相模湾 海から見る風景

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見突き漁に列島の基層文化を見た
 
真冬の寒さとなった昨日、漁師小屋に寄ってみると、焚火をしていた。お尻を当てぬくぬくしながら立ち話。
「今日は本当に寒かった、陽が出ると少し落ち着く」と言っていた。
寒い外の作業はつらいだろうが、案外薄着の様子、海の上は海水温が外気より高く、作業するに厚着は無用なのだろう。
 
先週分けてもらったサザエ、塩茹が手軽に作れ美味しかった。つぼ焼きよりずっと美味しい。

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この地方は、サザエ、アワビを見突き漁で獲っている。水深5メートル未満の岩場で、小船の櫓を足で操り、箱鏡を口に咥え海底を覗きながら貝を獲る伝統漁法がいまでも残っています。
右のボタンを押すと大きくなります。

     
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 流石に、箱鏡を口に咥え、頭を締め付けるやり方は、下を向いて、作業していると、顔がひどく腫れ体に良くない。その上、箱鏡を作る業者もなくなり、現在は大きな眼鏡を使っている。

小坪漁協は、この伝統漁法により海藻「ミル」を獲って、宮内庁に献上している。

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この船の操り方どこかで見たことがある。
ベトナムハロン湾での光景です。漁師が二つの櫓を足で器用に操作しながら漁をやっていたのです。

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海上生活者の家船もありました。

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列島を作った人々の中に縄文系の日本土着の海人族がいます。南方由来の南島系で、本州南岸を黒潮にのって志摩から伊豆の三宅島、伊豆の三島と展開しています。」という説が頭から離れません。
この南島系の海人族の残滓を見突き漁の中に見る思いがしたのは私だけでしょうか。

勿論、この地方は、鎌倉時代からの漁業基地、伊豆からの移住者や源頼朝が伊勢から招いた漁業者もいます。

この見突き漁の光景は、日本人の基層に係る人たちに思いを致さないわけにはいかなかったのです。

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紅葉を探して

紅葉を探して
先週のことになるが、祇園山ハイキングコースを歩いた。今年の紅葉が気になっていた。台風の被害が、気になるところ。近くの農家では、台風の影響で、大根の中が黒くなり、一本づつ切って確かめているほどなのだ。

祇園山登山口は、祇園社と呼ばれていた鎌倉大町八雲神社の本殿脇にあります。
新羅三郎義光が鎌倉に疫病が流行しているのをみて、「厄除神」として霊験の聞こえた京都の祇園社を勧請したと伝えられています。
自宅から散歩コースになっている。3000歩と丁度良い距離にあるから何かと訪問する機会が多い。
 
さて一気に上り詰めたところに、見晴らし台があります。このコース登りのきついのはここだけです。後は尾根道を緩いアップダウンを繰り返します。

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 見晴らし台からは、鎌倉の海が一望、江の島背後の箱根、この日は見えませんでしたが富士山も良く見えます。
仏の寝姿が、逗子から見るよりも随分と西に偏っていた。同年輩の男性が登ってきた。どちらに向かうか聞くと、腹切りやぐらに向かうと言う。そうだ、妙本寺ではなく腹切りやぐらが一般的なコースだったことを思い出す。
紅葉を求めてやってきたが、まだ少し早いようだ。「妙本寺はまだ紅葉していない。」「来週でしょうか」、「そうでしょうね」という。
 
途中のルート案内に、マジックで微かに妙本寺とあった、裏ルートなのです。

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 関東管領と争っていた佐竹氏の逃亡ルートだったのです。妙本寺墓地左手の崖にある佐竹やぐらでは佐竹氏とその家臣13人が自害しています。佐竹氏の遺児は、八雲神社に預けられ、佐竹霊社を祀り、足利成氏が関東管領の頃は(1449年)当社の神興が管領屋敷に渡御し奉幣の式が行なわれたことが「鎌倉年中行事」に記されているそうです。
 
尾根道をだらだらと進む。途中もみじが一本紅葉していた。こういう楽しみ方もある。

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高時腹切りやぐらは、ロープで進入禁止になっていた。
 
散歩コースの紅葉スポットとして長勝寺がありますが、この寺の法華堂前の2本の楓は、毎年楽しみになっている。今年は、台風の影響が出て、少し霞んでしまった。枯れている葉っぱも目立つ。
最初上段のモミジが紅葉を始めたが少しさえなかったので、下段のモミジが赤く染まるまで待った。それが下の写真。

