫛稲田姫を守っていたと想定しました。
その後義光が京都の祇園社を勧請するに従い、主従の関係を結んだのかもしれません。
新しく神社を建立したのではなく、既存の祭神櫛稲田姫神を祀る神社に素戔嗚命を夫婦神として祀り、祇園社を勧請した思われるのです。
 
大町八雲神社の近くに1063年源頼義が前九年の役で東北に赴く際、石清水八幡宮を勧請して「元八幡」をお祀りしています。また兄義家は、永保元年修復します。
八雲神社は、そこから300m程内陸部に上がった既存集落の中にあります。古い集落の中に新たに神社を創建した場合、結果的にせよ父勧請社を村落外に押し出すことになります。櫛稲田姫に素戔嗚命を添わせ、祇園社を勧請したのであれば、村人だけでなく誰もが納得するでしょう。兄義家も修復で済ませているのです。義光もそれに倣い、既存の神社に祇園社を勧請したのです。
八幡神は、源氏の守り神ゆえ、その後源頼朝は、この元八幡を小林郷北山に遷座し、八幡宮を中心に街づくりを行ったのです。
 
最後に
以上良弁僧正一族は出雲族であったという仮説を立て述べてきましたが、出雲族と解することが、良弁をよりよく理解できる手助けになったと思います。
「諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立する」ことで東大寺を中心として日本をまとめ上げていく。そこには、仏神の新たな姿、出雲も大和も融合した一つの日本の進む方向性を示す良弁がいました。

 またそれを支えた弟伊波の近代的な商人を思わせる縦横無尽に駆け巡るダイナミックな姿、両者の絶妙な協力体制も見事でした。10世紀の混乱期を乗り越えた末裔たちの姿も見えてきたように思います。

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良弁僧正物語

良弁僧正物語
――弟伊波の寄進、海運業の展開――
 
7.伊波事績 寄進
伊波は、良弁の少し年の離れた弟にあたる。良弁が東大寺創建時の苦労をしているとき、弟伊波は、共同歩調をとったと思われます。国家的な事業で、多くの資金を使い、犠牲者もたくさん出ていました。伊波が負う部分は相当あったでしょう。
良弁が大仏造営を進言した天平15(743)5年後に商布二万反を廬舎那仏に寄進し、初めて公に名前が出ました。出世の階段を昇り始めたのです。良弁は伊波を中央役人に推挙したでしょう。東大寺の役人と共同歩調をとっていたでしょう。聖武天皇から東大寺の経営も任された良弁にとっては、必要不可欠の機能を伊波は担っていたのです。

 他者に説得的に働きかけ、リーダーシップを発揮して人をまとめたりすることの得意な伊波は、海運業、役人向き、良弁との二人三脚は見事な効果を発揮しました。
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畿内以外では類例のない出世
そして中央交易圈の中心地に拠点を置き、瀬戸内海水運も視野に入れた活動によって得た財力を使い、中央官僚機構に入りこむことに成功している。その後は、良弁の親近者としての立場も生かし、右兵衛佐をはじめとする京官や尾張守などの地方官を務め、その間には藤原仲麻呂の乱追討の功績で外位から内位への転換も果たした(「続日本紀』天平宝字八年(七六四)十月七日条)。
 
 内位への転換や国守への就任など、地方出身者として類例のない厚遇を得ているのは、彼の財力や良弁との関係によるものと推測される。つまり彼の珍しいほどの立身は、逆にいえば当時の畿外出身者の中央における限定的な立場(通常は兵衛・舎人程度に止まる)を示していると見ることができるでしょう。(平安中期における地域有力者の存在形態)(渡辺滋)漆部直伊波の類例のない厚遇
 
7-2.漆部伊波と難波
難波での活躍の様子を大阪市史から見てみましょう。
「漆部伊波という難波に関係の深い中級官人は相模国の地方豪族の出身で、商布の売買によって蓄積した私冨を基に、在地と中央とを結ぶ遠距離交易を行っていた。彼は、大量の私冨を東大寺大仏造立の費用の一部に献上し、それによって外従五位下という貴族の最末端の位階を与えられた。このことを契機に、彼は中央の官僚機構の中に入り込むことに成功し、様々なポストを歴任していった。しかし、彼は中央の下級貴族化してからも、在地との関係を保ち、中央では平城京の東西市の交易に関係を持ち、在地と中央を結ぶ遠距離交易を行い続けたとみてよかろう。

