相模湾 海から見る風景

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今日の富士山

今日の富士山
漸くというか、寒くなって、富士山が良く見える季節になってきました。
まだ気温が上がると、雲がかかって富士山の全容が撮れないこともあるが、朝の散歩が楽しみな季節になってきました。
小春日和となった今日は、薄手のジャンパーでも過ごせる、歩いていても気持ちが良い。

少し気温が上がりすぎたかもしれないと思いながら、曲がり角に差し掛かる。ここを回ると富士山が眼前に広がるはず。
いつもここの辺りでドキドキする。見えるかどうか、くっきり見えるか、楽しみなところだ。
 
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 冠雪した富士山が、江の島の上に現れた。雄大なその姿は、裾野を大きく広げ延びている。
富士山全体が見えてます。美しい。

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こういう富士山を見ると、今日もいいことがありそうに思えるから不思議です。
良い一日になりそうです。

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京都への立ち寄りと湯豆腐


 大和桜井の帰路、京都に寄った。近鉄特急の車窓右手奥に東大寺大極殿の鴟尾(しび)が見えた、流石に大きい建物だった。これで奈良ともお別れだ。


京都を歩く、錦市場に寄り京丹波焼栗、高倉の漬物等を購入、焼栗は家族の大好物。


その南禅寺に向かった。湯豆腐を楽しむ。「奥丹」は南禅寺湯豆腐の発祥と言われている。昼時にはいつも長い列ができる有名店。電話をすると、今なら待たずに入れると言う。


現存する最古の湯豆腐料理店、江戸初期1635年創業、南禅寺(京都市左京区)の山門そばにある。

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   南禅寺周辺には、ゆどうふ専門店が多いが、その中でも奥丹は老舗。風情のある玄関、小さな日本庭園の石畳で奥へ誘う、座敷が二つ。座卓に座布団というスタイル。女性客が圧倒的に多い。メニューも湯豆腐セットのみ。


 
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    湯豆腐以外に、木の芽田楽、胡麻豆腐やとろろ汁、精進天ぷらなどがついた。調味料は、湯豆腐にかける出汁、山椒の多い唐辛子。


とろけるような味わいの湯豆腐が人気というが、今日は少し硬め、トロトロを期待した友人は珍しく不満を述べた。自家製の豆腐は、木綿豆腐をもっとしっかりさせた固さといえた。


湯豆腐を食べたいとしきりに言っていた。東京鶯谷の老舗はと水を向けたが、一向に乗ってこなかった。南禅寺で思いを遂げるはずだったが、しっくりこなかった。


 


南禅寺の山門は大きく高い。京都の町が一望できるので登ってみたいところだが、三輪山登拝の筋肉痛が始まり体が進まない。

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かつて30日かけて京都を回った友人は、南禅寺の山門で、「絶景かなあ 絶景かなあ」と大見えを切った名役者ぶりを残念だが見ることができなかった。


南禅寺の水路、発電設備は映像でよく見た施設、100年もたつと境内に似合って、古色蒼然な明治産業遺産になっている。

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    明治になって、東京に遷都して京都の衰退化への対策としての一大事業だったが、南禅寺の広大な境内が京都を救ったともいえる、周辺には壮大な実業家の別荘地が拡がりそれがまた環境を保持していた。


 


隣の永観寺は紅葉の回廊が有名だ。

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    阿弥陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた、その「みかえり阿弥陀仏」は横を向いた仏像、横に回って正面から見るが、薄暗い堂内は表情が読み取れない。帰り売店で、アップになった写真がなんと幼顔丸顔、こんな表情と思っているとみかえりの意味を聞かされる。

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「自らの行いを見返ること」など現代的に意味の掘り返しが行われていた。


 


哲学者の西田幾多郎が散策しながら思索にふけったといわれる哲学の道。
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疎水の脇の小道、今は観光客がひっきりなしに通るが、西田が一人静かに悠然と歩きながら思索している姿が思い浮かぶ。南禅寺水路閣から流れる疎水に沿って続く約1.7kmの散策道。鹿ケ谷の法然院まで歩く。



京都駅まで急行バスを利用するが、乗客が多く、時間がかかりすぎた。


バスの中で、疲れている友人を座らせていると、ジェスチャーで席を譲ってくれる東洋人がいた。普段でも席を譲られることはないのだが、中国語が飛び交うバスの車中のことであった。


