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司馬遼太郎が書く出雲王朝
最近出雲王朝や出雲族に関することに触れる機会が多い。ヤマト王権に征服され、国譲りが行われたとされる出雲である。
これから紹介する司馬遼太郎「生きている出雲王朝」の読後に、この話をある知人としたところ、「私の一族も出雲族で天皇家に亡ぼされ、関東に逃げてきた」というのです。思わず言ってしまった当人も私もこれには驚いてしまった。ところが、続いて、出雲族だとこともなげに言う人が現れたのです。この人は神社関係者でしたから、そういうこともあるのかもしれません。
出雲国の長くて深い歴史が、今蘇っているように思えたものです。
 
加茂岩倉遺跡では、一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。先に発見され358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。」Wikipedia
神話だと思っていた事柄が、歴史的事実として目の前に現れたことで、研究者ならずとも、歴史の見直しを迫られているのです。
 
さて、司馬遼太郎「生きている出雲王朝」歴史の中の日本 所収 ですが、
出雲神族の末裔だという「カタリベ」として登場する人物、 「W氏」と名を伏せているが、生きている出雲王朝の当主である。T氏になるはずが、なぜW氏になっているのかは、司馬氏のお茶目、「Wの悲劇」を捩っているのだろう。
この「生きている出雲王朝」の初出は昭和363月の『中央公論』、という昭和40年以前のことなのだ。当時としては、この内容は天地がひっくりかえるほどのとんでもないものだったのだろう。
作品中では、「W氏」は大阪に住み、ある新聞社の地方部長として紹介されている。
司馬遼太郎の産経新聞社時代の同僚である、そう書かれていないのは、プライバシーを考慮してのことと思われる。
そして、W氏は元サンケイ新聞編集局次長を務めた人物だった。
出雲王朝のカタリベであり、大国主命の子孫にあたる、ある事情により一系統だけ残った。出雲は簒奪されているのです。W氏は第一次出雲王朝の残党であり、心理的に残党意識を持っているだけでなく、げんに、第一次出雲王朝を語り伝えるカタリベでもあった。
簒奪の事実をおもうとき、W氏はときに眠れなくなる夜もあると言う。
司馬は、W氏が語る伝承を、好意的に肯定的にとらえていると言える。
 
西村真次博士の『大和時代』を引用して、出雲族はツングース族だったのかもしれないとしている。
奈良という土地も、出雲王朝の植民地のようなものだったのだろうと司馬遼太郎は言う。
そして、母の実家であった奈良県北葛城郡磐城村竹内で少年時代をすごした司馬は、その地に伝わる長髄彦(ナガスネヒコ)の墓について、妄説にすぎないとしつつも、大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。と出雲王朝への思いを綴っている。
 
司馬遼太郎は「我々が持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和40年前後にほぼ滅びた」(『街道をゆく』)と評したが、この文化が滅びつつあるその時期に、この作品を発表した点に注目したい。
やはり文化の共通基盤が残っている今この時に発表するというかなりの覚悟をもって、発表したのだと思えます。
更に、出雲族をツングース族とした点は、司馬遼太郎が「最も敬愛する人」江上波夫氏の騎馬民族征服説への援護射撃だったとみられるのです。
この頃、騎馬民族征服説は否定される傾向にあったのです。

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