 漆部直伊波は、難波の堀江の南岸に面して土地を持っていたのである。この地は、東大寺から買得した可能性が高いが、彼の難波における活動の拠点であったと思われる。
ここを拠点として彼が営んだ活動は、一体どのようなものであったであろうか。
 この地の周辺一帯は、難波における水上交通の中心である難波堀江に面していた。このため、この辺りには、宮司や寺院・貴族の荘が続き、倉庫が立ち並び、難波における交易の一つの中心となっていたとみられる。そのような地城に、漆部伊波が、東大寺との関係を利用して土地を人手したのである。しかも彼はこの土地を入手したころには、すでに平城京の東西市に廛を出し、東西市を中心とする流通経済に関与する一方、一貫して遠距離交易活動にも従事していたと思われるのである。
 
以上のような諸点からすると、漆部伊波は、この地を交易活動の拠点としていた可能性は極めて高いといえよう。相模と中央を結ぶ遠距離交易を行っていた彼は、平城京の東西市に拠点を確保するとともに、難波にも拠点を確保し、難波を中心とする流通経済にもかかわっていったのである。難波を中心とする流通経済は、瀬戸内海を介して、西国に展開する流通経済とも連なっている。
 こうして彼は、東国−平城京−難波−西国を結ぶ広範囲な交易活動を行っていたのであり、難波に確保した土地は、このような彼の遠距離交易活動に、不可欠の拠点てあったと思われる。以上大阪市史1 奈良時代の難波 902-903
 
 
良弁はどんな人柄・性格
伊波の時代を超越した遠距離横断的商社活動を発想実行した類いまれな精神、起業家精神は、良弁のこれまでの歩みから見える性格と大きな違いがあるように思える。
良弁は、原理原則を極め、一つのことに没入する宗教者。とはいえ、修験道に励み、自然の中に身を置き、金鉱探索に山に分け入り、そこに人間や自然を越えた超越的な存在を求めていた。同時に金塊を探し廬舎那仏を造営することに没入した。

 そういう生活は、自然に対して謙虚になるものだろう、天気が荒れても「ごめんなさい」と謝れば許してくれるものでもない。広く科学知識を求め、それに従う精神が横溢していた。
ここに良弁の性格を考えるポイントがあると思う。
宗教の修行僧だが、比較的バランスの取れた性格だったように思う。
唐に留学することなく、仏教を極め、その仏教を国の中心に据え、国をまとめていった。神仏の争いを神仏習合という形に収斂させ、より強固な国家を目指した。

 良弁と伊波の性格は、一見正反対ともいえるが、新しいものを創造し、生み出すものの価値を高めること、新しい需要を切り開くことなど似たことをしていた兄弟なのだ。
ほかの宗教家と決定的に違うのは、伊波のような兄弟を持っていたということと言える。
 
 
7-3.相模の宿禰の意味律令国造
《神護景雲二年(七六八)二月戊寅【三】》○戊寅。従五位下勲六等漆部直伊波賜姓相摸宿禰。為相摸国国造。
相模の宿禰となった漆部直伊波は、相模国造になり、律令前の国造は、その土地の豪族が成りますが、律令以後の国造はこれとは異なり、「その国の祭祀を掌る」国造にその性格が変わりました。相模国式内社の中に漆部直一族とのゆかりの残るものがありますが、まさにこのことが由来と思われるのです。
 
 
甘縄神明神社 主祭神天照大御神、配祀神倉稲魂命伊邪那美命武甕槌命菅原道真
当社の略誌によれば、和銅3年(710年)に行基が草創し、豪族染谷時忠によって創建されたといわれる。
比比多神社(ひびたじんじゃ) 神奈川県伊勢原市上粕屋に鎮座する神社。『延喜式神名帳』記載の比比多神社の論社。別名「子易明神」(こやすみょうじん)。祭神:神吾田鹿葦津姫命(木花咲耶姫)
天平の頃、当国守護染谷太郎時忠が国の安土・子宝を願って勧請。安産の祈祷に霊験あらたかであったと伝わっている。

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比々多神社(ひびたじんじゃ)は神奈川県伊勢原市三ノ宮に鎮座する天平年中鎌倉鎮将の染屋太郎大夫時忠の霊を祀ったとの記述である。
主祭神 : 豊国主尊、天明玉命、雅日女尊、日本武尊
相殿神 : 大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)