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 前回紹介した「潮風と砂の考古学」遺跡展で訪れた平塚、近くの平塚八幡宮の紅葉を紹介します。銀杏の黄葉が最盛期を迎えていました。

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 摂社の拝殿の裏にモミジの紅葉を見つけました。

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 この神社は、海岸線が平塚駅辺りにあった頃の古代、砂丘の上に立地している。
相模の「一国一社八幡宮(国府八幡宮)」として、堂々たる風格を備えている。

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潮風と砂の考古学展

潮風と砂の考古学展
今平塚博物館で開催されている面白い考古学の展覧会に行ってきました。
この展覧会は「神奈川県の海辺にある風景のうしろには、潮風と海がつくった砂の土地が埋もれています。
本展示で取り上げる「砂丘」や「砂嘴(さし)」に残された遺跡は、このあらたな土地に立った人々の足跡です。人々はそこでどんな営みを繰り広げてきたのでしょうか。砂の上に消えず遺された、その足跡をたどってみます。」
 
潟湖という自然が作り出した港が、砂の下に隠れていることに興味を持ちました。
 
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潟湖とは
「潟湖とは堰止湖の一種で「湾口が 砂州などで閉塞され海の一部が閉じ込められてできた湖で海跡湖と同義」とされている。
潟湖周辺は海岸に近く、比較的広い平野が形 成されているため、古くより生活の場として発展してきた。奈良時代の大阪湾(河内湖)の埋め立てや江戸時代の全国的な新田開発は広く知られている。第二次大戦後にも国土開発・食糧 増産の旗印のもとで多くの潟湖が縮小・消滅してしまい、水田や宅地・工業用地へと変貌していった。」
 

鎌倉滑川河口の潟湖
この潟湖は鎌倉にもありました。
「鎌倉の砂丘地帯における土地利用のあり方は、古墳時代になって墓域として用いられることで明瞭になります。
古墳時代から中世にかけての鎌倉の沿岸部は、滑川の右岸側(海に向かって)に砂丘地帯が広がっていく一方、左岸側には砂丘と砂州に阻まれて河口に滞った川の水が潟湖を形成し、次第に湿地化していったと想定されています。奈良時代になると今小路西遺跡内に鎌倉郡衙が設置されますが、その選地の背景にはこの潟湖を港として利用する目的もあったとみられます。」

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逗子と鎌倉の海岸部の特徴は、赤色立体地図を用いて記事にしていますの参照ください。「震災に思う逗子・鎌倉の地形

 
 実際に歩いてみると、海岸沿いの砂丘の標高はかなり高く、8m以上のところもある。これは裏手から見ると見上げるような高台に家が建っているように見えます。内陸部に掛けて一気に低地化して標高2〜3m地域が横須賀線沿線まで広がっている。
 
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日本海側の潟湖
古代史研究者森浩一氏は、日本海沿岸には潟湖が多く、その周辺に重要な遺跡や大型古墳、一ノ宮の神社が集中していることから古代において潟湖が港として使用され、交易の拠点となっていた、と説いていました。「森浩一編(1983)『シンポジウム 古代日本海文化』
 
このことは、鎌倉においても古社が、潟湖周辺に創建されていたことで分かります。
由比若宮は潟湖の北岸近くの砂丘にあった社であった。」鎌倉考古学研究所 斎木秀雄

 由比若宮は、1063年(康平6年)8月、河内源氏二代棟梁の源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を勧請して創建。
1081年(永保元年)2月、頼義の子義家が社殿を修復。
 1180年(治承4年)10月、鎌倉に入った源頼朝が由比若宮を小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮を造営。

 元八幡は、潟湖の北岸であるとともに、古東海道にも面していました。奈良時代以来の大和や京と相模・房総を繋ぐ重要な交通路は、古代の鎌倉の中心だったのです。
義家の弟、新羅三郎義光も、永保年間、奥州へ向かう際、鎌倉に疫病が流行しているのをみて、潟湖の近くに、京都祇園社の祭神を勧請し、大町八雲神社(元祇園社)を創建した。
潟湖は鎌倉の海の玄関口でもあったのです。
 
その後の滑川潟湖
「鎌倉の滑川河口について、中世期に潟湖が存在し「由比浦」と呼ばれて港に利用されたが、和賀江島(わかえじま)を築いたことで漂砂がせき止められて潟湖に堆積し消滅させた」(斎藤直子「1319世紀鎌倉海岸部における潟湖の変容」)