乗降ステップに立って、ドアが閉まらず、近くの日本の人は教えてあげてくださいとアナウンスがしきりに流れる。聞きしに勝る京都のバス事情を体験した。
                                                                           

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聖林寺と安倍文殊院

聖林寺と安倍文殊院
聖林寺の十一面観音像
三輪山登拝の後、桜井駅の南方にある聖林寺と安倍文殊院に向かった。
身体はガタガタ、これほどダメージがあるとは思わなかった。当初自転車で三輪山、山の辺の道などを巡る予定だった。ところが、三輪山登拝をすることになり、体力に自信がなくサイクリング計画は断念した経緯がある。

大神神社から聖林寺の十一面観音像に向かったが、縁を感じるほど深い話があった。
というのは、十一面観音像は、もともと大神神社神宮寺の旧大御輪寺(だいごりんじ、おおみわてら)の本尊であったのだが、明治維新の廃仏毀釈運動を避け聖林寺へ移されたという歴史的背景があったのです。

まるで、十一面観音像の足取りを追うように、私たちは大神神社から聖林寺に向かったのです。タクシーは使いましたが・・。

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天平末期につくられた大変有名な仏像は数奇な運命を辿っていたのです。
聖林寺の門前掲示に、その時の思いなのか、「眼前の美しい三輪山への賞賛とその北西麓一帯にある日本列島最初の王権「ヤマト王権」の中枢部があった。」と書かれ、大神神社との関係を強く意識された。
 
十一面観音像は本堂から高い階段を上がった収蔵庫に安置されている。本堂の本尊の大きな石造地蔵を拝み渡り廊下で行くことができる。
 
収蔵庫の中はゆったりとして、既に三人の参観者が静かに鑑賞していた。観音像は、大きなガラスで仕切られ、照明が当たり、立ったり座ったりしながら、拝観できる。



 
友人が、「十一面観音は女性なの、指先が美しく優美。」とぼそっと言う。
昨年秋拝観した東大寺の不空羂索観音と比べて、優しい印象。先の者は力強く感じていた、「あらゆる生き物を救う」という意思を感じた観音様でした。イメージ 2
こちらは随分とすっきりして、すらりとして、腰の括れも感じられる。優美さすら感じた。やはり指先に目を奪われたのです。
 
居合わせた女性がしばらくして言った。「ご住職から聞いた話、この指先は、人々を救う意思を表現しているそうです。」
 
憂いを感じさせる表情、雰囲気がある。厳しさ強い意志も感じられる。指先の優美さと顔の表情が、男性的でもあり女性的でもあるように思う。
 
仏像には、性はなく、「菩薩」は釈迦の若い頃の修行の姿で(悲、母の優しさ)表し、観世音菩薩や地蔵菩薩は、「女性的になると言われます。
 
「右から見る表情は優しい。やわらかな穏やかな表情に見える、右と左では随分表情が違う。」と友人。
イメージ 3右から見ると手に持った花が邪魔をするが、正面と比べて、ずっと柔らかな優しい表情になっている。
この写真よりずっと繊細で、頬のふくらみも豊かに感じた。指先の優美さにより一層適うように思える。
 
ところで、明治の廃仏毀釈だが、異常な高まりをもって全国に吹き荒れた。江戸時代の寺請制度によって、事実上幕府の出先機関の役所と化していた寺が、攻撃の対象になった。

国家神道政策樹立の余波といえた。この異様な動きに、待ったをかけたのが、若き行政官岡倉天心だった。「日本人の精神・芸術を守らなければならない。アジアは一つ、インド、中国を通じて最後にたどり着いた日本にすべてのアジアがある。欧化主義が全てではない。」とフェノロサから学び邁進しもう一つの明治維新を築いた。

この結果聖林寺十一面観音像など国宝第一号となり保護され、こうして私たちが目にすることができるようになったのです。
 
 
文殊院(安倍文殊院)について
文殊院には、聖林寺から歩いた。下りと聞いていたからだ。長閑な田舎道というか、聖林寺の参道になっている。路傍のそこかしこに、祠があって、日常に息づいている。イメージ 4
文殊院への道を立ち話の女性にまっすぐですと教えられる。

参道の川を見たり、路傍の仏を観たり進むが、三差路が表れ、ここで迷う。こっちの道ですよと女性が教えてくれる、振り向くと先ほどの女性、心配でついてきてくれたのか。
私たちは、奈良の田舎道を結構楽しみながら迷っていたのだが、筋肉痛の始まった体に、この親切は有難かった。
 