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良弁僧正物語

良弁僧正物語
  ―東大寺の造営と神仏習合―
 
6.東大寺造営の進言
天皇や貴族に華厳経(けごんきょう)を説いていた良弁が諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立することを聖武天皇に進言しました。天平15(743)、これを受け入れた聖武天皇は、時の都であった紫香楽宮(現在の滋賀県)で大仏造立の詔を出しました。大仏は最初紫香楽宮で造られ始めましたが、都が平城京にもどったことに伴い、新たに東大寺が造営され、その本尊として大仏が作られることとなりました。(東大寺ホームページ)
東大寺の大仏を作るのに奔走した良弁も、その前半生は春日奥山で修行した優婆塞であるといわれております。私度僧から身を起こして聖武天皇の悲願を形にした。
かなり前から、良弁は、聖武天皇の意を受けて、修行していた、それは高僧・義淵の愛弟子として得ていた信頼だったのです。奈良三月堂の不空羂索観音は、聖武天皇と良弁の堅い絆の証であり、古くからの象徴だったのです。
一昨年三月堂の不空羂索観音を見たとき、何故こんな厳しい顔や、身体全体に力強さがみなぎっているのだろうかと思ったものだ。その思いが今回の良弁ブログを書かせていたともいえるのです。「大和古寺国宝とじっくり対面」を参照ください。
 
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この場所は、手向八幡もあるが、神仏習合の考え方を良弁は、唱えていたのだろう。宇佐神宮に働き掛けたのが良弁だったように思う。神仏習合の修行を実践していた。この地域が東大寺の根本を成していた。
 
 
6-2.聖武天皇期東大寺盧舎那仏建立のため 良弁が資源開発
元亨釈書塵裏抄にも、聖武天皇が大仏鋳造のために箔を求められた時、金峯山が金山だから良弁僧正に命じて蔵王権現に申請させられた処、夢に「わが山の金は慈尊出現の時、大地に布くためのものだからと拒否され、さるかわり近江国志賀の郡水海の岸の南イメージ 2
に一つの山があって大聖垂迹の地があるからそこへいって祈るようにとの告げがあった。そこで良弁は石山に草庵を構えて祈誓したところ、果せるかな天平二十一年三月、陸奥国から砂金が発見されて官庫に納めることができたので、天平に感宝の二字を加えて天平感宝二十一年といった由が記さている。(金峯神社御神徳畧記)
 
6-3.神仏習合
良弁が目指していた宗教の世界観が、神仏習合であったともいえる。
良弁の神仏習合は前半生の修行の集大成と言えますが、良弁が役行者を追慕したのは、反体制的な風潮から生まれてきた修験道は、大和朝廷が主導する国家鎮護の官製仏教よりも、親近感を感じたのでしょう。高僧・義淵の元で、深く仏教学も極めた良弁僧正ならではの帰結だったのでしょう。大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請する契機になるのです。
大仏造立を助けた八幡大神が上京するとあって朝廷は大掛かりな奉迎を行った。
一方宇佐神宮において、古来の信仰ラインの逆向きの本殿の配置や神宮寺の弥勒寺伽藍の窮屈な配置は、平城京の動向に合わせ南面させた結果であった。これは鎮護国家の理想に合わせようとした宇佐神宮の壮大な計画であった。「八幡神と神仏習合」逵日出典137
この良弁の神仏習合は「国譲りをした出雲と大和王権の融合」を目指したと言える。出雲族の悔しさを乗り越えた自分がいることを同じ出雲族へ伝えたい思いが込められていたと考えられます。
日本を一つにするための東大寺の役割に、神仏習合という息吹を注ぎ込むことによってその後の日本文化の柱にもなっていくのです。
 
荘園4000町歩
749年に東大寺の大仏ができると朝廷は東大寺に4000町歩の土地を開墾してよいことを認めました。今でも各地に東大寺領の荘園であった所が数多く残っているのはそのためです.こうした荘園を現在では初期荘園と呼びます。
イメージ 3一般の農民の力を借りて経営している荘園では1/5に収益が減りました。運送費も荘園主が負担しますから、遠いところでは荘園経営が成り立たなかったといわれています.この時代の荘園分布が近畿・中国・北陸地方に集中していることでそれを証明できるといわれています。
荘園の耕作は、近隣の農民などに土地を貸し与え、借用料を支払わせる「賃租」という土地の貸借形態がとられていた。この「賃租」による貸与料が荘園経営の主な収入であったと考えられている。以上(以上福井県史)
 