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    和賀江島復元図(江戸時代)国土交通省
   
本考古学展の説明文中にも
「滑川の河口にあった潟湖が奈良時代には、港として利用していた、和賀江島ができたことで、波の影響を受けて消えてしまった。便利さを追求した結果、自然にできた港を失ってしまったと書かれている。本来持っている自然の営力に対する視点と十分な配慮なければ、こういう思わぬ事態を招いてしまう。」と厳しい指摘をしている。
 
 潮の流れが変わり、自然の営みで出現した港が消失してしまったのです。

 和賀江島を造成した背景には、潟湖が大都市鎌倉を支えるだけの機能を既に失っていたことが考えられます。
建保四年(1216年)、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が宋からの技術者陳和卿に大船の建造を命じました。由比ヶ浜での進水式で船が重すぎて浮く事ができず砂浜を離れる事なく、座礁してしまったのです。
その時の実朝の悔しさが、和賀江島を造らせたともいえるでしょう。

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   ハザードマップ

 現在も、この浜には港がなく、台風の度に、漁業者は大きな被害を受けているのです。
自然の営力だけの潟湖では、大都市を維持できなかったのです。
この考古学展は、消えた潟湖、和賀江島を通じ、「築港は、鎌倉の悲願」だったことを教えてくれています。

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マダコの異変

マダコの異変
 
今日は少し風がある、大島も富士山も煙っている。
漁師小屋を覗いたら、漁から帰ったところ、生マダコを吊るしていた。最近はマダコが不漁だとぼやいていたが今日は久しぶりに収穫があった。早速分けてもらった。
 
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マダコを天日干している。九州で見かける宇宙人が飛んでいるようなタコ干しとは幾分違う。最近始めたこの天日干し、軽く焙って出してくれた。旨い香りがある、うまみ成分が干すことで凝縮され、いい味出している。味醂の味付けかと思ったら、塩しか使っていないタコのうまみ成分だろうと言う。たこをもった指が、西京漬けのような香りがした。

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鮮魚店で売られているタコの大半は、モーリタニア産。日本から、はるか離れたアフリカ大陸西岸に位置する国だ。日本の協力によってタコつぼ漁が普及し、国内の輸入シェアの約4割を占めている。
私の友人、モーリタニア産は、 食感はゴムのようで、食べられず味覚は相模湾産に敵いと言う。相模湾は、良質なマダコが獲れる。歯応えと甘みのあるおいしいタコなのだ。
ところが、最近このモーリタニア産タコの価格高騰が報じられている。背景には“不漁”に加えて世界的な需要の拡大があるという。

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   日本はもとより、韓国、中国での需要が急増している。
世界で日本食レストランが、2017年までの2年間で、30%と急増している。こんなこともマダコ不足の原因だろう。
いずれ相模湾産のマダコが世界でブランド化する日も近いかもしれません。()

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連休の一コマ、富士夕景
久しぶりに、朝の散歩を楽しんだ。この三連休は、いろんな予定が入り、なかなか忙しかった。23日は旧友たちと一日飲み明かし、おいしいもの食べていた。
昨日は、連休に来ていた家族を車で送って東京へ行ってきた。
実は、連休の始まる前の日に、認知症の入り口かという事件があった。

    地元の友人と久しぶりに会おうとしたら、日にちを間違えてしまった。原因は、スマホのスケジュールに水を木と間違え入力したことだった。
予定を決めた日に家人に伝えていたため、「明日だよ」と言われたが、頑固にデジタル情報が正しいとやってしまった。結局肝心な人間が、いよいよ斑ボケが始まったのかと寂しい気がした。だから今週は慌ただしく過ごした。

そこで、ゆっくり富士山を眺めて海岸散歩を楽しむことにした。
 
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朝のうち見えていた富士山も散歩を始めるころには、雲が掛かり始め、頂上部分しか見えなくなっていた。

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この地方の漁法、サザエなどを箱鏡で見ながら突く見突き漁をやっている。その上に富士山が頂だけのぞかせていた。
 
    夕方、窓のガラス随分赤く染まり始めたので、夕景の富士を狙ってみた。

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近所の方も三々五々集まり始め、漸くきれいになり始めた富士山と、夕景を楽しんでいた。

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相模湾の先は、伊豆半島伊東になる。逗子から大島までは、60km、伊豆はさらに近いからほぼ毎日見える。

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