 安倍文殊院とも呼ばれるが、それは古代の名族安倍氏による創建と伝えられていることによる。
大化改新の際、左大臣に任じられた安倍内麻呂(倉梯麻呂)により文殊院は創建されたと伝えます。文殊院境内にある横穴式古墳2基のうちの「西古墳」と呼ばれている方は、安倍氏の墳墓であるという。古墳埋葬から仏教寺院に変化していく頃の例です。
阿倍氏(あべうじ、のち安倍氏)は、孝元天皇皇子大彦命後裔氏族です。
イメージ 5埼玉県さきたま古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文「辛亥年七月中記す
乎獲居(おわけの)臣(おみ) 上祖(かみつおや)(の)名(は)意富比(おおひこ)」

 この意富比垝こそ大彦命だと言われているのです。古事記の四道将軍派遣の記事を実証した大発見だったその名門氏族です。阿部氏を辿ると日本の歴史が克明に分かります。


桜井駅に歩いて帰る途中、「大彦命」を祭神とする神社がありました。
式内社 大和國城上郡 若櫻神社の 境内 式内社高屋安倍神社とあります。鎮座地は前方後円墳の後円部が残ったものともいわれる。
何とも大和は、桜井は歴史の厚みがまるで違うのです。
そういう歴史的な意義の興味津々だったのです。




文殊院の文殊五尊像
文殊院の本尊、鎌倉初期の文殊五尊像、イメージ 6中尊の文殊菩薩像は獅子に乗った姿。像高は約2メートル、それが獅子の背に乗っている。

  作者が快慶であること、1203年の年記
善財童子像は、像高130センチあまり。振り向いて文殊像を合掌礼拝する姿で、可愛らしいしぐさの像である。

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三輪山登拝

三輪山登拝
20代の前半、山野辺の道を歩いた、その折大神神社にご神体として三輪山を参拝した、無論この時は、禁足の山であった。現在は、信仰の対象としてのみ三輪山登拝が許されるようになった。

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今回の旅のメイン三輪山登拝、467mの磐座を目指して登る。
大神神社から受付社務所のある狭井神社に向かう途中に、磐座神社があり、少彦名神(スクナヒコナノカミ)を祭神とする。御神体として小さな石が置かれていた。

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社務所で入山受付をする。
事前の神官による諸注意で、祈る信者をインスタ映えする写真を撮ろうとする輩とが怒鳴り合うことが発生し、信仰としての登拝を強く要請された。
イメージ 3住所氏名を届け、セルフ御祓いをして、鈴つきの礼拝登山の襷を掛ける。


拝殿の裏手に神水が湧出し、自由にいただける。この水が、パワーの源になると、タクシーの運転手からアドバイメージ 4イスがあった。

 
禁足地の山道に入る。漸く最初の休憩所と思って入ると滝の禊所であった。そのあと急坂がつづく。中間に大きな岩を縄で囲ってある。中津磐座(なかついわくら)とある。
素足の白装束、滝に打たれる人など真摯な気持ちで向き合わないといけない。舐めたらいけない真剣勝負の祈りがそこにある。
頂上には奥津磐座があった。

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 約10m四方の開けた空間。注連縄がかけられた巨石が2体あり、帽子をかぶったように上部に溝が入っていた。不思議な空間だった。

ここだけが明るく陽に照らし出され輝いて見える。
横に周ってみると、巨石を中心に大小の石が取囲んで、磐境(いわさか)となっている。
祈る人、手をかざしパワーを感じる人など様々である。頂上では休憩が難しい。

    頂上の磐座はなぜこんなところに巨石があるのか、古代の人は、不思議な現象と捉えただろう。ブラタモリ風に表現すると「大きな花崗岩の岩体が、風化によって分裂したもの。方状節理に沿って割れ、水の侵食で割れた。」とでもいうのだろうが、知識だけでは理解しえない何かがある。
ここの磐座はともかく明るい。手を広げて、天に向かって叫びたくなるから不思議だ。

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    それにしても厳しく、ふくらはぎが傷む、帰りが空踏み二回躓くように危うく捻挫をしそうだった。
かくして難行苦行で3時間を遥かに超え頑張った。友人はもっと大変であった。二人でなければ登ることができなかっただろう。
禁足地の林の中の森閑とした、静寂を感じる環境に置かれ、おしゃべりがいつの間にか止まり、肩から吊るした襷についた鈴の音だけが響く。いい環境だった。
今後10年間もっと厳しく体を傷めつけながら自分の足で歩く決意があった。
 