東大寺の創建にあたって、広く国民に助援を求めて完成を期した点では、従来の官大寺とは一線を画すものがあった一方、莫大な国費を投入し、民衆生活を圧迫し、律令制の衰退を早めた反面、国際色豊かな天平文化の昇華ともなったという。
東大寺の維持管理について、運営を任された良弁は、目代とした実忠とともに財政面にも腐心することになるのです。

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良弁僧正物語

良弁僧正物語
 
良弁相模時代、関わった社寺

前回良弁(漆部直一族)の本貫を出雲国の可能性を追求しました。いよいよ相模国に移住します。出雲族良弁の創建した社寺から出雲族らしい特徴を探ります。
 
3.相模国時代
 良弁の出自については、幼少期に鷲にさらわれて、義淵僧正に育てられたという伝承があります。二月堂の前の良弁杉は、連れ去られた良弁が鷲にひっかけられた木だと伝えられています。

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 東大寺の記録には、相模の人、漆部(ぬりべ)氏のほか各説がありますが、松本信道氏の研究史総覧を参照しながら続日本紀による事績の明らかな同じ相模出身同時代人漆部直伊波の存在からも、相模国出身の漆部氏としました。
「良弁の出自には、大別してA)相模国・漆部氏(東大寺要録)、B)相模国・百済氏(七大寺年表)、C)近江国・百済氏(元享釈書)の3パターンに分類できる。百済氏説は、本来の記事「相模・百済学生」の「学生」を省略によって生じた誤り、「学生」が省略されたことによって、「百済氏説」が成立したということである。また百済氏説は、本来相模国に付随すべきものである。」以上『東大寺要録』良弁伝について松本 信道
よってA)相模国・漆部氏は、矛盾のなく理解できる説となります。
加えて、漆部直伊波の事績は、良弁と生きた時代が重なり、活動時期・行動が軌を一にし、東大寺との関係もの深かいのです。その両者が、同一出身地・同一氏族であることは偶然とは考えられません。年齢も少し年の離れた兄弟と見ると同一歩調の意味も矛盾なく理解できるのです。両者は協力しながら東大寺の創建に貢献したのです。
 
4.秦野草山遺跡、下大槻峯遺跡
相模国の入植地は何処になるのか。特定するに至りませんでした。相模国のどこかになります。入植した有力な候補地だけを上げておきます。
秦野市内では、漆部や染谷太夫との名前の連想から漆窪太夫久保などが候補に挙げられていますが、先進性のある草山遺跡に注目しました。
「古代西相模の社会と暮らし」大上周三氏によると桜土手古墳群の背景として「新たに朝鮮半島から伝播した農具と農業技術を手にした彼らは、6世紀と7世紀の交わる頃、本来農業生産の場としては不適な盆地地域を農業生産地域へと転換させるため、秦野盆地へ入植し開拓を進めた。」とあります。
古墳群を支えた人たちは、古墳群を見下ろす段丘の上に集落を構え、それが、草山遺跡、中里遺跡、下大槻峯遺跡跡などにあたります。
 
 草山遺跡の位置
 秦野市の中心部は、北を丹沢山地、東西を丹沢山地から延びる尾根、南を渋沢丘陵に囲まれた秦野盆地にあります。盆地の中には扇状地が造られ、周辺に降った雨が地下水となり、盆地東南の地域で湧き出します。草山遺跡は盆地の東にあたり、南に向かって流れる金目川とその支流に挟まれた幅200m、長さ1km、標高約100mの台地に立地します。ここには、古墳時代から奈良・平安時代に営まれた大きな集落が今でも眠っています。最近の調査では、西方の金目川を挟んだ対岸と、東方の金目川支流を挟んだ対岸の両地域に同じ時期の集落があることが明らかになりました。3つの地域には盆地内の中心集落として人々の生活が営まれていたと考えています。(秦野市ホームページ)
 