望外な登拝ができたのも友人の無謀なる呼びかけ、いや、頑張ればなんとか成し遂げられるぎりぎりの線を狙ったような呼びかけでした。
何かこの先の人生に期待が持てるようなワクワクするような感覚がありました。これが山に入ったご利益なのだろう。
 
三島由紀夫の碑
石碑の傍らの由来を読むと、
三島由紀夫は、古神道研究のため、親友のコロンビア大学教授ドナルド・キーン氏と昭和41年8月22日に来社。社務所に三泊参篭した。24日、念願の三輪山頂上へ登り参拝。
その思いを認め、大神神社に残している。

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「大神神社の神域は、ただ清明のひとことに尽き、神のおん懐に抱かれて過ごした日夜は、終生忘れえぬ思ひ出であります。
また、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。・・・・・・・」
 
祭祀遺跡について
辺津磐座に含まれる山ノ神遺跡の磐座では、祭祀遺物が出土。大正7年(1918年)513日に「山ノ神」と呼ばれた巨石を取り除くと、多量の土製模造品を始め、臼玉などの滑石製品・須恵器・勾玉(碧玉製、水晶製)・小型銅鏡などが見つかった。これらの遺物には、4世紀後半から6世紀前半頃までのものが見られた。

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祭祀遺跡は23箇所も見つかっているが、巻向川と初瀬川に挟まれた三輪地域に限られ北側の纒向地域には分布せず。反対に3,4世紀代の古墳は三輪地域には築造されず、 この段階で三輪地域は聖域として意識されていた。
六・七世紀の古墳は、三輪山にごく近接した纒向川と初瀬川に挟まれた範囲などに営まれるようになる。その造営主体は三輪氏と考えるべきです。

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三輪山の麓を巡る

三輪山の麓を巡る
 三輪山を巡ってきました、再びの奈良、昨年秋に続いての大和です。
今回は、纏向遺跡、大神神社、聖林寺、安倍文殊院と巡った。
 
纏向遺跡は、奈良県桜井市の北部に位置し、北側は天理市と境を接し、烏田川と巻向川に挟まれた扇状地上に広がる、東西2km・南北1.5kmにもおよぶ遺跡で、3世紀に突如出現したと言われる。

 纏向遺跡はJR巻向駅脇なので、簡単な気持ちで降りたった。ところが、案内表示がほとんどなく、遺跡所在地は田んぼの向こうに見ている。畦道を歩くほかない。
台地上の遺跡には一旦1mほど下りないと遺跡台地にたどり着けない。結局この湿地のような低地が、当時の大溝だと分かる。

 下のMAP写真で、歩いたコースを朱線で示し、水色が大溝にあたる。
水路に囲まれた水の都といえる遺跡と即座に認識しました。
巨大なこの運河跡は農耕用ではなく、大和川を通じ、大阪湾からの石材などの運搬に用いられていたといいます。
 
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遺跡は、東側にJRの巻向駅、田んぼの中の地盤の固い場所と分かる。
柱の跡に新しく柱を立て、建物跡が分かりやすくしてあった。
東西軸に沿った建物が三つ、一番大きいÐ、間をおいて建物C、Bが並んでいる。

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遺跡の特徴(桜井市教育委員会)
 ・遺跡規模がずば抜けて大きく、農耕集落でこれだけの面積を有する所は他にない。
・土器とともに人々が集まり、交流・交易が盛んだったこと。
・土木工事用の鋤の出土が多く、古墳や巨大水路の大規模土木工事が多かった。
・辻地区の、柵で囲まれた、正しく西面する妻入りの掘立柱建物と付随建物がある。
 
三輪山が駅の向こうに見える。

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 周囲にはいやがうえにも標高500m程度の山々に囲まれその三輪山の山容が目に入る。
同行した友人は、なぜ敗れた出雲の神の麓に都市を築いたのか、実は三輪山に守られているのではないか。という。率直にして的確な表現だと思う。
 
今回の桜井行きを言い出したのは彼の方、物理の専門家だが、仏像好き、十一面観音を拝みたいと言う。私が、纏向遺跡と大神神社も巡ろうと応じた。そのうち彼はご神体の三輪山が登拝できると知り、磐座に登りたいと言い出したのです。一も二もなく私は応じました。
 