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 大上氏の律令制下の西相模95-107によると
秦野市の草山遺跡・下大槻峯遺跡は都市計画がなされたと思えるような先進的な地区とされています。
「ヤマト王権から東国支配のために派遣された新たな技術者あるいは統治目的を持った集団が、都市計画に基づき、区割りする先進性が感じられます。
 高度の文化文明をもった人たちが参画したと考えられるのです。
こうした遺跡は、ヤマト王権の支配のもと新田開発に動いた集団によって造営されたと考えられているが、一歩考えを進めて、むしろヤマト王権から東国支配のために派遣された新たな技術者あるいは統治目的を持った集団と考えた方がよいと思っている。」
 
漆部直一族の引き連れてきた高句麗からの渡来の集団の中には高い技術を持ったものも含まれていたと考えています。
以上のことから、秦野の草山遺跡周辺は、漆部直一族の入植地の有力な候補地だと考えます。
草山遺跡などの詳細は、以前のブログ「蓑毛大日堂文化を支えた人々」をご覧ください。
 
5.良弁が関わった寺社
 次に、良弁僧正が関わった寺社を見てみましょう、一定の特徴が窺えると思います。
良弁僧正一族を出雲族とした理由の一つ目は、先に申し上げた正倉院文書による本貫想定でした。もう一つの理由は、良弁の創建や関係する社寺が出雲神族の奉斎する祭神櫛稲田姫、オオヤマズミになっていることが挙げられます。
また良弁は役行者を追慕し山岳信仰・修験道と関わりがあったとされています。
 
5-2.櫛名田比売を祀る出雲神族の神社
出雲神族は、祭神櫛名田比売(くしなだひめ)を祀る神社が多いという。
素戔嗚命は、櫛稲田姫の夫ですが、櫛名田比売の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)にとっては、征服者でもあったのです。櫛名田比売が、祭神の第一順位になるのは無理からぬことです。
また足名椎命・手名椎命は、大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)の子と名乗っています。
大山祗大神は、大山阿夫利神社の祭神です。山の神・水の神として、また大山が航行する船の目印となった事から産業・海運の神としても信仰されています。富士山の御祭神、木花咲耶姫の父であると共に絆を取り持つ神と伝えられています。
こう考えますと、良弁一族は、大山信仰でもあった可能性があります。大山の麓で暮らす人々にとって、朝な夕なに見守ってくれる大山の雄姿は、まさに「大山」であり、大山は、水の神であり、山の神でしょう。命を授かっていると考えていたでしょう。
同時に、良弁たち出雲から来た人たちは、出雲から見える伯耆大山を思っていたのではないでしょうか。

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良弁の勧請した葉山森山社
 三浦郡葉山町一色の森山社は、社伝によると祭神「奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)」を祀っています。
天平勝宝(西暦749)、鎌倉由比ヶ浜生まれの良弁僧正が勧請されたとされています。

 森山社は、「年占い」を行う世計(ヨバカリ)神事と小坪天王社との合同祭礼行合祭(ユキアイマツリ)の二つの古代神事を行うことで知られています。
森山社の「世計神事」には吾妻神社(滝の坂不動)霊水を汲み上げ持ち帰るお水取りから始まり持ち帰った水に麦麹を入れて神殿内に一年間納め翌年これを検し吉凶を占う。

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行合祭は、33年祭とも呼ばれ奈良時代以来33年目に行われ、神婚祭とも(神と人との通婚説話を基にしての祭り)云われる。逗子小坪の天王社から、祭神素戔嗚命が天王輿で渡御、森山社にて、七日間滞在されるという神事。

別当寺は真言宗玉蔵院(後述するが、森山社に隣接)。森山社は今は低地にあるが御神体は海から上がって、神霊の宿る神山の佐賀岡(三ヶ岡・大峯山)に留まられた。今その場所には神の座られた御座石があるという。この神を勧請したのが、良弁である。
大峰山は神南備山で、円錐形の美しい山を神のいます山として崇めた。
 
良弁僧正が開いた神社で、東大寺二月堂と同様のお水取りが行われているのです。
旧社が、山頂にあったことから、大峰山の神南備山での山岳信仰です。良弁を感じさせます。
修験道場については、別途玉蔵院の項で述べます。
 
相模一宮寒川神社
相模一宮寒川神社は、寒川比古命 (さむかわひこのみこと)、寒川比女命 (さむかわひめのみこと)を祭神としているが、素盞嗚命と稲田姫尊(旧神詞記)、大己貴尊(一宮巡詣記)などの諸説もある。「日本の聖地文化」
 
相模國総社 六所神社
良弁の創建ではないが、出雲族が祀った神社で近隣のものを一つ紹介します。
神奈川県中郡大磯町国府本郷にある相模國総社 六所神社です。
第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を『柳田郷』と名付け、氏族の祖神たる櫛稲田姫命を守護神とし『柳田大神』と称しました、御創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられています。
 
 
5-3.大山信仰、不動明王信仰、山岳信仰、修験道
良弁は役行者を追慕し山岳信仰・修験道と関わりがあったとされています。
良弁の関わった寺院にも共通項が見られます。
 
大山寺の開創
「大山寺創建、755年 (天平勝宝7年)、 第1世 奈良東大寺長者良弁僧正(華厳宗)
奈良の東大寺を開いた良弁僧正が開山した。
 相模の国に生まれた良弁僧正は晩年に父母を思い当地を訪れて大山に登った。
峰上に登ると、僧正は地面から五色の光が出ているのを見出し、不思議に思って岩を掘り返してみると石像の不動明王が出現した。
 不動明王よりこの山が弥勒菩薩の浄土であり、釈迦の変わりにこの山に出現して法を守護し衆生を利益しているとの託宣をうけた良弁僧正は一旦奈良に戻り、聖武天皇より東大寺を離れる許しを得るとともに、勅願寺の宣下を賜った。
 東大寺建立の際に協力した工匠手中明王太郎を伴って大山に戻った良弁僧正は、3年間当地に住して伽藍を整えた。」(大山寺ホームページ)
 
「大山では、天狗信仰も盛んであり、阿夫利神社には大天狗、小天狗の祠がある。そして大山には日本の八天狗に数えられた大山伯耆坊が伝わっている。元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峯に行ってしまったために、相模大山に移り、富士講の人々に信仰されたという。現在でも阿夫利神社の下社の近くに伯耆坊の石碑があり、大山寺の側には伯耆坊を祀った祠がある。」
 
大山山麓の仏教文化
 秦野市史によれば、
 「宝蓮寺縁起『大日堂縁起』縁起によると聖武天皇勅願所として天平14年(742年)に創建され、行基、良弁がその造営に関与したことが記されている。しかし奈良時代創建説はにわかには信じ難いけれども、平安時代に造立された仏像が現存することから、少なくとも平安時代には秦野地方でも屈指の大寺院が存在していたことは確かである。」
 
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葉山町の修験道
三浦郡葉山町の地名由来葉山信仰説
 東北地方に点在する信仰の山「ハヤマ」からわが葉山の地名を考察。葉山三ヶ岡山の麓にある森山神社と玉蔵院は大昔山上にあったと言われており、三ヶ岡山は信仰の山即ち「ハヤマ」であった。
 
葉山玉蔵院
守護山玉蔵院と号し、天平勝宝年間(749757)に奈良東大寺の別当、良弁僧正の開基と伝えられる葉山町最古の古刹です。
 裏山一帯は特別緑地帯に指定されている三ヶ岡(大峰山)で、その昔は三ヶ岡(大峯山)の山頂にあり葉山の山岳信仰・修験道と関わりがあったとされています。
 
安房地域の良弁
良弁が役行者を追慕して房総半島(千葉県)にやって来たとする伝説がある。伝承のうえでは安房地域と関係が深いのである。長狭の大山寺(高蔵山) 、千倉の高塚不動はいずれも良弁の開基といわれている。相模と安房の大山信仰(いずれも不動明王信仰にかかわる)と結びつけられている。この両山が深いつながりのあることは疑う余地はない。
 この両山の現時点における共通項はともに「雨乞い信仰」にかかわるというものである。またその背景にあるものは端的に、航海上のいわゆる「アテ山」としての信仰であったかもしれない。良弁と黄金の不動尊伝説は、中心に据えなければならない。東大寺造営のための木材や大仏鋳造のための銅、それにその表面に鍍金するための黄金などとのかかわりである。(以上「安房地域の基層文化」井上孝夫)
 
 
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 大宝元年67日(701716日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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良弁僧正物語