さて、古事記によると、
「出雲の神であった大国主神は「一人でどうやって国作りをしていけばいいのだろうか?どの神が自分に協力してくれるのか?」と嘆いていたところ、海を照らしてやってきた神がいう、「わたくしをちゃんと祀るのならば、国作りに協力しよう。」

 そこで大国主神はこの神の求めに応じて「大和の青垣のようにめぐっている東の山の上」に祭った。これが御諸山三輪山の上に坐す神である。この神が大神神社の祭神大物主神とされる。」
 
 青垣のように巡る東の山とは、正しく三輪山のほかなりません。纏向遺跡の居住者らが三輪山をご神体として信仰していた集団と考えることは無理のないこと言えます。この建物群は、三輪山を奉斎する人たちの拠点と考えてよいでしょう。
 
ここは、やまと王権発祥の地、3世紀初頭から4世紀前半まで政治の中心となった。約120年間、3世代乃至4世代にわたる王権発祥の地となったのです。

 水野祐が言うところの三王朝交代説の古王朝にあたる。三輪王朝といえるように思う。
「大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神天皇に始まる政権はこの地域を中心に成立したと推測でき、三輪政権と呼ぶことができる。」WIKI

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建物群から東に向かうと穴師坐兵主神社の鳥居がありました。明治の東洋史家内藤湖南の説によると中国の武神を祀っていると言います。
 
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穴師の里は、大兵頭神社とのゆかりが深い。そこかしこに神社名が出てくる。
なら農協纏向支店に柿本人麻呂の屋敷跡との標柱があった。
こんなところに屋敷跡があったのだろうかと写真を撮っていると、友人が、あの東の何とかという歌、柿本だよね、と言い出した。


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「ひむがしの野にかぎろいのたつ見えて 
かえりみすれば月かたぶきぬ」だね、あれは大宇陀の方なのだが。友人の一言は、私の記憶のドアを開いて次々出てくる。
半世紀以上前の授業の様子が甦ってきた。友人は、それを楽しんでいる。
 
箸墓古墳に向かった。歌碑がありました。


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「大坂に 継ぎ登れる  石群(いしむら)
   ()ごしに  越さば  越しかてむかも」
                       (『日本書紀』 崇神紀 作者不詳)
古墳を築いたとき大和川を遡った石材を民が手渡しで運んだ様子と解釈しました。
 
 
 三輪山の北西麓には「箸墓古墳」があります。全長278m、初期古墳の中でも最古級とされる3世紀半ば過ぎの前方後円墳です。
ここからの大和三山 耳成山、畝山が美しい。見えにくいですが、その後ろに二上山が見える。その向こうは河内、磯長谷。

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 三輪山を背景にした箸墓は、何処までも幻想的でした。
いよいよ明日はあの大神神社のご神体三輪山の磐座に登ります。

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 さて、「纏向遺跡と重要な山や古墳などとの方位・関係」について現地での印象をまとめてみましょう。下の模式図を見てください。
東に重要な山や古墳を配置しています。
まず古墳は鬼門の北東部に配置、先祖に守ってもらうのでしょう。
真東に太陽が上がる信仰の山纏向山、武神と鉄の神様の大兵頭神社は、最も大事な守りでしょう。
三輪山を南東に配置、むしろ纏向遺跡よりはるか前からの存在でしょう。後ろ盾とみられます。

このように東側は、守りの要塞を揃えています。南は開けています、その先に二上山、その向こうは、磯長谷、大阪。

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纏向遺跡の終焉の時期は、313年高句麗の南下に伴う朝鮮半島の動乱を迎え、倭国もこれに巻き込まれていきます。
国際軍事都市河内への遷都が始まるのです。西に展開していく姿が見えてきました。

 4世紀はヤマト王権がその勢力を拡大するため、地方に前方後円墳を造らせ、王権の傘下に組み入れようとした時代です。
平塚市最古の真土大塚山古墳(4世紀前半)もそのような状況で造られています。続いて4世紀後半になると逗子市に二つの大型前方後円墳が出現します。これも王権の下での造営と言われています。
このように東国に進出した王権の所在地が纏向だったのか、興味津々です。
百舌鳥・古市古墳群には4世紀後半から6世紀前半に造られた古墳が90基ほど現存しています。

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