 良弁僧正物語
良弁一族の出雲時代

前回東大寺、大仏建立に貢献した良弁(漆部直一族)は、相模国の出雲族であったとする「あらすじ」を紹介しました。今回は、その一族の出雲国時代の様子です。
 
2. 良弁一族の出雲時代
正倉院文書に見る漆部直一族
正倉院文書『出雲国賑給歴名帳(しんごうれきめいちょう)』(739年)には、「漆部直」の名が多く出てきます。この賑給とは「律令制下において困窮者、病人で自活できない者などに、稲穀、布などを支給する制度である。天皇の即位など国家の慶事・大事に際して実施される。災害、不作、飢饉によるものなど契機は多様である。」
イメージ 2
出雲国の賑給帳に漆部直一族が多く出てきます。戸主など含めると「出雲国出雲郡漆治郷」
が漆部直一族の本貫の有力候補地と想定できます。
 
一地方の状況とはいえ、荒神谷遺跡や、それに続く加茂岩倉遺跡などの古代出雲の繁栄がうそのような貧しく厳しい状況が窺えます。出雲が大和政権に滅ぼされた後、厳しい状況に追い込まれたように見られます。
況や氏姓制度で「直」と言えば、小さな国造クラスの漆部直一族であっても、貧者が多数発生し、一族間で相互に助け合いこともままならない、施しを受けないと暮らせない状況にあったのでしょう。
出雲国出雲郡漆沼郷
漆部直毛呂女〈年七十一〉
漆部直墨足口漆部直美布佐〈年七〉
  同口漆部直御事女〈年十二〉
  同口漆部直与呂志女〈年十二〉
大日本古文書二巻201208出雲国大税賑給歴名帳
出雲国出雲郡漆沼郷
戸主漆部直墨足口漆部直美布佐〈年七〉
  同口漆部直御事女〈年十二〉
  同口漆部直与呂志女〈年十二〉
戸主漆部直恵志口漆部直麻呂〈年十五〉
戸主漆部直墨足口漆部直須杲(果)礼女〈年六十五〉
寡犬上里戸主漆部直玉手口建部牛女〈年六十一〉
戸主漆部直族馬足口語部米太女〈年七十〉
戸主漆部直族邑麻呂口漆部金身女〈年六十五〉   
大日本古文書二巻208209頁 出雲国大税賑給歴名帳
出雲国出雲郡漆沼郷(犬上里)
同口漆部伊毛売〈年五十一〉
大日本古文書二巻217頁 出雲国大税賑給歴名帳

   国譲り敗戦後の出雲は経済的にも厳しい状況に追い込まれていたのでしょう。
正倉院文書『賑給歴名帳』(739年)がそれを証明しています。
この歴名帳は賑給保護の対象となる要保護者名のみあげています、氏族全体の様子はわかりません。
 

愈々追い込まれた漆部直一族は、出雲国出国を決意したのです。
大和朝廷は、漆部直一族にも渡来人の引率指導、東国への移住を指示したと思えます。
漆部直一族は、渡来人を引き連れて、東国への移動を始めました。
680年頃には、相模国での入植が開始されたとみています。

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    霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しています。
これ以前に移住していないと、出雲国に渡来した高句麗難民は武蔵国に送られ、移住先を選択できなかったです。
 
氏姓制度
漆部直一族は、「直」を得ていました。
「氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にあったが、それが国家の政治制度として編成し直された。その成立時期は、56世紀をさかのぼらない。6世紀には一般の民にも及んだ。
664年(天智天皇3年)に、「甲子(かつし)の宣」が発せられた。これによって朝廷内の官位制度と全国の氏姓制度とを連動させようとした。さらにこのような氏上に属する氏人を父系による直系親族に限ることとし、従来の父系あるいは母系の原理による漠然とした氏の範囲を限定することとした。」
 
漆部直一族は、父母両方の氏を名乗っていないことから664年にこの制度を適用されていたと思われます。
東国への移住の時期は父系による直系親族に限る時代以後と考えられます。
 
以上のことから、相模国への移住は、663年白村江の戦いに敗れ、筑紫に水城を作り、都を大津に遷都、670671年の庚午年籍なる。という流れの中で起こったのでしょう。
①朝鮮半島の敗退以後、緊迫した防衛体制、備蓄増産
②投化する渡来人の急増とその指導役不足を補うために出雲族の登用。
③東国への移住政策が採られた。出雲国の飢饉や食糧不足などがそれを促した。
 
漆部直一族は貧窮していたでしょう。別の地への開拓を自ら希望したことも考えられます。


 移住時期の遅れは、漆部直一族の東国での処遇も一段と低くしていたでしょう。尖兵として行くことの危険性はその価値と待遇に比例するでしょう。

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